第1話 君は何のために生きている?

文字数 12,517文字

 高校入学の時点で将来の目標が決まっている人は少ないと思う。
 それよりも目先の人間関係、成績、部活、趣味、恋愛と、考えることが山ほどある。
 将来のことをじっくり考えている時間がないわけではないが、今の時点でそこまで悩むほどでもない。大抵の人はそんな感じだろう。
 別にそれを悪く言うつもりはない。
 むしろ、目先のことで夢中になれる人を羨ましく思う。
 なぜなら、僕にはその目先の目標すらないわけで……。
 引っ込み思案の僕に友達を積極的に作ろうという気概はない。なんとなくそのうち気の合う人と仲良くなれればいいな、と思っている。というか、友達とはそういうものだ。少なくとも中学まではそうだった。
 成績は中の上。
 どの教科も平均より少し上といったところ。がんばれば上位クラスに食い込めるかもしれないが、エリートの中の底辺になるくらいならこのままの方がいい。よって、勉強をがんばる気にもなれない。
 スポーツは好きではないので運動部に入る気はない。
 中学の頃はバスケ部でそれなりにがんばって練習したが、結局レギュラーにはなれず、ずっとベンチで応援するだけで終わった。正直、自分が出ていない試合の勝敗なんかどうでもいい。それでも、勝てば嬉しいフリを、負ければ悔しいフリをしなければならない。そんなのはもうごめんだ。
 趣味はゲームと漫画だ。
 ただし、オタクとかマニアとか言われるほどのめり込んではいない。いわゆるライトユーザーだ。ゲームは無料でダウンロードしたものを暇つぶしにやる程度で、課金してまでほしいアイテムを手に入れようとは思わない。漫画も無料で読めるネットが中心で、のんびり更新を待って飽きれば読むのをやめる。
 当然ながら、恋愛にも積極的に乗り出す気にはなれない。
 いつか気の合う人と自然な形で結ばれたらいいな、と思っている。フラれて、傷付いて、それを乗り越えてこそ青春だなんて冗談じゃない。僕の心臓は繊細なのだ。
 そんなわけで、今の僕にはこれといって熱中できるものがない。
 もちろん、このままでいいとは思っていない。せっかくの高校生活、僕だって何か熱中できるものがほしい。それも一人ではなく、仲間と一緒に成し遂げるような何かを。
 そうなると、やっぱり部活かな。
 言うまでもなく、競争社会の運動部は論外。登山やサイクリングなど勝敗のない競技もあるが、僕の運動能力では皆さんの足を引っ張りそうなのでやめておく。
入るなら文化部、それも競争概念のない部活がいい。
 幸い、この高校は全校生徒が一二〇〇人以上もいる学校なので部活動の種類も豊富だ。
 ここでならやりたいことが見つかるかもしれない。
 でも自分から行く勇気はないので、向こうから勧誘してほしいなぁ、と密かに期待していたりする。勧誘するということは歓迎してくれるということだから、よもや邪魔者扱いされることはないはず。文化部で競争概念がないという条件を満たした上で、僕を仲間として大事に扱ってくれるのならどこだっていい。どうせやりたいことがないのだから運命に身を委ねるのもありだ。
 今日は部活紹介及び勧誘活動の日。
 生徒用の玄関から校門へと至る通路には、ユニフォームやプラカードで部のアピールをする先輩方が大勢待ち構えている
ざっと見ただけでも百人以上。これだけいれば、人数が足りなくて廃部の危機に瀕している部も一つや二つはあるだろう。
 だったら、ぜひ声をかけてほしい。僕が救世主になってあげるから。
 なんてことを考えながら、他の一年生たち混じってお祭り騒ぎの中へと歩き進んでいく。
 まず、玄関付近を陣取っているのは運動部だ。
 ――バドミントン部、ハンドボール部、ラクロス部。
 この辺りは典型的な競争種目だから無理だな。
 そのまま運動部のエリアが続く。
 ――剣道部、柔道部、空手部。
 この辺りは一番行っちゃいけないところだ。
 ――ゴルフ部、ボウリング部、スキー部。
 この辺りなら比較的のんびりした競技だけど、いかにもリア充っぽい人が多いから精神的にキツそうだ。スキー部って冬以外は何するんだろう?
 やっぱり運動部はないな。向こうも、僕のような小柄で細身の人間では戦力にならないと思ってか、誰も声をかけてこない。それでいい。
 野球、サッカーなどの人気スポーツが見当たらない。その辺りは放っておいても勝手に集まってくるということか。まあ、高校から野球やサッカーを始める人は少ないだろうしね。
 それにしてもすごい活気だ。左右前後から、ひっきりなしに先輩たちの誘い文句が聞こえてくる。時々、耳をつんざくような気合や、奇声のような叫びも聞こえてくる。
 マイナーな部にとって勧誘活動は公式戦並みに重要なのだろう、テンションがヤバい。
 正直、ああいったノリにはついていけない。
 道程の半分が過ぎ、運動部のエリアが終わった。ここまで勧誘された回数はゼロ。
 でも僕にとっては、ここからが本番だ。
 軽く呼吸を整えつつ、文化部のエリアへと進む。 
 こちらも活気があることに違いはないが、運動部と比べれば幾分穏やかだ。向こうみたいに「戦力を確保する」のではなく「一緒に活動する仲間がほしい」という空気が伝わってくる。やはり僕にはこちらの方が合ってそうだ。
 先輩の皆さん、心の準備はできています。いつでも声をかけてください!
 僕は緊張しながらも、表情が固まらないよう注意して歩く。辛気臭い顔をしていては声をかけづらいと思うので、にこやかな表情であちこちに目を向ける。
 運動部ほど必死ではないが、やはり新入部員の獲得は重要なイベントらしい。
 道行く一年生たちが、次々と祭りの中へ溶け込んでいく。
 勧誘される側の人数が減れば、必然的に声がかかる可能性が増えていく。
 次は僕だ。
 勧誘を断った人が通路に戻ったり、後ろを歩いていた人が追いついてきたりで、またライバルの人数が増える。でも、それは一時的なこと。徐々にライバルは減っていくはず。
 次こそは僕だ。
 少しして、ライバルが減る。
 次こそは――
 また増える。
 次こそ……。
 僕は亀のようにゆっくり歩きながら、先輩方に熱い視線を送る。
 それでも、来ない。
 いくらなんでも一度くらいお声がかかってもいい頃合なのに、なぜか僕のところには一人も来ない。
 ……おかしいぞ?
 ひょっとして、僕が一年生に見えないのだろうか? 
 いやいや、そんなはずはない。
 僕は老け顔なんかじゃないし、背も低いから年上に見られることはまずない。制服だって真新しい。一目で一年生と分かる緑色の校章も付けている。そういった勘違いはあり得ない。
 ではなぜ? 
 なぜ僕だけが無視される?
 ただの偶然?
 これだけ大勢の人が新入生を取り合っている中で、そんなことが起こりうるのか?
 ひょっとして、僕は夢でも見てるのか? それとも幻覚? 
 実は、僕はもう死んでいて、地縛霊にでもなってさまよっているのか? 
 じゃあこの記憶はなんだ? この身体はなんだ?
 感触もある。風も感じる。
 これがすべて幻だとでもいうのか?
 そんなくだらない妄想をしているうちに、ついに一度も声をかけられることなく、校門まで来てしまった。
 そんな……。これが僕の運命なのか?
 通行の邪魔にならないところで立ち止まり、恐る恐る喧騒を振り返る。
 確認するまでもなく、校内は先ほどまでと同じお祭り状態だ。
 僕には、その光景が別世界のように見えた。
 まるで映画みたいだ。
 僕は単なる傍観者であって、その世界の出来事には参加できない。そんな感覚。
 でも、認めたくない。
 こんなものは錯覚だ。勧誘されなかったのだって偶然に決まっている。
 そうだ、忘れ物を取りに行くフリをして一度引き返そう。
 そしたら今度こそ――
「そこの君、ちょっといいかな?」
 不意に横から、大人っぽい男性の声がした。
「はい?」
 僕は半ば反射的にそちらを向く。
 ネクタイピンを付けているので一瞬だけ先生かと思ったが、よく見ると同じ制服姿の男子生徒だった。
 でも、本当に高校生なのかと疑ってしまうほど大人っぽい雰囲気だ。
 ファッションモデルのように長身でスラリとした体型。癖のないサラサラな髪。目付きは若干キツい感じがするものの、黒縁の眼鏡がそれを緩和し、いかにもエリートといった雰囲気を醸し出している。青色の校章を付けているので二年生の先輩だ。
 ということは、ようやく僕にもお声が!
「な、なんでしょう?」
 つい声が弾む。
 ところが、その先輩は真顔でこんなことを言う。
「君は何のために生きている?」
「え?」
 僕は首を傾げた。
「おや、聞き取れなかったかな? ならばもう一度尋ねよう。君は何のために生きている?」
「ええと……」
 ワケが分からない。部活動の勧誘じゃないのか?
 いきなりそんなこと聞かれても……。
「すみません、よく分かりません」
 僕は正直に答えた。
 すると、その先輩は眉をひそめ、困ったような表情をする。
「なぜだ? 自分のことだぞ?」
「そう言われましても……」
 分からないものは分からない。
 先輩は「やれやれ」といった感じで小さく肩をすくめた。
「まあいい。ところで、君はここで何をしているのかね?」
「別に、ただ帰ろうとしていただけです」
 答えると、先輩の眼鏡の奥にある鋭い目が、さらに鋭くなる。
「そうかな? 何か迷っていたように見えたが?」
 うっ、見抜かれていたか。
「それは……。部活どうしようかなと思って」
「まだ決まっていないのかね?」
「はい」
「決まっていないのに、見学もせず帰ってしまってはまずくないかな?」
 確かにそのとおりだ。この学校には、一年生の時は必ずどこかの部に所属しなければならない規則があるので、諦めて帰るという選択肢はない。
 でも、勧誘されるのを待っていたとは恥ずかしくて言えない。
 僕は答えをはぐらかし、逆に質問する。
「あ、あの、もしかして、先輩は部活の勧誘をしてるんですか?」
「ん? それ以外に何がある?」
 先輩は目を丸くして、さも当然かのように聞き返してきた。
「いや、だって、どんな部活か聞いていなかったので」
 勧誘してくれるのは嬉しいが、まず何部なのかを言ってくれないと困る。それなのに、肝心の第一声が「君は何のために生きている?」である。人によっては馬鹿にしているのかと思われてもおかしくない発言だ。
「ふむ……。言われてみればそうだな」
 先輩は顎に手を当てて、一瞬だけ僕から目を逸らした。
 やっと気付いたらしい。
 この先輩、知的そうな見た目に反して中身は残念な人かもしれない。
 もちろん、そんな失礼なことは口にも表情にも出さないが。
「それで、先輩は何部なんですか?」
「男子哲学部だ」
 先輩は僕に配慮してか、少しゆっくりめにハッキリと部活名を言った。
 それでも、聞き慣れない言葉に僕は小首を傾げてしまう。
「男子、哲学? 男子だけの部ってことですか?」
「そうだ」
 文化部で男女別の部があるとは思わなかった。運動部なら、同じ競技でも男子と女子に分かれている部はあるけど。どうしてだろう?
 哲学には男子と女子で違いがあるのだろうか? その前に哲学って何だっけ? 
 よく聞く言葉ではあるものの、内容は漠然としか知らないので尋ねてみる。
「哲学って何をするんですか?」
「良い質問だな」
 先輩は少しだけ口元を緩めた。
「哲学とは、簡単に言えば、物事を深く考えることだ。人生とは何か? 善悪とは何か? なぜ世界は存在するのか? そうした、身近でありながらつい忘れがちな『事の本質』を突き詰め、議論する」
「議論して、それからどうするんですか?」
「考えを実践することだ。口先だけの哲学に意味はないからね。哲学を通して世界をより良いものに変えていく。それが我が男子哲学部の目標だ」
 先輩は一片の迷いもないまっすぐな目で、堂々と言い放った。
「せ、世界を変える、ですか……」
 ずいぶんと壮大な話だ。この人は神にでもなるつもりか?
 どう返したらいいのか分からず戸惑っていると、先輩は小さく苦笑した。
「勘違いしないでくれよ。世界を変えると言っても、まさか世界征服を目論んでいるわけではない。そんなことをしなくても、自分自身の世界観を変えれば世界は変わる。つまり、変わるのは君だ。君の考え方だ。そういう発想に興味はないかな?」
「僕が?」
「そう。君は世界を変えてみたくはないかね?」
 低く深みのある声。冗談でこんな声を出す人はいない。
「僕が、世界を……」
 もちろん、変えられるものなら変えたい。夢も希望も目標もない、僕の縮こまった世界を。
 哲学を学ぶことで、それができるかどうかは分からない。
 でも、僕に声をかけてくれた。
 現実と夢想の狭間でたった一人さまよう僕に、手を差し伸べてくれた。
 それだけで嬉しかった。
 僕は長身の先輩を、まっすぐ見上げる。
「先輩の話を聞いて、僕も哲学に興味が湧いてきました。よかったら体験入部させてもらえませんか?」
 そうお願いすると、先輩は得意気な表情で大きく頷いた。
「もちろんだ。君を我が男子哲学部に招待する。――おっと、自己紹介がまだだったな。私は男子哲学部部長、小乗龍樹(このりりゅうき)だ」
 わ、私ときたか。
 高校生男子でその一人称を使うとは、やっぱりこの人ただ者じゃないな。
 まあ、高校生になって自分を〝僕〟と言う男も少ないだろうけど。
「鹿内光流(かないひかる)です。よろしくお願いします」
 名乗りつつ、僕は軽くお辞儀をした。
「では、付いてきなさい。部室へ案内しよう」
 小乗先輩が優しく手を差し伸べてくれる。今度は、ハッキリ目に見える形で。
「はい」
 この瞬間、僕は本当の意味で高校生活の第一歩を踏み出すことができた。
 入学式から早十日が経ち、桜の花がすっかり散ってしまった頃、ようやく。


 この高校は部活動の数が多いだけあって部室も多い。
 四棟ある校舎のうち、最も南側に位置する校舎の四階に、文化部の部室がズラリと並んでいる。
 ――文芸部、新聞部、天文部、手芸部、将棋部。
 この辺りは定番だ。
 ――鉄道部、百人一首部、落語部。
 こういっためずらしい部もある。
 ――格闘漫画研究会、異世界系ライトノベル研究会、アクションRPG研究会。
 こんなマニアック部まであるのだから驚きだ(分類が細かい!)。
 要するに、生徒の自主性を重んじるという名目で好きにやらせる緩い校風である。中には、ほとんど活動らしい活動はせず、ただの溜まり場になっている部もあるのではなかろうか。
 男子哲学部がそうでないことを祈る。どちらかというと僕は真面目に活動したい。
「ここだ」
 四階の端の方にある部室の前で、小乗先輩は足を止めた。
 扉の上部にある表札には『哲学部』と書かれている。『男子』の文字はない。
 書き忘れ? 発注ミス?
 事情分からないが、そんなことより今になって緊張してきた。
 男子哲学部には他にどんな部員がいるのだろう。あまり大人数だと困るな。できれば五人くらいがいいんだけど……。
 扉を開けた小乗先輩に続き、部室に足を踏み入れる。
 まずはこちらからあいさつを――と思いきや、中には誰もいなかった。拍子抜けすると同時に、少しホッとしてしまう。なぜだか、ちょっとだけ延命した気分だ。
 部室の広さは教室の三分の一くらい。中央に長机が二つ、パイプ椅子がそれぞれの机に二つずつ、向かい合って会議をするような形で置かれている。扉から見て右手の壁には大きなホワイトボード、左手の壁際にはロッカーと本棚二つ。本棚には哲学書と思われる本がびっしりと並んでいた。
 文化部の部室を見るのは初めてだが、思っていたよりちゃんとしている。てっきり私物がたくさん置いてあると思っていた。これなら他の部員も真面目な人たちに違いない。
「まずはここに座ってくれ」
 小乗先輩が親切に椅子を引いてくれる。
 僕はお礼を言ってから着席し、それから気になっていることを聞いた。
「あの、他の皆さんは勧誘活動に行ってるんですか?」
「いや、部員は私一人だ」
「え……!」
 僕は慌てて立ち上がる。
「それってまずいんじゃないですか? 確か規定では、最低四人はいないと部が成立しないはずじゃ?」
「そうだ。四月中に四人揃わなければ男子哲学部は廃部だ」
 小乗先輩は向かい側の席に回って腰掛けた。まるで焦った様子がない。
「どうした? 遠慮せず座りなさい」
 再び座るよう手で促してくるが、それどころではない。
「いや、それより、勧誘活動に行かなくていいんですか? 早くしないと、新入生がいなくなっちゃいますよ!」
 ようやく新しい一歩を踏み出した矢先にこれだ。
 しかし、小乗先輩は平静を崩さない。ピンと背筋を張ったまま、こちらを見上げてくる。
「そう慌てるな。勧誘は後でいい。今はもっと大事なことがある」
「なんですか、大事なことって?」
 早口で聞く。まだ正式な部員でない僕の方が慌てていた。
「ここで哲学の議論をすることだ。君はそのためにここへ来たのだろう?」
 先輩は、あくまでも落ち着き払った姿勢。
「それはそうですけど、廃部になっちゃったら体験入部する意味がないじゃないですか。先に部員を確保しないと……」
「だからまず一人目を確保するのだよ」
「それって僕のことですか? だったら気にしないでください。僕はもう、人数さえ揃えば入部することに決めましたから」
 どうせ他に当てなんかない。またあのお祭り騒ぎの中に戻って一からやり直しだなんて、考えるだけでもゾッとする。こうなった以上、ここで部員を集める方が現実的だ。
 まだどこにも入部していない生徒だっているだろうし、他の部と掛け持ちしてくれる人がいるかもしれない。最悪、幽霊部員だっていい。
 だが、そこまで言っても、小乗先輩は席から立とうとはしなかった。
「気持ちはありがたいが、私は頭数がほしいのではない。共に哲学を学ぶ仲間がほしいのだ。仮に人数が集まったとしても、後で抜けられては意味がない。だから、まずは君だ。私は君に哲学を体験してもらいたい」
 率直で飾り気のない、まっすぐな視線。
 普通に考えれば、ある程度人数を集めてからまとめて体験入部をさせた方が、効率が良いに決まっている。でも今、この人は僕だけを見ている。僕のことを部員や新入生という記号ではなく、鹿内光流という個人として見てくれている。知り合ったばかりの人間に対して、これほど真摯に接してくれる人が今までいただろうか。
 そんな彼に反論などできるはずもなかった。
「わ、分かりました。そういうことなら、先に体験入部の方をお願いします」
 僕は胸の高鳴りを感じながら、再び席に着いた。


「それでは、今年度の第一回哲学議論を始めるとしようか」
 小乗先輩はピンと背筋を伸ばし、机の上に腕を重ねるようにして置いた。
 僕も背筋を伸ばして議論に臨む。
 高校生になって初めての部活動だ。たとえ体験入部でも先輩と一対一で向き合う以上、手抜きは許されない。今はまだ哲学のことはさっぱりだけど、できる限り先輩の知識を吸収できるように努力しよう。
 意気込んだところで、導き手であるはずの小乗先輩が尋ねてくる。
「議題は何がいい?」
 え、用意してなかったの?
「ええと、いきなりそう言われましても……」
 未経験者の僕に思い付くはずがない。
「難しく考える必要はないよ。普段気になっていること、疑問に思うこと、理不尽だと思うこと。なんでもいい」
「う~ん……」
 なんでもいいと言われると選択肢が多過ぎてかえって迷う。
 人は自由を求める生き物だが、自由過ぎても困るという側面があって……。
 あ、これ、けっこう哲学的だな。
 ――自由とは何か?
 ……なんだろう? 
 自由は自由だ。自分の意思で何でもできること。それ以外に何がある?
 う~ん、初めての議題にするには難易度が高いかな。
 しばらく、視線を宙にさまよわせていると、先輩が助け船を出してくれる。
「では、悩み事ならどうかな。成績でも進路でも人間関係でも、何かしら悩みはあるだろう?」
 それならある。たくさんある。
 パッと思い付く悩みといえば、僕にはこれといって熱中できるものがないことだ。
 でも、それについては哲学が熱中できるものになるかもしれないので、別の悩みを打ち明けてみる。
「それなら、将来の目標のことで悩んでます」
「ほう、どんな悩みかな?」
「目標がないのが悩みです」
「なるほど。では、本日の議題は『将来の目標』にしようか」
「はい」
 返事はしたものの、本当にそれでいいのかと思う。哲学の議論というより、お悩み相談室になってしまわないだろうか。まあ、それはそれでありがたいのだが……。
 初心者の僕があれこれ考えても仕方ない。ここは小乗先輩を信じよう。
「では、議論を始めようか」
 心なしか先輩の声に緊張感が走る。
 勝敗はなくとも、試合に臨むのと同じ姿勢だ。
「まずは確認しておきたい。君の言う将来とはいつのことかな?」
「え……」
 いきなり意表を突く質問だった。
 言われてみれば、将来という言葉に明確な時期はない。
 将来っていつだろう? 将来になっても「将来は~」と言ってそうだ。
「ええと……」
 少し悩んだ後、とりあえず思いついたことを口にする。
「大学を卒業した後です」
「つまり、大学に進学するところまでは決まっているわけだな」
「絶対ではありませんが、おそらく」
「具体的な志望校や学部は?」
「ありません。なんとなく大学に行った方が就職に有利かなと思ってるだけです」
「文系か理系かの選択は?」
「それも絶対ではないですけど、たぶん文系です。数学が苦手なので」
「そうか。ぼんやりとではあるが、先は見えているようだね」
 先輩は表情を緩め、肯定的な言い方をしてくれた。ちょっと嬉しい。
 ひと呼吸置いた後、先輩の質問が続く。
「では具体的な目標はひとまず置いておくとして、『こんな風に生きたい』『こんな生活を送りたい』といった希望はあるかな?」
「そうですね……」
 職業ではなく、そうした漠然とした希望なら思い浮かぶ。
「できれば穏やかに生きたいですね。あまりガツガツした競争社会みたいなものには巻き込まれたくないです。お給料はそんなに高くなくていいから、ちゃんと休める仕事に就きたいですね」
「ほう」
 小乗先輩は感心するように声を上げた。
「なかなか立派な考えを持っているじゃないか。それが君の哲学というわけだ」
「え、今のが? ただ穏やかに生きたいって言っただけですよ?」
「代わりに給料が高くなくていいとも言った。私は、そういう割り切りができる人間は立派だと思う」
「そ、そうですか……」
 初めてだ。立派だなんて言われたのは。
 胸の奥が熱くなってくる。哲学、いいかもしれない。
 ――と浮かれるのも束の間、小乗先輩は難しそうな表情をする。
「だが現実問題として、競争に巻き込まれず生きていくのは難しい。少なくとも一般企業ではほとんど無理と言っていいだろう。市場経済は競争の上に成り立つものだからな」
「え、そうなんですか? 企業って競争しなきゃダメなんですか?」
「ダメではないが、好むと好まざると競争相手は向こうからやってくる。地域や職種によっては奇跡的に何十年も独占状態が続くこともあるかもしれないが、通常は不可能と言っていいだろう」
 初めて知った。そんなこと授業では教わらなかった。
 でも、まだ選択肢はある。
「企業がダメなら、公務員はどうですか?」
 聞くと、先輩は顎に手を当てて、また難しそうな表情をした。
「公務員といってもいろいろある。警察官や消防士は危険と隣り合わせの仕事だ。学校教師も激務と聞く。となれば、お役所仕事しかあるまい」
「役場の職員ですか?」
「そうだな。そこで出世さえ望まなければ、比較的競争のない穏やかな生活が送れるかもしれないな」
「そっか、お役所仕事かぁ」
 帰ったら早速どんな仕事か調べてみよう。お役所仕事、いいかもしれない。
 まさか、こんなに早く具体的な目標が見つかるとは。
 また胸の奥が熱くなってくる。
「だが、競争率は高いぞ」
 率直な言葉と鋭い視線が、同時に僕を突き刺した。
 高まった熱が一気に冷める。
「え、そうなんですか?」
「当然だろう。君と同じ考えの人間は他にもいる。まして、今は不況の時代だ。公務員の人気は高い」
「じゃあ、結局は激しい競争を勝ち抜かなきゃいけないってことですか?」
「そうなるな」
「でも、そこまでがんばれば、後は安心して生きていけますよね?」
 僕の希望的予測を、小乗先輩はフラットな表情であっさり否定した。
「いや、そうとは限らないぞ」
「どうしてですか?」
 僕は席から身を乗り出すようにして聞く。
「公務員なら一般企業と違って倒産することがないから、絶対安心でしょう?」
「絶対ではない。日本政府が崩壊すれば公務員はもれなく全員解雇だ」
「は……?」
 また突拍子もないことを真顔で言うから、すぐには理解が追いつかなかった。
「そ、それは、いくらなんでも考え過ぎでは?」
「なぜだ?」
 先輩は鋭い切り返し。
「なぜって、政府が崩壊するなんてあり得ないでしょう?」
「その根拠は?」
 また鋭く切り返される。
「根拠も何も、政府が崩壊するわけないじゃないですか」
「そうか、根拠はなしか……」
 小乗先輩は残念そうに息を付き、小さく視線を落とした。
「いけないな、根拠もなしに物事を決め付けてしまっては。それは文明人のすることではない」
「む……」
 いくら先輩でもその物言いはない。
 僕は口を尖らせて先輩に問う。
「じゃあ、政府が崩壊するという根拠はあるんですか?」
「ある」
 即答だった。すごい自信だ。
 先輩は熱くなることなく、淡々と説明を始める。
「別に驚くほどでもない。根拠は歴史の中にある。古来どれほどの栄華を誇った国も王朝も、やがては衰退し滅びの道を辿っている。それなのに、なぜ今の政府だけは滅びないと言い切れる?」
「ぅ……」
 僕は声を詰まらせる。反論できない。
 小乗先輩は冷静なまま続ける。
「かつて江戸幕府が滅びた時、多くの武士はお役御免となって没落した。当時の武士は今でいう公務員のようなものだ。つまり、政府が滅びれば公務員が没落することも既に証明されている。それでもまだ、公務員が安定していると言えるかね?」
「ぅぅ……」
 言えない。
 歴史を例に出されるとは予想外だった。日本史は得意な方だが、これだけ応用の効いた発言に対抗できるほどの知識はない。
 僕は苦し紛れに返す。
「でも、絶対ではないというだけで、一般企業より安定した職であることに違いはありませんよね。先輩の言うとおり、いつかは政府が崩壊するにしても、そんなの当分先の話でしょう?」
「その当分というのは、いつのことかな? 最低でも君が定年を迎えるまでは崩壊しないと言い切れるのかな?」
「たぶん、それくらいは……」
「その〝たぶん〟の根拠は?」
「ぅ……」
 ついに言葉が出なくなってしまった。
 まただ、また根拠。
 そんなものはない。なんとなくそんな気がするから、そう言っているだけだ。
 それでは、まともに反論できないことを思い知らされ、何も言えなくなった。
 先輩は、ふと表情を和ませた。ピンと伸びていた背筋を背もたれに預け、リラックスするように軽く息を吐く。
「その話を突き詰めるのはよそうか。いきなり論争を仕掛けるようなことをして悪かったね。でもこれで、議論には根拠が必要だと分かってもらえたのではないかな?」
「はい、それはもう」
 多少へこまされはしたが良い経験をした。
 議論という言葉の意味が初めて分かった気がする。
「話を戻そうか」
 先輩の表情と姿勢が再び張り詰める。
「もちろん、私は公務員志望を否定するつもりはない。安定を第一条件にするのも立派な目標だよ。しかし、それが君の言う『将来の目標』でいいのかな?」
「う~ん……」
 将来の目標が安定した生活を送ること? それはちょっと違う気がする。
「では職業の他に何かやりたいことはあるかな? スポーツでも趣味でも恋愛でもいい。生きていく上で、君がやりたいと思うことは?」
「ぅぅ……」
 結局、そこに行き着くのか。
 哲学がやりたいこととは今の段階ではまだ言えない。つまり、何もない。
 僕がうつむいていると、先輩が優しく問いかけてくる。
「もしかして人には言えないことかな? もしそうなら、無理に聞くつもりはないが」
「いえ、実は、僕にはこれといって打ち込めるものがなくて……。勉強やスポーツはおろか、趣味ですらそうなんです。夢中になれるものがないんです」
「それを悩んでいるのかね?」
 違う。本当の悩みはそこではない。
 本当の悩みは、その先――
「冷めてる、ってよく言われるんです。中学の頃バスケ部で補欠だったんですけど、チームが試合に勝ってもあまり喜ばないし、負けても悔しがらない。ゲームでも、勝ち負けにはあまりこだわらずマイペースで。何をしてもつまらない奴って思われるんです。こいつといると場がしらけるって。そんなんだから、僕には親しい友達が一人もいなくて……」
 ここまで打ち明けたのは初めてだった。
 気にかけてくれた家族にも先生にも、ずっと黙っていた。
 仲の良い友達が一人もいないのが恥ずかしくて……。
 でも、この人になら打ち明けてもいい気がした。
 この人に話せば何とかなりそうな気がした。
 根拠はある。僕の心臓だ。
 議論をしている間、僕の心臓は何度も高鳴った。冷めたりもしたけど、また高鳴った。
 こんな短時間で僕の心臓にここまで影響を与えた人は、小乗先輩が初めてだった。
 その先輩が静かに語る。
「私も同じだよ。理想論ばかりで目の前の現実を見ていないと、よく言われる。去年までの部員たちとも意見の違いで衝突することが多かった。だから去年の三年生が卒業すると同時に女子部員三人が離反して新たに女子哲学部を作り、残りの男子二人は部を去っていった」
「そっか、それで哲学部が男子哲学部になったんですね」
「女子哲学部と区別を付けるためにそう名乗っているだけだよ。このまま部員が集まらなければ男子哲学部は消えて、女子哲学部が正式な哲学部になる。当然、この部室も明け渡すことになる」
 先輩の視線が宙をさまよう。寂しそうな表情。
「それは困ります。せっかくやりたいことが見つかったのに」
「ああ、困るな。せっかく君がその気になってくれたというのに」
 会話が途切れる。
 いつの間にか議論は終わっていた。
 でも、それでよかった。もう結論は出たのだから。
 僕は席から立ち上がる。
「先輩、僕も手伝いますから勧誘活動に行きましょう。きっと二人くらい見つかります!」
「そうだな。だが、その前に確認しておこう。君の入部は決定ということでいいのかね?」
「もちろんです」
 力強く返事をすると、先輩は穏やかな笑みを浮かべ、席から立ち上がった。
「ありがとう。男子哲学部は君を歓迎するよ」
 それは戦力を歓迎するのではなく僕を歓迎していることがハッキリと分かる、慈しみの籠った声だった。
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