疑い6

文字数 1,831文字

正午
私は体を這う蒸し暑さで目を覚ます。首から伝わる温度。主婦らの井戸端会議。
郵便屋のエンジン音。今日は賑やかな寝覚めだった。
昨晩は体の内から煮えたぎる嫉妬と怒りの業火に身を裂かれそうなほど憤怒した挙句、しばらくの間は控えようと決めていたはずの暴飲を決行した。それゆえ私の頭蓋は割れる程の激痛を伴い、顔面を伝う汗、その面持ちは悪鬼に蹂躙された様な悪夢にうなされた事が伺える。
それもそのはず過去に想いを馳せた女性が幸せを掴んだと思いきや、その幸せは一瞬で塵となり灰と化した現実が無常にも彼女の想いを踏みつけた疑惑が漂うのだから。

昼過ぎまで惰眠を貪る事が出来るのも自営業ならではの特権だった。
結果は全て己に帰って来るシビアさが私にとって性に合ったようだ。元々私は怠惰な性格。並みのサラリーマンの方の様にリズム良く、周囲と協調し、己の成果を上げる。そんな器用な事は出来る人間ではなかったと東京での暮らしで身に染みたほど痛感したのだから。
恵助がお勤めだった東京時代は周囲との連携に上手く立ち回る事が出来ない唯我独尊とも言えた思考、思念が諸刃のごとく恵助を切り刻み、疲弊させていた。自分は間違えてなんかいないと。理論的な判断、戦略を練らずに毎日をこなす貴殿たちが愚かなのではないのかと。
身の程をわきまえない発言も多かった。先陣を切って物言いをしていたかのように思えた己の幻影はただのエゴイズムを猛々しく振りかざしたエゴに溺れた勘違いの愚者となった。
次第に恵助に寄る者は減っていった。その結果に恵助は牙をへし折られ、恥を隠し、東京から逃亡した。それが己の過ち。

今でこそ大きく感情を露わにする事は少ないがお勤め時代は頑固かつ自分の主張を善としていた独りよがりな己によってその環境を破壊し、自らを癌としてしまった事を今では不甲斐なく恥にも近い感情がシコリとして恵助の心中を時折抉った。
こうして一人で仕事をして日銭を稼ぐ中、恵助はひっそりと過去を戒める事があった。


人は本当の意味で独りにはなれない。誰かに助けて貰い、誰かに許されながら自分は生きている


この言葉が恵助の中に産まれたのもつい最近だった。
調査を進めていく中で一番とする依頼人、依頼人の苦痛を自らの足で解決へ導き、新たな道へ進む志高い瞳、確実な成果を得るために情報を提供してくれる他者。
下賤な仕事を生業とする自分を認めてくれる友人、家族。
恵助はこの街へ郷えり忘れつつあった人の心を、いつかは疎ましく思えたお節介な恩情に触れた事で氷の様に冷えきった無礼者の心にわずかな血の巡りを感じ始める事が出来ていた。
はじめは探偵なんてと蔑まれる事もあったが、やってみればわずかながらの成果を挙げていくに比例して恵助の周りにはココで暮らした少年時代より多くの人が恵助を慕い。時には恵助を頼りにオンボロのドアを叩くまでに至る事が出来た。
だからこそ今の恵助は縁に重きを置く事が出来たのだ。
だからこそ一度は永遠の愛を誓ったはずの人間、彼女の夫に憤りを感じ、その疑惑が彼女を蝕む起源となるのであれば自らの調査で彼女を救うと。彼女もまた幸せであって欲しいと。

勢いよくベッドから飛び降りシャツに手をかけた。
恵助は着たきり雀のように同じ服を何着も用意している。物欲はまだまだ身の程知らずと戒め。
薄いブルーのシャツとジャストサイズのデニムに着替えてデスクに着く。
この調査が報われなければ、自分はこれからどんな顔でこの街で生きていくのだろう。
ひとまずボルテージが上がりきった脳をミネラルウォーターで潤し、別の資料に目を向けた。
彼女の調査と並行して掛け持つ案件が有る為、まずはそちらを手際よく片付ける事にする。


「行方不明のペット探し」
ぶってりとした三毛猫。一昨日の未明から姿を見つける事が出来ない。
自宅マンションはオートロック式ではない為、隙を見計らい脱走した可能性がある。
飼い主の女性は一昨日、宅配などの来訪があった際に数回ドアや窓を開けた事がある事からいずれかのタイミングで脱走した可能性が高い。付近の住民にも声を掛けてみるが成果は無。
家猫は自宅から脱走した後、見たこともない景色に臆病となり案外近い所にいるとされる事から今日、または明日がタイムリミットと想定。

正直このタイミングでペット探しとは気乗りしないが依頼人の為に今日はこの炎天下の下。汗だくになってやろうと決めた。
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登場人物紹介

恵助 しがない探偵 主な仕事は浮気調査と人探し。 学生時代の初恋の女性を忘れずにいる。

桐  恵助の初恋の女性。今春年上の男性と結婚。とあることから恵助に依頼する。

晋  恵助、桐の友人。 隣県に移住した。妻子有。

文成  恵助、晋とは旧知の仲。筋肉隆々の男。

李依  桐の近所に住む学生。桐とは姉妹に近い程仲が良い。今どきの子らしく物言いが鋭い。恵助を疑う。

沢城 恵助にペット探しの依頼をした女性。恵助より2、3年上。ちょっと抜けてる?

一徳 桐の夫 疑惑の張本人。

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