第128話 刺繍

文字数 1,101文字

 予想はしていたが、夕食の時間、藍はダイニングルームに現れなかった。
 帰って来たばかりだというのに、久美はいつも通りに食事の支度をして、藍の分は部屋に運んで行った。
 もの思いに沈んでいると、基樹に声をかけられた。
「食欲がないのか?」
「うん……」
「まぁ、気持ちはわかるけど」

 この事実を、どう受け止めればいいのかわからない。自分が、藍のために何をすればいいのかもわからない。
 ただ、藍が深い悲しみの中にいることだけは確かだし、そんな藍を放ってはおけない。そう思い、翔は、食事の後、一人で藍の部屋に向かった。
 
 
 ドアをノックして、声をかける。
「藍、僕だよ。入っていい?」
「……どうぞ」
 翔は、そっとドアを開ける。
 
 ベッドに横になっているのではないかと思ったのだが、藍は、こちらに背を向けて、テーブルに着いていた。そばまで行くと、例の作りかけの刺繍を広げて見ている。
「それ……」
 藍が、振り返って翔を見上げる。
「えぇ。翔のために刺していたものよ」 
 翔は、テーブルの向かい側に回って、椅子に座る。
「藍の行方がわからなくなった後、一度、一人でここに来たんだ。それを見て、泣いてしまった」

 藍が、かすかに微笑む。
「私、今まで陸人さんのおばあさんの家で、陸人さんとおばあさんと三人で暮らしていたのよ。おばあさんって言っても、最近までお医者さんをしていた、とても若々しくて素敵な人で、一緒に刺繍をしたの。
 私、翔のことを思いながら、これと同じものをもう一度刺していたのよ。あと少しで完成するところだったのに、持ち出す暇もなかった……」
「藍……」

「馬鹿ね、私。鮎川先生のときに身に染みたはずなのに、また同じ過ちを犯してしまった……」
 藍は、両手で顔を覆って泣き出した。
「藍」
 そばに行って肩に手を置くと、藍は、ガタンと音を立てて立ち上がり、翔にしがみついた。翔は、その体を両腕で抱きしめる。
 
「私、もうここには戻らないつもりだったの。でも、翔たちに元気でいることを知らせたくて。
 それで、久美に電話をかけたの。まさか、そのせいで、あんなことになるなんて……!」
「藍」
「全部私のせいなの。私のせいで、増永も、あの二人も!」
 藍は、苦しげに嗚咽する。
「違うよ、藍のせいじゃない」
「違わない! 私のせいで、みんな死んでしまった!」

 翔は、ただ背中をさすってやることしか出来ない。藍は泣きながら、さらに言いつのる。
「久美は、たとえ赤ちゃんを産んでも、自分で育てることは叶わないって」
「そんな、どうして……」
「それは……それは、私が、教祖の娘だからよ! それでも、私は……産みたいの!」
 叫びながら、藍はその場に泣き崩れた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み