第九話 記憶・後編

文字数 2,254文字

 高雄が真織に弱音を吐いている時、妲姫は呑気に水風呂に浸かっていた。体を包み込むこの冷たい水が、何と言っても気持ち良い。
 ふと、浴場を見渡した。今の時間帯は他の客がいない。
「あっちにも入ろう」
 水風呂から出ると、ようやく温泉の方に浸かる。まずは足から。
「見つけたぞ」
 突然、誰かの声がした。しかし振り返っても、誰もいない。もう一度湯船に入ると、
「こんなところにいたのか。通りでなかなか見つからないわけだぜ」
 また聞こえるのだ。妲姫は混乱した。誰かの声はするのに、自分の他に誰もいないのだ。
「誰? 誰かいるの?」
 返事はもちろんない。もう空耳だったと決めて、温泉を味わうことにする。そして湯船に浸かったその時、また声がした。しかも、大勢の声だ。
「………?」
 そして同時に違和感も抱く。聞いたことがある声なのだ。だが、自分の記憶がないことは妲姫が一番良くわかっている。だからおかしいと思う。
 実は、この温泉こそ高雄が探していた湯だ。霊的な力に満ちているのだ。そしてその不思議な力は、妲姫の中に隠されている記憶を暴いているのだ。
「あ……!」
 真織と会った後のことは覚えている。思い出したのは、その直前の出来事だ。

 確か、名前を蟻形(ありがた)勇助(ゆうすけ)と言った。自分で名乗っていたのだから、きっと間違いがない。その日妲姫は、月見の塔に行こうとした。すると勇助に出くわしたのだ。
「見つけたぞ、君が妲姫だな? こんな平凡なところに住んでいるだなんて。しかもごく普通の一般人みたいじゃないか。散々探したが、こんなところにいたのか。通りで見つからないわけだぜ」
 勇助は、妲姫に用事があるらしかった。しかし妲姫は彼のことを知らない。
「ちょうどいいぜ。ちょっとこっちに来いよ」
 そう言って、強引に腕を引っ張るのだ。これに嫌な予感がした妲姫は、逃げることを選んだ。が、逃げ切れなかった。相手は男、体力では勝てない。
「もしもし、増幸様? 見つけましたよ、妲姫です。はい、ここで。どうやら一人のようです…。周りは特に何も。普通の住宅街でしょう…」
 電話の向こうの人が、何を言っているのかはわからない。だが、
「それで、生きたまま連れて行きましょうか? それとも今ここで殺して、魂だけ? え、血がいる? じゃあ必要な分抜き取りますか?」
 何やら、物騒な会話をしている。その会話が終わった後、勇助は、
「面倒だな、生かした状態で連れて行かないといけないのか…。まあ、大丈夫だけどな。もう俺が捕まえたんだ、逃げられないだろう」
 ここで、妲姫は自分がどうなるのかを聞いた。すると、
「死ぬんだよ、お前は。増幸様の儀式のために、特別な生け贄が必要なんだ」
 何故死ぬ必要があるのかを聞くと、
「知らなくていいだろ、そんなこと。生け贄は黙って命を捧げろよ」
 と言って、答えてくれない。
 妲姫は危機感を抱いた。最後の力を振り絞って、勇助から逃げられないだろうか…。このままだと、自分の命が本当に危ない。本能でわかる。
 そして、妲姫はあることを行った。それは記憶にはない。きっと必死過ぎて、心も覚えていられなかったのだろう。あの時はそんな余裕はどこにもなかったから仕方がない。だが、勇助の元から逃げれたのは確かだ。同時に、その時に記憶がほとんど飛んだのだ。記憶を失う代償に、勇助の元から逃げる。そんな霊的な力を発揮したのかもしれない。
「霊的な…力…?」
 そうだ。妲姫は自分のことを思い出した。彼女は霊能力者。生まれながらにして、幽霊が見える。そしてそれは、今は亡き両親から受け継いだ力。
「私は……妲姫」
 この瞬間、妲姫は全ての記憶を取り戻した。
「…………」
 言葉を失った。追い求めていた記憶が、唐突に蘇ったからである。非常にあっけないことだった。自分の記憶に何か、特別な意味などない。にも関わらず、真織と高雄の二人を巻き込んでここまで来た。
「旅は、終われる!」
 そうだ。もう二人に無理をさせなくて済む。勇助の発言から、蜂の巣の黒幕が容易に予想できる。
「はっ!」
 考えた瞬間、背筋が凍りついた。
「増幸様って言っていた…」
 今日の朝まで、海神寺にいた。そこにいた人の名前も、増幸。これは偶然だろうか?
「違う、偶然なんかじゃない!」
 必然だ。心の中で確信する。増幸…。海神寺の責任者が、蜂の巣の親玉。
 妲姫は風呂場から急いで出ようとしたが、ドアの手前で足が止まった。
「真織と高雄に伝えるべきこと?」
 二人は親玉を知りたいだろう。だが、話したら絶対に海神寺に戻る。きっと海神寺の者は、蜂の巣で構成されているはず。敵陣に戻っていくのは、どう考えても危険極まりない。
「駄目、できない…」
 言えない。真織は確実に、増幸と戦うことを選んでしまう。今の妲姫には、増幸がただの霊能力者ではないことが手に取るようにわかる。真織のような一人前とは言えない全く無名の人物が、戦いを挑んで勝てる相手ではないのだ。
「返り討ちにあっちゃう、今のままだと…」
 真織の命を考えると、妲姫は記憶のことは話せないと思った。話せないのなら、記憶を失っているフリをするしかない。苦渋な選択だが、しょうがない。真織と高雄のためだ。二人を安全な場所に連れて行かなければいけない。
「そうしたら…」
 二人の命には、代えられない。妲姫はその時が来たら、来てしまったら、自分の命を差し出すつもりだ。
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