神のシナリオ

文字数 2,336文字

 エリカは、大統領官邸内に割り当てられた3階の自室にて、ノートPCのウェブカメラに向き合っていた。クレムリンとの暗号化されたウェブ会議……会話の相手はプーチン大統領である。

 エリカは、天馬の担当を一任されて以来、プーチン大統領とは何も関係していなかった。アスタリアで起こったことの状況報告を、淡々とFSB本局に報告していただけである。ほかに目ぼしい関係といえば、イリーズ基地攻略の際に、『ロシアウィーク』を活用したちょっとした工作をエリカのほうからFSBに依頼したことくらいだろうか。

 だが珍しく急にFSB本局のほうから「会議の時間を取れ」と連絡が入ったのだった。そこで時間通りに自室にこもり、指定されたリンクからウェブ会議にログインすると、待っていたのがプーチンだったというわけだ。

 早速話し込んでいくと、プーチンは、CNMの経緯に並々ならぬ関心を寄せているらしかった。エリカがそこで起こった出来事を事細かく報告し終わると、それまで淡々と聞いていたプーチンが重々しく声を上げる。

ふむ。そこで君は何をしていた?
……何を、と申しますと?
なぜその3人を即座に撃たなかったのか、ということだよ。
 プーチンの事務的な口調。その抑揚のない問いかけが、かえって恐ろしい。
わ、私としましても、あくまで仮定としてはここでCNMの取材クルーを帰らせなくばどうなるか理解はしていたつもりです。殺さないまでも、一時どこかに軟禁する形で身柄を押さえ、アメリカ側には殺害を仄めかすという方法もあったに違いありません……。
聡明な君のことだ。そうした行為こそが、ロシアにとってベストシナリオになることくらい、瞬時に判断できたはずだが?
理解はしておりました……。

しかし私の独断で実行するにはあまりに重く、現場の勝手な暴走と受け止められかねない事柄でもありまして……。

私なら、帰りの車のなかで旅立たせていただろうな。
あのような最前線を担うCIA要員ともなれば、さすがに木偶の坊ではございません……。最後まで警戒を解くことはありませんでした……。

車内においては私が運転、助手席に1人、背後に2人……おそらく後ろの2人は銃を構えていたかと……。少なくとも車では殺害の機会は巡ってこなかったかと思われます……。

……。
力及ばず、申し訳ありません……。
フフフ、今の流れは半ば冗談だよ。優秀な要員に、少しばかり厳しいことを言って鍛えようとしただけだ。君の言う通り、そんな大それたことを独自の判断で実行できる要員などおりはしまい。だがもし君が実行していたら……2階級は特進していただろうがね。
…………。
FSBは、CIAのようなお役所ではない。自らが国家であるということを忘れるな。
はい……。
私からここで直々に通達しておくとしよう。次に機会が巡ってくれば、アメリカ人を捕えて軟禁せよ。そちらで確保できなくば、身柄は昏睡させて、こちらに送ってきてもいい。必要ならば、FSBのサポート要員を何人か派遣もしよう。
……畏まりました。
アメリカがわざわざこうして脅威を事前に偵察に来ているということは……ホワイトハウスの連中は、どうやらかなりの程度までオーレス撤退を真剣に考えているということの裏返しでもある。それはロシアにとってあまり面白いことにはならないだろう。ここは正念場だ。アメリカを本国に帰らせてはならない。
それくらいアスタリアが存在感を見せつけているということでもあります。

……これはCIAの者が最後に言っていた言葉ですが……アメリカ去りしオーレスに、天馬が君臨する確率は80%だということです。

フッ、アメリカ人らしいユーモアを加算した数字であろうがな。

だがまさかあの男が……。下手にアメリカや中国に奪われて兵器開発や人工知能開発に活用されるよりは、ロシアが身柄を確保しておくだけでも良しとしていたんだが……。

ひとつ提案させてください。私としては天馬を兵器エンジニアや科学者として確保するだけでなく、政治的にも担ぎ出し、本当にオーレスの実権を担わせてはと想定しています。さすればオーレスは、ロシアの影響圏としての地盤を確保もできるのではないかと。
ふむ。一つのシナリオとして排除するような話ではないが……しかし不動天馬は、ロシアの言いなりにはなるまい?
それは……その通りです……。
 エリカは視線をそむけた。誰よりも、そのことを痛感していたからだ。
ならばそのシナリオの有効性は限りなくゼロに近い。実際のところ、不動天馬はアメリカとの妥協もほのめかしている……。
……はい、ご報告した通りです。
オーレスはたしかにユーラシア大陸の中央に位置し、地政学的には要地に見える。だが強国を泥沼に引きずり込む死地であることも確かだ、捨て置け。

いま最優先すべきことは、オーレスにアメリカを張り付けておくこと、そして出来うれば、アメリカ軍がオーレスに大規模な軍を増派せざるを得ないような事態に陥るのが望ましい。

状況は、理解しています……。
ただし、もし不動天馬がそのシナリオにとっての癌になりそうなら、そのときは処理して構わない。こちらが不動天馬を確保しているのは、アメリカや中国に渡さないためというのが最大の目的だ。とすれば、亡き者にしてしまうことでも同じことが達成できる。
天馬には活用の余地が大いにあります。プーチン大統領、どうかそのシナリオの選択は、もう少し猶予を頂けないでしょうか?
あくまで国際情勢、アメリカの思惑、そして不動天馬の意思次第だ。ロシアにとって悪いシナリオなら、殺してしまう以外の選択肢などあるものか。
 プーチンの方針は揺るがないようだった。自分にとって最も苦痛に満ちた選択肢が浮上してきたことに、エリカは強く唇をかみしめた。
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登場人物紹介

不動天馬(ふどうてんま)

40歳ニートだが、自分を神だと主張して憚らない。引きこもり歴は実に25年にも及ぶ。近所のコンビニがライフライン。

エリカ・マリシェヴァ

25歳。ロシア連邦保安庁(FSB)の情報工作担当官。日本人とロシア人のハーフで、日本語に精通していたため、東京より呼び戻される。

イヴァ・クリチコ

15歳。アスタリア人を率いる族長。しかし亡き父を継がざるをえなかっただけであり、祖父である長老が実質的に部族を仕切っている。

プルト・カシモフ

32歳。前族長の副官として部隊を率いていた。14歳で従軍して以来、アスタリアの全戦闘に従軍してきた歴戦の兵士。天馬に反旗を翻す。

ライザ・フローレンス

24歳。世界最大級のリベラル系メディアCNMの報道特派員。無名の天馬に狙いを定めて取材を申し入れてくるが……?

ロスティスラフ・プーチン

64歳。ロシア連邦大統領。元KGBのエージェント出身であり、国際政治に多大な影響力を持っている大政治家。

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