第1話

文字数 1,834文字

人には生まれつきの限界があります。そしてそれは進化したとしても変わりません。人には生まれつき寿命があり、死んでしまいます。そんな当たり前のことをなぜ述べるのか?それは人間はそれを体と心で知るものが少ないからです。知るものがいるのかもわかりません。だが心か体の片方だけなら知っている人は大勢います。人は死にますから当たり前ですよね。近頃少子高齢や自殺も多いから死について敏感に怖がってしまう人は少なくなっていくでしょう。それこそが重要、この話は綺麗に人生を送っていくための多角的人生論です。例え話を用いて限界哲学を追求していきます。


1---------精神の陥りやすい限界。

例えばなしをします。追っ手に追われてあなたは逃げています。道は険しい道のりですがその先に助けがあるとします。それが何かわかりません。あなたはその道に踏み出し歩いています。これから追っ手と対峙するかもしれません。疲れは相当溜まっています。助けのある道から外れると逃げられる可能性が高くなります。あなたは道を外れるか、その道を行くか、どの道を選びますか?

基本的に答えはありません。何が言いたいかと言うと、これに答えられるぬ人は普通の精神で異常がありません。病的な人ほどこんな考えるのも面倒な二択を味わい、深く考えることになります。なぜならば、これは三択で「諦める」という選択肢が脳裏によぎり、病的な人ほど諦める自分を想像しやすく、話の理解にリアリティが増すよう考えるからです。それは現実逃避に近いです。
つまりは諦めは、なにもできない自分の鏡、その代わり出来る事を浮き彫りにする。
近頃、「限界を決めていいのか!」と誰が決めたと思う人がいると思います。それは勘違いしてはいけないのが、そういう方々も他人から見たら限界だらけ、諦めだらけなのです。ただ自分にまだ出来る事はないかと研究してる過程で限界を決めては前に進めないのです。それは社会が豊かだからできる事で、さっきの例え話のようなサバイバルなら、限界は無理にでも作り、定めていく突破力が必要になります。
限界とは生きるために自分を鼓舞する方便なのです。

2---------生きる意味のあるなし

何のために生きているのか?ふと疑問におもう事があります。答えからいってしまうと死ぬことがわからないから生きることがわからないのが当然です。じゃあなぜ死を知っているつもりでいるのか。それは長い歴史があるのです。
人はゼロという数字を発見するまで計算が未発達だったように。絶対にわからない死をゼロと思わなかった。まずそういう概念が存在してないからです。だから追悼するのだと私は思うのですが。分からないことはゼロでも無知の知があるように死をどうしても無知の知、つまり知らないという事を知っているという風には宗教上出来ずその矛盾点だけを見て、宗教同士が衝突することがありました。死んだ後どうなるのかという目で確かめられないものの大切さをないがしろにするつもりは毛頭ないですが、生きる術であるはずの宗教に争いがないのは日本ぐらいでしょう。グローバルに生きろとはいいません。人生はなにが起こるかわからない。だからといっても寛容になるひとと宗教のしきたりを信じて生きる人、双方をたてるのではなく。そのバックにある通じ合える文化をリスペクトしてほしいものです。戦争の傷あとは風化して残念なことに代が変わるにつれなくなりますが。その影響はずっと歪み美談のようにあとに引くことはありません。むしろドロドロと残るでしょう。戦争を知らない大人がなぜそれを語れるのか?それは社会問題としてのイデアが今も現実に残り、消えかけの語り部の残り火を研究し、論理で考えてきた大人の産物です。ですが人は忘れてしまいいつか非核化のカギを見つけることができたとして遠い昔の歴史になった頃、その歴史は専門家の間で歴史の基礎にまだ果たしてなっているのか?人は覚えておけることに限界がある。将来子供たちに何を教えるか。その子がどのように生まれ、生きるかは自分がどのように生きるかに直結する。社会全体の和が若い子を意識し、そうなればいいが、人は人でなくなることができる。上に立つ賢いひとがいい人とも限らない。ゴミみたいな人間だっていいことは言う。目や耳では見えない記憶がそんな驚きに便乗して人間の種類の多さを知らせていくのだ。

今日の限界論
:歴史を繰り返すのは人間を知らないから
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