二十一

文字数 5,418文字


 ある夜、いつものように月の映る川面を眺めていると、男の声がわたしの耳に届いた。見ると、その男もホームレスのようだった。
「ここは、お長いんですか」
 いつかのわたしがしたのと、同じ意味の質問だった。
「いや、まだ新米です」
 相手の言い方が紳士的だったので、わたしは少しおどけた感じで答えた。「つい、ひと月ほど前に、ここにきたんで……」
 周囲のことは、あまり知らないんです――のつもりであった。
「そうですか。ということは、こういう形になりはったんのも、つい最近と……」
「そうですね」
「失礼ですけど、それまでは、どこに――」
「それまでは、嵐山にいました」
「え、嵐山ですか。それは奇遇ですね。わたしもつい、この間まで嵐山に住んでたんですよ」
「そうですか。確かに奇遇ですね。わたしの場合は、嵐山といっても嵯峨に近いほうなんですけどね」
「ほう。それやったら、なおさらやないですか。わたしは、油掛町に住んでたんですよ」
「なんと、これまた偶然ですね。わたしも油掛町ですよ」
「不思議な縁ですねぇ」
 声の調子で、男が眼を丸くしているのがわかった。「それこそ、他生の縁でもあったんでしょうか……」
「そうかも知れませんね」
 男は、わたしに親しみを覚えたようだった。
 話を聞くと、彼はわたしたちが住んでいたマンションと同じ町内で、夫婦二人のクリーニング店を営んでいたというのだった。裏返して言えば、同じ境遇の相手にどんな情けない身の上話をしたところで、恥にはなるまいという気持ちが働いたのだろう。
「そういうたら、ありましたね。小さなクリーニング屋さん。残念ながら、一度もお世話にはなりませんでしたけど……」
「バブルの崩壊後間なしに、脱サラして始めた店やったんですけど、あんまり儲からんもんで、なんとか挽回せなあかん思うて、ギヤンブルに走ってしもて……。
 それで、借金ばっかりこさえて、結局、女房には逃げられてしまいました。店舗つき住宅の二階に住んでたんですけど、根こそぎ借金の形に取られてしもて、ごらんのとおりの有様ですわ」
 まさか、就職先はなかったんですかと問えはしなかった。
 おそらく同年輩であろう彼に、新しい就職先がみつかろうはずがなかった。それは、わたし自身が痛いほどに実証済みだった。
「われわれの年代には、いい仕事は、なかなか見つかりませんもんね。まして住所がないんでは最悪ですよ」
 わたしは言った。一種の愛想遣いだったが、そうでも言わなければ深い溜め息と沈黙だけが続きそうだった。
「ところで、お名前は……」
 沈黙が続くかと思いきや、男が薮から棒に訊ねた。
「ああ、吉田といいます」
「村上です。なんとのう長い付き合いになりそうなんで……」
「そうですね。新米ですが、よろしくお願いします」
「いえいえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
 その日から、わたしとその男の共同生活が始まった。
 彼が加わったことで、日々の作業が楽になった。彼が集め終わったアルミ缶を、わたしが回収業者に持って行った。その間、彼は別の場所に移動し、空き缶集めをしておくという寸法だった。
 こうやって手分けすることで、作業も効率的になり、二人合わせて一日二千円以上の稼ぎになった。曜日によっては団地やマンションを重点的に回り、多いときには四千円近くもあるときがあった。
 そんなときは、自動販売機から熱いコーヒーとカップ酒を買ってきて、乾杯した。彼がカップ酒、わたしがコーヒーであった。
 一日――とはいっても、朝の六時から午後二時くらいの間だった。
 一応は八時間労働のようなものだったが、ハードな労働の割に労賃が安かった。一人頭の時給に換算すれば、百円と少しだった。
 しかし、これが一人でやっていた場合だと、おそらく百円にも満たないだろう。
 かといって、住居なし・連絡手段なし・資格なしの三無労働者に、これ以外の仕事は望めなかった。そうこうしているうちに、だんだんとわかってきたのは、いちいち缶を足で踏み潰さずに収集する必要があることであった。
 確かに缶を潰せば、体積も少なくなり、ビニール袋に入れる量が増えた。だが、音が出るので、住民には嫌われるし、踏み潰すのに時間もかかった。余計な労力も要ったし、二度とそこでは回収させてもらえなくなるリスクもあった。
 そんなことに時間を費やしたり、神経をすり減らしたりするより、短時間でいかに多くの回収ポイントを巡回するか。そしていかに回転率を上げるか。それが二人の、高効率回収の鉄則となった。
 しかし、もっとも気をつけなければいけないのは、回収した後のゴミ袋の処理だった。これを怠って放ったらかしにすると、次回からの回収は困難になる。なにはともあれ、住民に嫌がられない、きれいな回収の仕方を心がけなければならないのだった。
「お疲れさんでした」
 村上が言って、わたしが答える。
「今日は、収穫も多かったし、自分にご褒美いうことで、風呂にでも入って帰りますか」
「そうしまひょ。それで、帰りにいつものやつをきゅっと……」
「いいですねぇ」
 伏見は市内の中心部とは違って、結構、銭湯が散在していた。
 わたしたちは、週に一~二回は銭湯に入ることにしていた。シャツやパンツ、靴下など、小さい物は、そこで洗った。洗濯物はレジ袋に入れて持ち帰り、橋の下にぶら下げて乾かした。
 百円ショップには、シャツやパンツその他、細々した日用品からちょっとした食べ物まであらゆるものが売られていた。こんなものまで百円なのか、と驚かされるほど立派なものまであった。
 だから、日常生活では、そんなに不自由はしなかった。
 二人併せて一日二千円でも、空腹さえ我慢すれば、結構、賛沢な暮らしができた。というのも、家賃は要らなかったし、光熱費も不要だったからだ。要るとすれば、風呂代と週に一回ほど走らせるバイクのガソリン代くらいのものだった。しかし、それも月割りにすれば、百円も要からないはずだった。
 悩んだのは、寒い季節に向けての衣服の調達だった。
 だが、それも杞憂に終わった。というのも、意外にも古くなったジャンパーやコート、長袖のシャツなどがまとまって捨てられていたりするのであった。なかには、洗い立てのズボンやセーター、ジャケットなどをくれる奇特なご婦人もいた。
 食べ物も、夕方の七時半ごろにスーパーやコンビニに行けば、半額セールの弁当にありついた。二百円以内で買うことができた。いわゆる賞味期限切れの商品が、半分の価格で手に入るのだ。
 なかには、処分済みという名目で、そうした商品をただで頒けてくれる男子店員もいた。奇しくも、その男子店員は「明日はわが身やからね」と、かつて妻が口にしたようなことを言った。おそらくはその歳までフリーターをやり続けてきて、正規社員に雇ってもらう機会を失ってしまった青年なのだろう。
 むしろ、意地の悪いのは、わたしたちとそう変わらない年代の男たちだった。彼らは、わたしたちが並んで店に入ってくるのを見ると、あからさまに嫌な顔をした。わたしたちが、彼ら自身を映す鏡だということを知らない男たちだった。
 だが、わたしたちは評論家ではない。理屈を言っていても食えなかった。
 そのためにも、みすぼらしいのはいけない。
 清潔感が必要だった――。
 銭湯に行ったとき、わたしたちは、誰かが使い捨てたカミソリを使って、お互いの髪を短く、さっぱりとしたものにした。
 このカミソリは、毎朝の髭剃り用にもなった。
 だから、二人は、こざっぱりした年金生活者に見えた。
 しかも季節は、日焼けする夏ではなく冬であり、ホームレス独特の色黒さは二人にはなかった。
 村上と一緒に住むようになってからは、ひと仕事が終わるとすぐ図書館に行って書き物に専念した。風の吹く、寒い橋の下で凍えて書いているのとは断然、違っていた。
 彼もまた同じように、わたしと一緒に図書館にきて、新聞や書物に眼を通した。とくに新聞は、念入りに読んでいた。わたしが書き物に没頭しているのを知っているので、いま世間でなにが起こっているのかをわたしに教えるのが、彼の日課になっていた。
 二人とも早朝からの空き缶回収に疲れ果て、いつの間にか眠っているときもあった。そんなときでも、図書館員たちはなにも言わず、見て見ぬふりをしてくれていた。
 そんな穏やかな日々が続いた、ある日の午後のこと――。
 村上が読んでいた新聞を手にわたしのところへやってきて、ここを読んでみてというように小さな見出しの記事を指差した。
 わたしは、その指の示す先を見て息を呑んだ。
 そこには、殺された吉田美貴さんとのキャプションつきで、妻の顔写真が出ていたのだ。
 記事によると、妻は、いや、吉田美貴さん(61)は、台所のフロアに仰向けになって死んでいた。普段着姿で、着衣に乱れはなく、腕や膝などにも抵抗した跡はなかったという。 
 記事は、つぎのように続けていた――。
  *
 家賃の督促のため、大家さんが部屋に行き、吉田さんの遺体を発見した。ドアに鍵は掛かっていなかった。
 京都府警捜査本部と太秦署は首を絞められたことによる窒息死とし、死後十日ないし一週間が経っているとみている。
 吉田さんは、夫の栄一さん(59)が行方不明になってから独り暮らしを続けていたが、その淋しさからか、気が狂ったようになり、毎夜のように壁やドアを叩いたり蹴ったりして、意味不明のことを叫ぶので、近隣から苦情が出ていた。
府警では、隣室の男性が十日ほど前から姿を見せなくなっており、吉田さんの死に関して何らかの事情を知っているものとみて、この男性の行方を追っている。
  *
「この吉田美貴さんいうのは、ひょっとして……」
 わたしが読み終えるのを見届け、村上が囁くような掠れ声で言った。読書や調べ物をしている周囲に気兼ねしてのことだった。わたしは目配せと顔の動きで、彼にここを出るように促した。
 新聞を元の位置に戻した分、わたしより遅く出てきた村上の顔は明らかに動揺し、わたしを気遣っていた。
 わたしは、傍にあった花壇の縁に腰を下ろした。
 彼女の死は、ショックだった。
 ――というより、あまりに呆気なくて、信じられなかった。
 村上が眼の前にいなかったら、巧妙な夢を見ているのではないかと思ったほどだった。確かに彼女が自分を失ったとき、近所に迷惑をかける可能性はあった。だが、それが直接の死に結びつこうとは思いもしなかったのだ。
「どうしはりますのん」
 村上が心配そうに訊ねた。このころになると、二人は普段遣いの京都弁でやり取りをしていた。そのほうが、ぐんと気持ちが通じ合う気がしたからだった。「死後十日いう話ですさかい、いまさら遅いかも知れまへんけど、一遍、嵯峨に行ってみはったらどうです。なんか事情がわかるんちゃいますやろか」
「いや。事情はわかってるんや――」
 わたしは、自分の優柔不断さに歯がゆさを覚えながら答えた。
 行ってみたところで、得られるものは知れている。所詮は、わたしが棄てたことによって生じた死には違いないのだから……。
「どういうことです」
「いずれはこうなると、心のどっかではわかってた。けど、知らんふりしてた……」
「そうですかー。なんとも辛い話ですなぁ」
 村上は、天を仰いだあと、深い溜め息を吐いた。「ところで、新聞には、家賃の督促てありましたけど、奥さんは、なんですか、働いてはらへんかったんですか」
「というより、勤めさせてくれる先がなかった……」
「そやのに、置いてきはったんですか」
「ああ」
「ますます、やり切れん話ですなー」
「けど、自分の手で死なれるよりましやったかも知れん」
「棄てた人間からしたら、そうかもしれまへんな。なんとのうわかりますわ。けど、こんなことになるんやったら、せめて最期くらいは見届けてあげたかったですやろ」
「いまとなっては、そう思う。けど、その最期までもうちょっと間がある思うてたんや」
 事実、わたしはそう思っていた。こんなにも早く、彼女が死ぬとは思っていなかった。
 だからこそ、毎日、書き物に精を出していたのだ。これでは、なんのために書き続けてきたのかわからない。妻が読んで初めて意味をなす、もっともプライベートな小説なのだから……。
「奥さんは、どっか具合でも、お悪かったんですか」
「精神のほうが、ちょっと」
「やっぱり。で、病院には――」
「入れる金がなかった……」
「実を言うと、わたしの家内もそうやったんですわ。別れたもうひとつの理由も、それがあったんですけど、その後、小耳に挟んだ情報によると、別れてからはケロッとしてるらしいですわ。
 なんでも、わたしといること自体が問題やったらしゅうて、わたしとおらんようになったら、それっきり病気は治ってしもたいうんですな。
 女っちゅうのは、ほんま、現金にできてるちゅうか、奇っ態な生き物ですわ。ま、それとおんなじで、ある程度の情報がわかったら、気が晴れるいう場合もありまっせ」
「そうかも知れんな……」
 わたしは、村上の提言に従って、嵯峨に行ってみようと思った。
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