第1話

文字数 2,094文字

 バイクを走らせると砂煙が空高く舞い上がった。畦道のすぐ脇には海に注ぐ河口が広がっている。どこまでも続く荒れた大地に、茶色く濁った水と渇いた太陽。ベトナムの陽射しは容赦がない。
 特に昼時は観光客でなくても根をあげそうになる。こんな日はハンモックに揺られながら太陽をやり過ごすに限る。
 そんなことを考えながらしばらく走り続けていると、遠方に人の姿を見つけた。ボロボロになった笠帽子を被り、大きな白いシャツを着た小さな老人だった。湿地帯に足を踏み入れ、腰をかがめながら何かを探しているように見えた。
 俺はバイクを止めその様子をしばらくうかがった。どうでもいいという思いと、好奇心が胸をくすぐる。結局勝ったのは好奇心の方だった。
「じいさん、お宝でも落ちてたかい?」
 畦道の上からからかってやるつもりで声をかけたのだが、その老人は俺を見上げるとにっこりと微笑んだ。
「あんたのいうお宝とは何だね」
 俺はバイクのエンジンを止めた。おかしなことをいうじいさんだ。ひょっとして、からかわれているのは俺の方なのだろうか。
「なあ、ここじゃ魚一匹取れないぜ。食い物が欲しけりゃ市場にでも行ったほうがいい」
 老人は笑った。開いた口からは、歯が何本か抜けている。つられて笑いそうになったが、既(すんで)のところで我慢した。
 よく見ると、老人の手にはいくつもの小さな苗が握りしめられていた。何かを探しているわけではなく、苗を植えていたらしい。
 老人は俺に背を向けると、その苗を一本ずつ丁寧に植え始めた。そのそっけない態度は、まるでこっちへこいとばかりに誘い込んでいるようだった。
 俺は滑り落ちないよう、慎重に河口へと足を進めながら彼の側へと近寄った。
「それ何だい?」
「マングローブの苗だ」
「植物が育つような場所には見えないけどな」
 老人は腰を伸ばしてから額の汗を拭った。照り付ける太陽の陽射しがそれを受け止め、微かに光り輝く。
「ほんの数十年前まで、この辺りはマングローブの森に覆われていた。見る影もないのは伐採や戦時中の枯れ葉剤の影響だ。だかな、人の手によって壊されたのなら、また戻すことだってできる」
「そんなのほっとけばいつかは生えてくるだろ」
 やれやれといった顔で老人が首を振る。
「これは我々の責任だ。責任には義務が生じる。よく覚えときなさい」
 老人は手を休めることなく苗を植え続けた。
 えらそうに。口を開けばすぐに説教だ。これだから年寄りは嫌いだ。
 それにしてもマングローブは成長速度が遅いと聞く。そいつがたとえ大きな森になったとしても、彼がそれを目にすることはないだろう。なによりこの暑さだとじいさんが先にくたばっちまう。
「余計なことかもしれないが、無理はしないほうがいいぜ。こんな田舎じゃ、ぶっ倒れたところで誰も助けになんか来ないからな」
 聞こえているのかいないのか、老人は構わず苗を植えていく。息を切らしているのがここからでもよくわかった。だが笠の下から覗く口元は、どこか嬉しそうに笑っている。
 俺にはまったく理解できなかった。こんな人もろくに通らないような場所に森が出来たとして、一体誰が得をするのだろう。
 そして老人は、俺に背を向けたまま話しかけてきた。
「ある哲学者はこういった。地上のあらゆる物は、火、水、土、空気の四元素から構成されていると」
 哲学なんて言葉を持ち出されたので、俺はてっきりまた説教が始まるのかと思ったが、静かに彼の言葉を待つことにした。
「森はそういったものすべての象徴だ。そしてその循環が他の生命を作り出す。周辺には魚やエビ、貝類などが生息し、それを糧とする鳥達が集まってくる。そんな世界が戻るとしたら、喜び以外に何があるね」
 聞く耳を持たないとはこのことだろう。このじいさんには何をいっても無駄なような気がした。
 嬉しそうに苗を植える老人を眺めながら、俺はマングローブの森とそこに住み着く生き物を想像した。そのイメージは強烈な陽射しによってすぐに消えたが、立ち込める霧が晴れていくような清々しさを与えてくれた。
 額に手をかざし空を見上げる。陽がだいぶ高くなってきたようだ。しょうがねえな、俺はそうつぶやくと靴を脱ぎ捨て、湿原の中へと足を踏み入れた。別にマングローブの森を見てみたくなったわけじゃない。こんなところで息を引き取られたら、悪い夢にうなされそうだったからだ。
 俺の様子に気がついたじいさんは、例の笑顔を見せ苗を差し出してきた。人の気も知らずにいい気なもんだ。
 照り付ける陽射しの下での作業は想像以上に過酷なものだった。しかしこれだけの苦労も報われず、苗が育たなければどうするのだろう。俺は不安になりじいさんに問い掛けた。すると彼はためらうことなくこういった。それはただの結果だ、と。
「大切なのは我々の願いではなく、大地が森を必要としているかどうかだよ」
 正直、俺は納得がいかなかった。だがいつしか、俺達の植えた苗が大きな森へと成長したならどうだろう。そう考えると、自然と口元が緩むのがわかった。そのときはきっと、俺は心の底からじいさんに感謝できる、そんな気がした。
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