第1話  <ほのかな恋の芽>

文字数 1,582文字


これは「星の王子と砂漠の井戸」(モロッコ編)の続編です。
https://novel.daysneo.com/works/5e961bef64786e9f7a58e5eb5ba877a9.html


《Side優》

チャリン、と鍵束の中のひとつを1Kの部屋の鍵穴に差し込むと、
隣の部屋のドアが開いて隣人の若い男と鉢合わせた。

「おはようございます」と挨拶をすると、
その男は少し気まずそうに「おはようございます」と返し、
後を追うように「ちょっと待ってーー」と、
中から若い女の子も出て来た。

「あ……」

俺の顔を見て恥ずかしそうに言った彼女を横目に

「失礼します」

と俺は二人の脇を通り過ぎ、駅までの道を歩いていると、
そいつらも駅に向かうのか、俺の後ろをついて歩いた。

「イケメンーー!」

女の子の方の声がする。

「なんだよお前、ああいうのがいいのかよ」

ふてくされたように男が言った。

「だってきれいな顔だったんだもん!
でも好きなのはタクヤだよーー」

朝からいちゃつきやがって……。

ちらっと後ろを振り返ると、幸せそうな顔の二人。

俺には誰かとあんな顔して歩いた記憶がないな。

そもそも人を好きになるってどういう感覚なんだろう?

この時の俺は、これからほどなくして砂漠で出会ったあいつに
心がかき乱される事になるなんて思ってもいなかったんだ。


**************


肩にかけたバッグを背負い直し、
俺は地下鉄の改札から地上に向かうエスカレーターを上がった。

外はもう夏の空気で、シャツの袖を肘くらいまで捲り上げると、
腕がジリジリと熱い。

モロッコもこんな熱さだったな……。
そう思いながら事務所に向かった。

去年の春、
ろくでなしだった自分を変えたくてモロッコに旅立った俺は、
そこでおぼろげながらも自分の行きたい道を見つけ、
帰国後、写真の世界に足を踏み入れた。

師匠の元でアシスタントとして修行の毎日は、
きついこともあるが、
大学時代に「安泰だから」という理由で選んだ会社に
入るのをやめたのは正解だったと思っている。

「おはようございます」

ビルの一室であるスタジオ兼事務所のドアを開けると、
事務員で師匠の姪っ子の安達陽子が「おはよーー」と
のんきな声で返事をした。

「安達さんは?」

「打ち合わせのため直行だってーー」

「お前、またチョコ食ってんのか。 痩せたいんじゃねーの!?」

こいつは「ダイエットしなきゃーー」といつも言っているが、
とりかかる気配を見せた事はない。

「優くんがあたしと付き合ってくれるならやめるーー」

へらへら笑いやがって! あほか!

「ねー今日こそご飯いこうよーー。 だめーー?」

身をくねらせてデスクに前のめりになって言った。

「行かね」

陽子は口を尖らせて、またひとつチョコを口に放り込んだ。

「てかさー、優くんそんなイケメンなのにほんとに彼女いないの?
あたしに興味がないのは仕方ないとしてもさぁ、全然女っ気なくて」

いぶかしそうに陽子は言った。

「もしかして、昔女がらみで何かあったとか?」

「……」

「あとはーー、好きな人がいるとか?」

「いねーよ」

こう言う時のごまかし方は俺は下手くそだ。

「ふーん。 そっか」

そう言って陽子は俺の顔をまじまじと見た。

そんなやつは、いない……けど……。

一年前にサハラ砂漠で出会った人。

最初はビビリですぐ感情的になって、
年上だったけど「だめなやつだなぁ」と思っていた。

だけど彼女の優しさは淀んだ未来で充満していた俺の心に、
風穴を開けた。

あれからあいつのこと思い出すと、
胸のあたりがじんわりと温かくなる。

何度か連絡してみようかとも考えたが、
結局いまだにできていないのは、
諸々自分のことをちゃんとしてからにしたかったから。

でもようやく最近、一人前とまでは言えないけど、
自分の足で立ってるって言えるようになったかな。

「今度連絡してみようか」

窓の外に目をやると、街路樹がキラキラと揺れていた。


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