第5話 心の闇

文字数 3,369文字

 その日は新人歓迎会の後に行われた2次会に参加したため、駅に着いたのは午前零時近かった。いつもは自転車を使って駅まで行っているが、今朝は大雨が降っていたため、徒歩で出勤したのであった。遅い時間のせいか、歩いている人の数は少ない。自宅マンションまで15分くらいの道のりを歩き出す。
漠然とした不安を感じながら、なるべく明るい道を選んで歩き始める。コンビニの前を通り過ぎた時、何気なく左に見える路地の奥を見た。そこだけ明るく光っている自動販売機の少し後ろに男の姿が映った。わざと自動販売機から少し距離を置き、自分の姿がはっきりとわからないようにしているのだが、その姿は間違いなくあの男だった。瞬間、エリカの身体に戦慄が走った。男は、こちらを見たまま動く気配はなかったが、それが余計、エリカを恐怖に陥れた。エリカは、震え始めた自分の身体に自ら力を入れ、早足で歩き出し、途中からは駆け出していた。
あの角を曲がれば、自宅マンションはすぐというところまで走ってたどり着いた。幸い、男はエリカをつけてこなかった。もう大丈夫。そう思って、角を曲がり、自宅マンションを視野に入れた。その時、エリカの瞳がとらえたのは、マンションの入り口の横に立つ男の姿であった。しかも、隣には、自転車がある。先ほどコンビニ横の路地で見た時には自転車は見えなかったが、男は自転車を使って先回りしていたのだろう。
男がエリカのほうに向け1歩踏み出した。同時に、男は胸に手を入れ何かを出し、それを右手に持ち替えた。その先が光っているのが確認できた。刃物を持っている。「ああ、私は殺される」
身体中の毛穴がいっせいに開く。この光景は何度か想像したことがあった。逃げなければと思うが、身体がすぐに動かない…
 
 あれは二年前のこと。
 男と女の出会いと別れに、特別変わったところがあったわけではない。ちょっとしたボタンの掛け違いと、別れ方が少し下手だっただけだ。男は、小山雅弘26歳、女は谷口エリカ24歳。
 出会いは、緑の匂いが胸に立ち込める爽やかな春の初めのころ。雅弘の勤める会社に契約社員としてエリカが入社したことからスタ-トする。当初2人に接点はなかったが、雅弘が新規プロジェクトのリ-ダ-となり、エリカがプロジェクトのメンバ-に選ばれたことで距離が縮まった。ともに仕事をする仲間という関係から恋人同士の関係に発展させたのは、エリカのほうであった。エリカは積極的であった。昼食を一緒に食べようと誘い、雅弘が残業をしているのを見れば手伝った。エリカのアプロ-チに乗る中で、雅弘の気持ちも徐々にエリカへと傾いていった。
 しかし、恋人同士になってからは立場が逆転した。雅弘のエリカに対する気持ちのほうがはるかに大きくなっていて、雅弘はエリカから嫌われることを恐れるあまり、エリカの機嫌をとることだけに心を費やしていた。
 そんな雅弘をエリカは嫌いになっていた。何度か注意したこともある。「そんな私の機嫌とりみたいなことばかりしないで」と。だが、そう怒ると雅弘は余計にエリカの顔色を伺おうとする。喧嘩をすることが増え、二人の関係は、どんどん冷えていった。そうした関係のまま同じ会社で働くのは良くないと思い、エリカは雅弘に相談することなく職場を変えた。だが、そのことが、二人の関係をさらに悪化させた。
 それから2か月後に、エリカは雅弘に別れを切り出した。
 
 エリカはエリカなりに何度も注意し、雅弘が元の姿に戻ってくれるのを待った。それでも、雅弘が変わらなかったので、別れを切り出した。女なりに十分に考えて出した結論である。
 しかし、雅弘にとっては突然の別れであった。エリカのほうから焚き付けておいて、それはないだろう。それに、エリカのことが好きだから、エリカのことを想い、エリカに合わせようとした。それなのに…。雅弘は、自分の気持ちを踏みにじられ、裏切られたと感じた。
 だが、雅弘もいきなりスト-カ-になったわけではない。「もう一度話し合いたい」と何回も連絡を入れている。だが、エリカはそれを拒んだ。エリカにとっては、すでに終わった恋だからだ。しかし、雅弘にとっては終わっていない。というか、終われていない。
エリカの無視が雅弘の気持ちを煽る。手段が徐々にエスカレ-トする。無言電話、執拗な付きまとい。
エリカは携帯を変え、着信拒否をする。それがさらに、雅弘のスト-カ-行為に火をつけた。エリカが仕事を終え、会社から出てくるのを待ち伏せする等々。
 もちろん、エリカは苦しんでいる。平穏な生活は一変し、どこへ行っても、何をやっていても雅弘気配を感じなければならなかった。精神は疲弊し、壊れそうになっていた。
 だが、雅弘も苦しんでいた。自分を無視し続けるエリカに、恐怖を与えることでしか、繋がることができないと思い込んでいた。だが、一方で、自分の行為はかえってエリカから自分を遠ざけるということもわかっていた。次第にエスカレ-トするスト-カ-行為は、自身の仕事にも影響を与えていた。仕事を抜け出して行っていたからだ。このままでは、自分がダメになる。頭の中では十分にわかっていた。だが、もう自分ではどうにも止められなくなっていた。心がいつも時間を遡っていたからだ。精神が完全に壊れていた。苦しい。抜け出したい。誰か助けてくれ。
 
 マンションの入り口の横にいた雅弘が刃物をエリカに向けて動き出した時、後ろから駆け出してきた女性が雅弘の前に出て、雅弘に当たった。女性の脇腹が血に染まった。その後から、さらに若い男が走りより、雅弘から刃物を取り上げた。
 エリカは、その一部始終を映画のワンシ-ンを見るように呆然と見ていた。
 
 女性は雅弘の母親であり、若い男は雅弘の中学時代からの友人であった。エリカはその友人という男から、雅弘の母親が入院している病院のことを知らされた時、見舞いに行くかどうか迷った。だが、行かなくてはならないと思い、行くことを決心した。思えば、自分の思いだけで別れを切り出したように思ったからだ。雅弘の心の底にあったものを取り出し、捨てる手伝いを何もしなかった。
受付で病室の部屋番号を聞き、向かう。手には花束を携えている。次第に緊張が高まる。部屋の前に着き、ドアをノックする。
「どうぞ」
聞きなれた雅弘の声がする。そっとドアを開ける。ベットの上で半身を起こし、こちらを見つめる小さな女性が目に入った。その横には、雅弘と、あの時、後から走り寄り、雅弘から刃物を取り上げた友人の男が並んで立っていた。その男が、エリカの花束を無言で受け取った。
 雅弘は、エリカの姿を見て、その場で頭を深々と下げ、
「本当に申し訳けありませんでした」
 と言った後、ゆっくりと頭をあげ静かにエリカを見た、その顔は憑き物が落ちたようにすっきりとしていて、以前エリカが好きだった時の顔に戻っていた。もうこの人は大丈夫だと思う。そして、エリカが部屋に入った時から、ずっとこちらを見ていた雅弘の母親が、エリカに声をかけた。
「エリカさん、私の息子が恐い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい。すべて、私が悪いの。いくら離れて暮らしていたとはいえ、私は息子が心の中で暗い想いを育てていたことを知りませんでした。私がもっと早く気づいていれば、あなたも、息子も、苦しめないで済んだと思います。私は、ここにいる雅弘の中学時代の友人から雅弘が危険な状態にあるかもしれないと知らされて、ようやく気づきました。私は、あの時、死んでもいいと思いました。息子に刺されて死んでも、あなたと息子を守ることができるのなら。エリカさん、命って、尊いものだけど、その尊さを分かってもらうためだったら投げ出しても、私はいいと思うの。エリカさん、あなたのことはよく知らないけれど、あなたのお母さんのために、命は大切にしてね」
エリカは、立ったまま、雅弘の母親の言葉を聞いていた。それは、自分の母親の言葉のようでもあった。心がふっと軽くなる。涙がこぼれないように、一生懸命に聞いていた。
 病院の中の喧騒をくぐり抜け外に出て空を見上げる。こんな広い空を見るのは久しぶりだと思った。
 











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