蒼と赤・ⅩⅠ
文字数 2,221文字
妖精の娘は久し振りの愛馬に駆け寄って頬ずりし、丁寧に補修された馬具を撫でて、兄の心遣いにジンとしている。
旅立つタイミングを逸した狼は、黙ってそれを眺めていた。
王も城壁に上がって来た。
馬はアルを乗せて何処かへ行ったんだと承知していたが、一旦死んだと言われた者の事は、敢えて聞こうとはしない。
小狼(シャオラ)は馬の手綱にくくり付けられていた紙を広げて読んでいる。
妖精の文字で書かれているので、テムジンには読めない。
しばらくすると、妖精の娘は紙を畳んで懐にしまい、フィと後ろを向いて、馬に跨がった。
「小狼?」
「久し振りだから、ちょっと飛んで来る!」
「おい、馬を休ませてあげなよ」
テムジンの言葉をよそに、久々の主を乗せた草の馬は、あっという間に空に滑り出した。
狼は去るのを少し遅らせる事にした。
彼は妖精の文字が読める。
全部が見えた訳ではないが……『呪い』『毒』『病』『手の施しようが』『余命』…………
そう、あの娘が健在なら、小狼への手紙は自分で、人間の文字で書くだろう。
(陰陽師は最後まで陰険な奴だった。あの娘に、自分から逃げた時の呪いを掛けていたか)
妖精の娘は今頃空の真ん中で、自分の不注意を悔やんで悔やんで声を振り絞っているのだろう。
帰った時俺まで居なくなっていたら……まぁ、可哀想だ。
***
小狼が城へ戻ったのは、陽も落ちて兵士達も寝静まった後だった。
二人に顔を向けないで、挨拶だけしてそそくさと自室に下がってしまった。
――それは本当にたまたまで、赤い狼と言えど、予測していた事ではない。
音もなく……本当に音もなく、壁の穴の空間が渦巻いて、すぅっと黒虎が出現した。
「アオイヨウセイ……アオイ……」
異次元に飛ばされた虎が、蒼い妖精への恨みの執念だけで、時を経た空間を繋げて、今ここに出現したのだ。
ベッドには目指す妖精が眠っている。
虎は爪から毒を滴らせながら忍び寄る。
「俺様は無視かよ!」
赤い狼が疾風のように黒虎に飛び掛かった。
虎は狼の首に噛み付いて背に爪を立てたが、狼は構わず虎を、出て来た渦の中へ押し返した。
「泣き疲れてやっと眠ったんだ。寝かせておいてやってくれ」
狼はチラと振り向き、ベッドの妖精が目を覚ましていないのを確認する。
相変わらず無防備な奴だ。もう俺は守ってやれんぞ……
そして満足げに口の端を上げて、虎と共に異空間に消えた。
***
大国からの使者を城壁から見送りながら、小狼は草の馬のたてがみを編んでいる。
テムジンがやれやれ顔で、肩を回しながらやって来た。
「しばらくは実戦にはならなさそうだ。一度本国に帰れるかも」
「王の家族もお喜びになりましょう」
結い上げた空色の髪を揺らして振り向いた妖精は、数ヵ月前まで鼻をたらして拗ねていた子供とは別人だ。
「小狼もさ、一度家族に会って来たら? 里へは帰れなくても外で会うぐらいいいんだろ?」
「……何故、急に?」
「いや、心配しているんじゃないかと思って」
「…………」
「心配するよね、残された者は」
小狼は馬のたてがみを編み終えて、最後に赤い毛を依った房飾りで纏めた。
「それ、奴の?」
「うん、御守り」
彼のいなくなった朝、何でか部屋に大量に散らばっていた。
何があったのかは分からないが、立ち止まっていないで前へ進めと言われている気がした。
遠くの稜線すれすれに、夕陽を透かして低い雲が重なっている。
朱に染まる雲を縫いながら、赤い戦神(いくさがみ)が駆けているように見えた。
~エピローグ~
草原を夕の風が渡っている。
蒼の長は風を紡ぎながら、草の馬でそろりそろりとに空(くう)を歩む。
懐に大切な壊れ物を抱えていたので。
数ヵ月前、何年も音沙汰の無かった妹の馬が草原の端に現れ、馬上の女性が懐妊しているとの報告を受けた時は、心臓が引っくり返るかと思った。
あの王をどうしてくれようとメラメラ燃えながら駆け付けたら、女性は妹ではなく見ず知らずの人間だった。
ボロボロに疲れきった、息も絶え絶えの女性。しかも呪いを受けていた。
里で保護したが、娘は何も語らなかった。名前すら。ただ妹の安否を訪ねた時だけ、息災です、と答えた。
呪いは毒を伴った物で、手遅れではあった。
それでも数ヵ月命を永らえたのは、腹の子に対する某かであったのか。
月の早い子をこの世に送り出すと、糸が切れるように逝ってしまった。
「長殿、人間の赤子は、蒼の里で育てるには障りがありましょう」
「そうですね。兵長が、当てを一つ教えてくれました」
地上に人間のパォが見え、柔らかな笑い声が聞こえて来る。
ここなら大丈夫。
長は今一度手の中の赤子を見た。
妹はどういう経緯であの娘を寄越したのだろう。
彼女が、薄くではあるが風の妖精の血を引いている事は知っていたのだろうか。
人外の姿が見えて声を聞く……テムジンのようでなければ、人間の間で生きにくかったに違いない。
この子供は、必ず自分が守護しよう。
成長したらどんな資質が現れるか分からない。
その時も、迷わぬように精一杯導こう。
何もしてやれない妹への手向けだ。
草の柔らかい所を選んで赤子を下ろし、鈴音で人間に呼び掛ける。
パォから出て来た男性が、最初驚いたがすぐに抱き上げ、暖かな室内へ駆け込んだ。
――お頼みしましたよ。
風に乗せて祝福を贈り、宵の星が一つ二つ煌めく空へ、長は手綱を翻(ひるが)す。
~蒼と赤・了~
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