第1話

文字数 4,995文字

河田先生へ
ごぶさたしています。突然の手紙、すみません。先生の連絡先は、住所とおうちの電話番号しか知らなかったので、手紙を書く以外方法がありません。
そうして、もう一つ謝らなければならないことがあります。この手紙は、先生が担任してくれた3年A組で一緒だった知子に代筆・・・というか口述筆記のようなことをしてもらっています。自分で書いていないんです。
もし先生が、私の筆跡をまだ覚えていてくれるなら、全然違うので不思議に思われるかと思い、先にお伝えしておきますね。
けれども一番ごめんなさいと言わなければいけないことは、私が人生を粗末に扱ってしまったことかもしれません。
「美しい人生でありますように」 
 先生が、高校卒業の時に贈ってくれた言葉。時々思い出していました。そうして、もっともっと長い年月が過ぎて、老人と言われる年代にさしかかり、後ろを振り返った時、
「私の人生、美しかったかな?」
 と自分に質問するのを、楽しみにしていました。本当に、楽しみにしていたんですよ。
 まだ二十歳を過ぎたばかりなのに、こんなことになるなんて。こんなことなら、先生が強く勧めてくれた、英語力を活かせるような進路に進めばよかったかな、と少し後悔しています。
 卒業以来一度も連絡しなかったので、何のことだか何が起こっているのか、全然わからないと思います。
「美しい人生でありますように」
 は、クラス全員に向けての言葉だったけど、
「自分の人生を生きなさい」
 は、私への、私だけに向って贈ってくださったものでしたよね。私が、どうしても医学部に行く、と決心を変えなかったから。だから、あえて強い調子で言ってくれたのだと思います。そりゃそうですよね。両親を病気で早く亡くしたからって、病気を撲滅するなんて大きな野望を掲げちゃって。全く学力が追いついていかないのに。
 兄が塾のお金を出してくれていたのですが、さすがにきつくなったみたいで、受験そのものをあきらめろと言われてしまいました。それは二浪が決まった時のことですが、たぶん私は、何浪しても医学部には入れなかったと思いますよ。
 先生も、同感だと思います。高校時代の成績を思い出してくだされば、反論の余地、ないですよね。
 そこで私が、どうしたかと言うと。割の良い治験のアルバイトを始めたのです。高額なアルバイト代ももらえ、医学界の役にも立つ。そのお金で学費もまかなうつもりでした。私の身体を差し出すことで、世の中の病気の人を助けることができる。なんか、すっかり英雄気取り? そんな感じでした。このアルバイト、ある意味とても危険なので、開始前には色々アンケートを取られたり、具合が悪くなった場合でも訴えない、というような誓約書も書かされます。でも、こうなってから言うのも卑怯なんですが、その会社いわゆる「もぐり」だったのかもしれません。友達が、
「楽して儲かるバイトあるよ」
 と紹介してくれたのですが、後で詳しい人に聞いたら、普通は説明会とか健康診断とかあるらしいです。私が行った所は、あくまで自己申告でした。とにかく沢山のデータを集めようと焦っている感じがしました。
 それで、私その時、大きな嘘をついたんですよ。全くの健康体だって。本当は、重度のアレルギーがあって、いくつか命取りになる食べ物もあるんです。でも、それを正直に書いてしまったら、当然採用されないでしょう。だから、黙っていました。アレルギーの有無を尋ねる項目もありました。「無」にレ点を入れました。
 その時私は、きっと自分のことだけ考えていたんだと思います。私が嘘をついたことで、正常なデータが取れなくなり、それが皆の迷惑になったり、最悪の場合は誰かの命を脅かすことになったかもしれません。それは、結果的に私に訪れたことになりますが・・・。
 一つだけ確かなことは、それは私は今病院のベッドの上。もう治験もできないのだから、この先他の誰かが困るという心配はなくなりましたけど。
 最初の二、三回は、何事もなくスムーズに行っていたんです。莫大な量のレポートを提出することも、全然苦になりませんでした。服用の度に、血圧や心拍数を測ったりするのも頑張って記録しました。将来論文を書くための練習、なんて浮かれていました。ただ、採血のために何度も出向かなくてはいけなかったのは、ちょっと億劫でしたけど。
 たまにめまいや倦怠感などの副作用が出た時も、あまり気にしていませんでした。これくらいは、あえて報告するまでもない、と勝手に思っていたところもあります。一緒に暮らしている兄には心配をかけたくなかったので、アルバイトをしていることも黙っていました。立っていられないほど具合が悪くなった時があり、その時も風邪だと嘘をつき寝ていました。
「ちょっと大丈夫? 顔色悪いけど」
 出勤前の忙しい朝、私の部屋を覗いて声をかけてくれた兄の瞳は、うろたえていました。父、母と身内を亡くしたことが、もしかしたらトラウマになってしまっているのかもしれません。「大丈夫よー。一昨日寒いのに薄着して風邪引いちゃっただけだからー」
 明るく笑いましたが、明日にでも私が本当に死んでしまったら、兄はどんなに悲しむかとその事を考えると、本当に心が痛みます。
 でも、ふと思います。兄だから騙せたけど、両親が生きていたら隠し通すことができたかな、と。母は、自分が具合が悪くて寝込んでいる時でも、私が小学校から帰ってきて寝室に顔を出すと、まっすぐに私の目を見て、
「おかえり」
 と言ってくれたものです。クラスで嫌なことがあったり、友達とケンカしたりすると、母にはすぐにわかってしまうらしく、
「何かあった?」
 と聞いてくれました。私は、子供なりに病気の母に心配かけまいと明るくふるまっていたのに、見抜かれます。魔法でも使ってるんじゃないかと、真剣に考えたこともあったけど、私の演技が下手だっただけなのかもしれません。
 小学校高学年と言えば、だんだんと女子が対立してくる頃。それまでに経験したことのないケンカや無視などが始まるものです。そんな時母は、ベッドの中で黙って話を聞いてくれました。受け入れてくれることが多かったけど、時々、
「それは違うと思うわよ」
 と言われることもあったっけ。でも、いつもやさしく包んでくれる母がそう言うのだから・・・と私も素直な気持ちになれました。
 だから、私が具合が悪かった場合、どんなに隠してもばれてしまうと思うのです。でも、両親が生きていたら、私、治験のバイトなんかする必要もないし、そもそも医学部に行こうなんて思わないわけで。
 そう考えると父と母がもうこの世にいないことをちょつぴり恨んだりもするけれど、恨むのはその事実だけ。二人が私にしてくれたことは、何があってもあの時のまま、全てやさしい思い出として、永遠に溶けることのない冷凍食品のよう。
 私、バカでしたよね。あの頃河田先生のこと、しつこいって思っていたんです。人がせっかく希望を胸に医学部を受験しようとしているのに、あの手この手で阻止する人、というのが私の先生に対する印象。高三の四月、担任になった時に、簡単なプロフィールを語ってくれましたよね。
「本当は役者になりたくて大学時代に劇団も作ったけれど、芽が出なくて。結局保険のつもりで取得した教員免許が役に立ち、教師になって五年目です。三十歳を目前にして、あとは幸せな結婚が第一目標です」
 というようなこと。(今私の記憶が正しいか、知子に確認したらほぼ合っていました)
 果たせなかった役者への夢があったのなら、なおさらに私の夢を応援してくれても良さそうなのに、むしろ反対してくる。自分もできなかったから、私にも叶えさせまいと邪魔してるの? とまで考えた時期もありましたよ。幸せな結婚が第一目標だなんで、今時よくもまぁ恥ずかしげもなく言うもんだ、と心の中で唾を吐いていたくらいです。女同士の言葉では説明できない何か、があったのかも、と思っていたけど、きっと違いますね。ごめんなさい。
 私は、卒業の最後の日までその思いを引きずっていたので、先生にも別れの挨拶もせず、年賀状はおろか二浪が決まった時点でも連絡しませんでした。そんな私から突如手紙が来るなんて、きっとびっくりされたことと思います。
 五回目の治験の時に、私のアレルギーに強く反応する何かの成分が含まれていたようです。報酬もいつもの二倍近かったので、医学的にも少し危険度が高かったのかもしれません。
一回服用した時に、舌にしびれを感じたけれど、そのまま飲み続けました。一日三回、四種類の薬を口に入れ、身体の変化などをレポートに記入しましたが、とにかくマイナスのことを書くと、約束の報酬がもらえなくなると思い、良いことばかりを書きました。
 その時は、精神状態を向上させる薬だったので、「気持ちが軽くなった」とか「いつもより作業がスムーズにできた」とか抽象的な設問が多く、そのような項目には全て「○」をつけました。サプリメント扱いから、薬品への格上げを狙っていて強引なやり方をしたのかもしれませんが、そうであっても私の書いたレポートは、嘘っぱちですから、何の役にも立ちません。そもそもそんな小細工すること自体、医学部に入る資格、ありませんね。
 飲み始めて四、五日経った頃、身体に力が入らなくなりました。呼吸が浅くなり、ずうっと前に食物によるアレルギーで、意識を失った時のことを思い出しました。あの時は、まだ母がいて、私を抱いて病院に駆けこんでくれましたが、今回は自宅で動けなくなり数時間気を失った後に自分で救急車を呼んで、この病院に運ばれました。
 アルバイトのことは、まだ担当の先生には言っていません。でも何回も、薬を飲んでいないかとか最近何を食べたかとか聞かれるので、時間の問題だと思います。ばれてしまったら仕方がないけれど、たとえ「もぐり」でも、アルバイトをさせてくれたその会社に迷惑をかけたくないので、自分から言うつもりはありません。原因がわからなければ治療のしようもないのですが、私はもうダメな感じがしています。自分の身体のことだから、わかるんです。
入院して三日目、ずっと身体に力が入らないし、多分時々気を失っているのではないかと思います。昼のつもりでいたら、いつのまにか夜になっていたりしますから。夕べ兄が来てくれましたが、やはりものすごく暗い顔をしていて、私の方が心配になってしまいました。兄にも本当のことを言うつもりはないのですが、黙り通して死んでしまうのも、ちょっと悲しい気もするので、河田先生だけには、知らせておこうと思った次第です。
 もう自分で字も書けないので、それで知子に書いてもらっています。知子は、高校時代からの本当に信頼できる友達だから、兄に言わないでという約束は絶対に守ってくれると思います。
 河田先生、本当はいつか先生を見返すために医学部の合格通知を持って職員室を訪ねようと思っていたけれど、どうやら無理のようです。一つだけお願いしてもいいですか?
今度大きな夢を抱えて飛び立とうとしている生徒が現れたら、たとえその子の学力がどうであっても、応援してあげてくださいね。誰かが応援してくれたら、思いもかけない力が出ることだって、きっとあるのではないかと思います。本当は、そのことだけが言いたくて手紙を書こうと思ったのです。たとえ失敗したとしても、その努力も含めて「美しい人生」なんだと思うから。
 知子にこの手紙を託します。私が死んだ後に投函してくれるよう頼むつもりです。あ、そうそう私のことを探そうとしても無理だと思いますよ。数ヶ月前に兄の会社の近くに引越して、まだ住民票を移動していないので。
 河田先生、色々ありがとうございました。先生が、幸せな結婚をして暖かい家庭が築けますように心から願っています。

PS 早紀は、十二月十九日午後二時に天に召されました、約束通りに封をして投函いたします。私もまだ心の整理がついていないのですが、早紀の思いを尊重して、早紀のことを忘れずに生きて行きたいと思っています。よろしくお願いします。         知子

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