ゴールデンウイーク二日目。
裾花清流高校のグラウンドには諏訪水照高校女子野球部がやってきていた。向こうから来てくれるのは、これまでの裾花清流の実績あってのことらしい。
諏訪水照っていったら緋田先生が最初に赴任した高校だもん。弱小だったところを先生がベスト4まで連れてったんだよ。3年目に最高戦績を出して、それからうちに来たんだ。
じゃあ、今は戦力が上がって強くなってるんですよね。
選手もうちより多いし、層も厚くなってる感じがするわね。
大丈夫。鈴の変化球は充分通用するよ。自信もっていこう。
な、なんか向こうの監督さん、すごく緋田先生を睨んでる気がするんですけど……。
選手たちも先生を睨んでるわ。過去に何かあったのかしら……。
そんなはずは……。だって先生は功労者のはずでしょ。
なんだぁ? 先生は無茶な練習させるタイプじゃないし、あんま厳しいことも言わないと思うんだけどな~。
裾花清流のメンバーが疑惑を持つ中、ホームベースの手前で、漆原礼と相手のキャプテン、新田涼音が正対する。
主審の指示で二人はジャンケンする――のだが、新田涼音は右手をうしろにやって、本格的に構えている。
はい、かけ声をいただければいつでも出せます。どうぞ。
新田涼音が絶叫しながら右手を出してきた。
礼がパー、涼音がグーだった。
あれはテンションのリミッターが切れてる人間だわ……。
ジャンケンの動きもキレが良すぎて逆に怖かったんだけど……。
知っている人もいると思いますが、諏訪水照高校は私が最初に指揮を執った高校です。ですが監督も変わっていますし、去年で私の教えた最後の選手たちも卒業しています。はっきり言って戦術はまったく読めません。序盤は様子を探りながら進めましょう。
スターティングメンバーはこれまでと同じだ。
1(二)一ノ瀬桜
2(三)水崎美晴
3(左)漆原礼
4(中)神村青葉
5(捕)岩見悠子
6(右)漆原優
7(一)赤羽夕日
8(投)新海澪
9(遊)天城奈緒
投手陣ですが、朝山さんは序盤から肩を温めて、いつでもいけるようにしておいてください。優さんも場合によってはいきますよ。
(最近の礼先輩、優ちゃんに対する口調がちょっと変わってきたような気がする……)
主審の声で両チームがベンチ前に整列した。
互いのキャプテンが声を出し、全員が走り出す。
ホームベースを挟んで対峙した両チームは、主審のコールで「お願いします!」と帽子をとって頭を下げる。
まずは裾花清流ナインが守備に散った。
さあ真冬さん! ぶちかましてきてくださいな!
(あの人、試合中ずっとあのテンションのままなのかな……)
一回の表、諏訪水照高校の攻撃は、1番、ショート、戸張さん。
戸張真冬が左打席に入った。
女子としてもかなり小柄なバッターで、構えも小さい。
新海澪の初球は外角へのストレートだった。
真冬が見送ってストライク。
澪は次もストレートを同じコースに投げた。真冬が振ってくるが、かなり振り遅れていた。これでツーストライク。
真冬さん! なに2球で追い込まれてるんですか! もっとねちっこくいやらしいバッティングを見せてください!
飛ばす力はないと判断し、澪は3球目もストレートを投じた。インコース低めの厳しいゾーンだ。
真冬が体勢を下げた。
1塁へ走り出しながら、バットの先端に器用にボールを当てる。
勢いの殺されたボールは、3塁線に絶妙に転がった。
澪と美晴がダッシュをかけるが間に合わない。真冬のセーフティーバントが成功した。
なんで微妙そうな顔してんの。今のはいいバントだったでしょ?
キャッチャーの湖山朱夏がなだめるように言う。
私は真冬さんにファールで粘って相手をイライラさせる役割を期待していたんです。なのに……
うっせーなー……出たんだからいいだろーがよー……。
疲れますよ、ぶっちゃけ。誰のせいだよって話ですけどね。
悠子はランナー真冬の動きを窺う。
リードはかなり大きい。足の速さもある。盗塁してきてもおかしくない。
捕球した瞬間、悠子は最小限の動きでファーストへ牽制球を放った。
真冬が慌てたように頭から戻る。
いいわ! いいわよ真冬さん! その調子でどんどん揺さぶりをかけなさい!
(いや……今のはマジで刺されかけただけだから……)
澪は気を取り直して秋村への投球を続ける。
キャプテンに呑まれて影は薄いが、向こうの監督はテキパキと指示を出している。
秋村は4球目のスライダーにうまく合わせ、送りバントを決めた。
(やばい、こんなに打席に立っててほしくないって思ったバッター初めてかも)
新田涼音は右バッターだ。
澪はその外角低めにストレートを投じる。
見送った。
主審の右手が上がってストライク。
打つ……私は打つ……うしろにつないで点を稼ぐ……その土台を作る……。それができなかったら私のいる意味なんて……ない、価値がない、生きてる意味が、ない、私に関わるすべてが無価値……でもそれってチームのみんなまで無価値になってしまうのかしら……いいえそれはありえない……価値がないのは私だけ……いえここで打てばすべて解決する話よ……。
なんか、悠子先輩が何度もこっち見てくるんだけど……。
もしかしたら、今日はアサちゃんの出番があるから気にしてるのかもしれないよ。
ホームから遠いブルペンにいる二人には、新田涼音のつぶやきなど聞こえない。なので悠子の視線の意味も理解できない……。
新田涼音への2球目。
外角へのスライダー。
涼音が見送ってボール。
続く3球目だった。
澪がモーションに入った瞬間――
悠子がサードへ送球するが、真冬がスライディングで一気に加速してベースに到達していた。塁審が「セーフ!」と両手を横に広げる。
(は、速い……! スライディングの伸び方が違う……!)
選手によっては、スパイクが地面に引っかかってスライディングで減速してしまう場合もある。だが、技量のある選手は滑り込むことで一気に距離を稼ぐのだ。
ふっふーん、揺さぶってやったよ。これで文句ないっしょ。
(あの……せっかくのドヤ顔ですけどキャプテンこっち見てないですよ……)
(こいつがぶつぶつ言ってるから全然集中できないよ。なんか澪のリズムも悪くなってる気がするし……)
ランナー3塁。返す、返す、返す、まず1点、先制点、最初の一撃で相手の出鼻をくじく、味方を勢いに乗せる……。
(いつもの悠子じゃない……。完全にペースを乱されてるわ……)
集中力へのダメージは澪にも及んでいた。
外を狙ったボールが真ん中寄りに入ってしまう。
涼音がバットを振り抜いた。
が、やや根本だった。
フライがレフト正面に上がる。
3塁ランナーの真冬はタッチアップの構えを見せている。
レフトの礼がフライをキャッチした。
同時に真冬がタッチアップのスタートを切る。
礼は落下点より後方からダッシュを始めていた。
そして捕球と同時に、ダッシュの勢いを利用して全力でホームへ返球する。
弾丸のような返球が伸びる。
ボールは真冬を追い越し、悠子のミットに収まる。
悠子はキャッチャーミットをわずかに左に動かす。ちょうどそこが、真冬の突っ込んでくるコースだった。
落下点よりちょっとうしろからスタートするんですね。
今の場合だと加速して勢いをつけなきゃ間に合わなかったから。最初から落下点にいるとボールが意外に伸びないのよ。
とても厄介な人だということはよくわかったわ。いったん円陣を組みましょう。
新田涼音は1塁を回ったところで棒立ちになっていた。
1点、にも、ならなかった……。私のフライが、浅かったから……?
キャープテーン。あれは相手がうまかっただけだから気にしちゃだめ――
私が打っていれば今頃は1点入って味方もさらに勢いづいて攻撃を続けて相手のエースをマウンドから引きずりおろして変わった投手を打ち崩して大量得点を挙げてビッグイニングを作って一気にコールドゲームを決めていたはず! 私が! 使えなかったがゆえに! すべての流れを断ち切ってしまった! ァァァ……。
頭を抱えてぐねぐね動いている相手キャプテンを、裾花清流メンバーは茫然と見つめていた。
内罰的ってやつですな。全部自分が悪いって思いこんじゃうんだ。
……ちょっと心配ですね。この試合のあと、向こうの監督から話を聞いてみます。
まあそれはそれとして! みなさん、しっかり佐竹さんを守ってあげましょうねー!
諏訪水照のエース、佐竹智花もすでに疲れた顔をしていた。
(まあ、誰もこんなことになるなんて思わなかったしねぇ)
(涼音をキャプテンに選んだ先輩たちがちょっと憎いわ。先輩たちにあの言葉を吹き込んだ女も……)
(今日は特にひどいな。向こうの監督があの緋田恵って聞いたから余計に空回りしてるのか?)
まあ、事情は知らんけど簡単には凡退してあげないよ~。
桜が左バッターボックスに入って構える。
相手の佐竹智花は最初からセットポジションだ。
(ここで失点したら涼音がさらに背負い込む。絶対抑えなきゃ)
佐竹智花は、緋田恵に一度視線をやってからモーションに入った。初球は外にはずれてボールになる。
恵は、相手選手たちの視線の意味に気づき始めていた。
(自分の教えた野球部がこんな形になっているとは……。おそらくキャプテンにかかっているのは、成績を維持し続けなければならないというプレッシャー。私の一言がこのチームを縛ってしまったのかしら……)
緋田恵は、諏訪水照から裾花清流へ転任する際、女子野球部にある言葉を残してきた。それを思い出していた。
――1回限りのベスト4ではまぐれ扱いする人も出てくるでしょう。勝ちを重ねていかなければ意味はありませんよ――