おはよう、ハルちゃん

文字数 5,639文字

「お早うございます……お早うございます……」
「え?はい、お早うございます……あれ?」

 朝の散歩の最中、不意に挨拶をされたのだが、辺りを見回しても誰もいない。

「お早うございます、ここです、ぼくです」
「え?……あれ?……君が?」
「犬ですからニッコリは出来ないのですが、でもほら、尻尾を見て下さい」
 
 話しかけて来たのは柴犬のハルちゃん……。
 歩き出してから7~8分は経っているのだから寝ぼけているはずはないのだが……。
「あなたは寝ぼけてなんかいませんよ、本当にぼくが話しかけているんです」
「そうなんだ……」
 おかしな事だが、その時私はなぜか(まあ、そんなこともあるかもな)とその事実をやんわりと受け入れていた。

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 朝の散歩は犬を飼っていた頃から続いている習慣だ。
 その愛犬・ララは数週間前に亡くなってしまったのだが……。
 特に病気をしたというわけではなく、天寿を全うして安らかに旅立って行ったのだから大往生と言っても良いのだろう。
 それでもやはり愛犬を失うと言うのは心にぽっかり穴が開いたようだった。
  
 ようやく気持ちが落ち着いて、独りで朝の散歩を再開する気になったのは2~3日前からのこと。
 まだなんとなくララが一緒でないことが不思議な感じで、左手にリードを握っていないのも手持ち無沙汰に感じてしまう。

 話しかけて来たのは以前から良く知っている、近所に住む柴犬のハルちゃん、我が家よりも少し早い時間に散歩してもらっているようで、丁度帰って来る所に出くわしたこともあるし、夕方の散歩でも時々一緒になる。
 ハルちゃんのご主人は口数の少ない、柔らかな笑顔が印象的な初老の紳士、自宅で会計事務所を開いていて、同様に自宅で建築設計の個人事務所を開いている私も、毎年年度末にお世話になっている。

 ララとハルちゃんは気が合うようで、いつも門扉越しに挨拶していたし、たまに一緒になったりすると肩を並べてなにやら話しているかのようにも見えたものだ。
 もっとも、ワンともクゥンとも言わないので話しているとすればテレパシーでだが……。

 ん?……テレパシー?
 ……もしかして……。

「その通りです、ぼくたち犬は人間のように唇や舌を使えませんから、テレパシーで話すんです」
「もしかして、今も?」
「そうですよ、それ以外にないでしょう?」
「じゃあ、こっちも声に出してしゃべらなくても?」
「はい、大丈夫、ちゃんと伝わりますよ」

 なんだかちょっと安心した。
 やっぱり犬としゃべっているのは傍から見たら変だから……。
 ……って、テレパシーを使うとしても犬と会話していること自体が変なのだが……。
 しかし、実際会話できているのだから仕方がない、私は犬と人間が話せると言う前提で生じた疑問をハルちゃんに投げかけた。
 
「犬と人間がテレパシーで話せるんだったら、どうしてララは私に話しかけてこなかったのかな?」
「普通は出来ないんです……そうですね、その能力に鍵をかけられていると言ったらわかりやすいでしょうか」
「どうして?」
「ぼくたちには人間には見えないものが見えたり、感じられないことを感じられたりするからです」
「でも、ほら、人間にはわからない匂いとか音とかで知ったことを教えてくれたりするじゃない?」
「それは鼻や耳の能力の問題ですし、行動や態度でお伝えするのは何の問題もありません、ぼくが言っているのはもうちょっと霊的な感覚と言うか……」
「そうなんだ……それを人間に教えちゃいけない、だから話せないように鍵をかけられていると言うことなの?」
「そうです」
「だったら、ハルちゃんはどうして私に話しかけられるのかな?」
「特別な許可を貰ったからです」
「特別な許可って、誰から?」
「人間が神様と呼んでいる存在からです」
「ふうん……特別な許可ってどうしてもらえたの?」
「許可をもらえた要因は三つあります、一つにはララさんが神様にお願いしたからです」
「ララが? 本当に?……でもさ、犬を可愛がってる人は沢山いるよ、それこそ子供のように……」
「あ、それがいけないんです」
「え?」
「犬を擬人化して可愛がる人と話すと、ぼくたちが人間と会話できると言う秘密が漏れる恐れが大きいですから」
「ははあ……なるほど」
「その点あなたは、人間は人間、犬は犬と区別してララさんを可愛がっていらっしゃいましたから」
「それで良かったのか」
「それで良かったんです、正直な所、人間扱いされると窮屈で……」
「ははは、なんかわかる気がするよ、それが二つ目の要因なのかい?」
「はい、その点は私のご主人も同じですから、その時が来たらご主人とも……」
「その時って?」
「……口を滑らせました……これ以上は言えません、お聞きにもならないで欲しいのですが……」
「わかったよ、犬には犬の都合もあるだろうしね」
「そうなんです、そこのところをわかって頂けて嬉しいです……もし可能なら笑顔をお見せするところなんですが」
「尻尾を見ればわかるよ」
「あ、そうですね!」
 ハルちゃんはいっそう大きく尻尾を振ってくれた。

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 その日を境に、私は朝の散歩の時間を少し早めて、いつものコースを逆周りに変えた。
 そうすれば大抵ハルちゃんに会えると思ったから。
 果たして、ほとんど毎日のように会うことが出来た。
 当然飼い主も一緒だからそんなに長く引きとめることもできないが、二言、三言でも毎日会話を交わしていれば色々なことがわかった。
 やはり一番聞きたかったのはララのことだが……。

「ええ、ララさんは幸せだと言ってましたよ」

「お父さんが大好きだといつも言ってました、お父さんの所に貰われて良かったって」

「ええ、おにいちゃんも大好きだったって……おにいちゃんは小さい頃毎日沢山遊んでくれて、それが凄く楽しかったそうです」

「そんなことないですよ、おにいちゃんよりお父さんの方が好きだって言ってました、毎日お散歩したりお世話してくれるのはお父さんですし、一緒にいてくれると凄く落ち着けるって言ってました」

「おにいちゃんがお仕事で遠くに行っちゃったのはやっぱり淋しかったそうです、でも、お父さんが居てくれるから大丈夫、とも」

「そうなんですよ、いつも吠え掛かって来るあのポメラニアン、自分を人間だと思い込んでるんです、本当は犬なのに犬嫌いなんですね、溺愛は犬にとっても不幸なんですよ」

「ええ、ララさんは自分が犬だと自覚していましたよ、人間好きの人間が居るように犬好きの犬だったんです、だから皆と仲良く出来ていたんですよ」

「ええ、何度もキャンプに連れて行ってもらった、そのひとつひとつが良い思い出だと言ってました」

「海ですか? 確かに話したことないですね……ああ、でも友達から聞いてどんなところなのかは大体知ってました、でも、ほら、ララさん、泳ぎは好きじゃなかったですから」

「そうですね……最後の一年はやっぱりあちこち痛い所があったみたいでした、でも痛がる姿を見せてお父さんに心配かけたくないし、少しくらい痛くてもお散歩してもらえなくなったらその方が嫌だとも……」

「最後の1ヶ月くらいは体が辛かったみたいです、でもお散歩をしたかったのは間違いないですよ、『ここまでしか来れなくなっちゃったのが悲しい』って言ってましたから」

 そして……。
「そうですね、あの日がララさんに会えた最後の日でした……『もう会えないと思うからさようならを言わせてね』って言うから『そんなこと言わないでよ』と言ったんですけど……でもわかるんです、犬って……『お父さんにあまり迷惑かけないで逝けると思うからそれだけは良かった』って……それから色々と思い出話を聞かせてくれました」
 確かに最後にララとハルちゃんが会った時、ララは道端にへたりこんでしばらく動かず、ハルちゃんもララの顔を覗き込むようにしてたっけ……。
 私とハルちゃんの飼い主は『何を話しているんでしょうね』と笑いあっていたのだが、本当に話していたのだと知った、それも別れを惜しんで……。

 一通りララに関して聞きたかったことを聞いてしまってからも、ハルちゃんと会話するのは楽しかった。
 犬の世界のことも色々聞かせてもらった……どんなことをって?それはハルちゃんとの間の秘密だからここでは言えないが。

 初めて会話してから三ヶ月目くらいだっただろうか、ハルちゃんが浮かない顔をしている……その頃には犬の微妙な表情の変化がわかるようになっていたんだ。

「やあ、お早う、散歩は楽しいかい?」
「はい、とても」
「今日は暑くなりそうだね」
「そうですね、犬には辛い季節です」
「毛皮を脱ぐわけにいかないからなぁ……」
「でもエアコンの効いた部屋に入れてもらえますからだいぶ楽です」
「それもそうだね」
「昔の犬は大変だったでしょうね」
「ははは、人間もだよ……じゃあね」
「はい」

 そんないつもと変わらない会話をして別れたのだが……。
 不意に。
「さようなら」
 と頭の中に語りかけられた。
 思わず振り返って見ると、ハルちゃんは丁度曲がり角にさしかかる所……こちらをじっと見ながら曲がって行った。


 その日は一日、なんとなく落ち着かなかった。
 ハルちゃん、いつもは『さようなら』なんて言わないのに……見えなくなるぎりぎりのタイミングだったのも妙だ。


『ぼくたちは人間には見えないものが見えたり、感じられないことを感じたりするからです』……『でもわかるんです、犬って……』
 ハルちゃんが言った言葉が頭をよぎる……もしかしてハルちゃんは……。

 と言って、ハルちゃんの家に押しかけるわけにもいかないし、もしそうならおそらくそれはもう変えようのないことなのだろうとも思う……ララがもうハルちゃんと会えなくなるのを知っていたように……。



 その晩のこと……息苦しさに目を醒ました。
 胸が苦しい……心臓が締め付けられるようだ……。

 息子たちが就職して家を出てからというもの、夫婦の寝室は別にしてある、生活時間にズレがあってそのほうがお互いに気兼ねがないからなのだが、それが裏目に出た……妻に助けを求めようにも大声を上げる事もままならない……。
 
 そして、その時悟った。
 ハルちゃんが知っていたのはハルちゃん自身の寿命じゃなくて私の寿命……。
 そして、『それは言えない』と言っていた、私に話しかける許可を貰えた三つ目の理由も……神様も私の寿命を知っていたに違いないから……。

(もうだめだ……)
 そう思った時、窓の外からけたたましい犬が吠える声……私にはハルちゃんの声だとわかった。
 ハルちゃんは私の部屋の窓ガラスに体あたりまで始めた。

「もう……うるさくて眠れやしない……あっ! あなたっ! どうしたのっ!?」
 ハルちゃんの声と体当たりで様子を見に来たのだろう、妻が苦しんでいる私を見つけて肩を揺さぶる。
「どうしました!? 何かあったんですか!?」
 続いて、窓を叩いて叫ぶ人がいる……ハルちゃんのご主人だ……。
「主人が!……主人が!……」
「奥さん、落ち着いて! 119番を、早く救急車を呼ぶんです!」

……こうして私は一命を取り留めることが出来た……。

 発作が収まればけろっとしてしまうのが心臓発作、しかし、精密検査やら何やらで数日間は入院させられた。
 もちろん妻やハルちゃんのご主人とも話したが、どうやらハルちゃんは私以外にはテレパシーを使っていなかったらしい……。

 妻は騒がしいので来てみただけだったし、ハルちゃんのご主人が言うには、夜中にやたらと吠えるので近所迷惑になると思い散歩に連れ出したら、家までぐいぐい引っ張られて来て、中から尋常でない声がするので窓を叩いた……そう言うことだったらしい。

 退院して最初にしたことはハルちゃんのご主人へのお礼の挨拶。
 ただ、正直怖かった、テレパシーを使っていなかったとは言ってもルール違反なのではないだろうか……もしハルちゃんが居なくなっていたら……。

 インターホンを鳴らすと、ハルちゃんは飛んで来た。
(良かった……もしハルちゃんが居なかったらどうしようと思ってたんだよ、本当にありがとう、ハルちゃんのおかげで助かったよ……)
 私は頭の中でハルちゃんに語りかけたが、返事はなかった……。
 どうやらハルちゃんはもう私と会話できなくなってしまったらしい……テレパシーを使わなかったとしても人間の寿命がわかることを露呈してしまったのはやはりルール違反、おそらくはそのペナルティがこれなのだ。
「ああ、もうすっかりよろしいんですか?」
 ご主人が門を開けてくれた時、私はご主人への挨拶もそこそこに、跪いてハルちゃんの首に腕を回し、ハルちゃんも千切れるほど尻尾を振ってくれた……。


 ハルちゃんとは相変わらず毎朝顔を合わす。
 もう会話することは出来ない、でも、ハルちゃんの気持ちは尻尾を見ればわかる。
 それに……どうやら私の語りかけは聞こえているのではないかと疑っている。
 会話できないフリをしているのではないかと……。
 なぜなら、テレパシーで語りかけてみると時々耳がピクッと動いてしまうのだ。
 それを問い質すような意地悪は決してしないけどさ……ね、ハルちゃん……。

 「ピクッ」

(終)
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