ゆっくり、のんびり。

文字数 1,388文字

 ある島国に男がいた。この男、人生に疲れ、絶望し、深い悲しみと虚無に襲われて、生きる力を完全に失っていた。
 ところが、だ。睡眠薬、リストカット、首つり、練炭、飛び込み……、全てが失敗に終わるのだった。まるで神が生きろと言っているかのように、とにかく、男は死ねなかった。
 再度チャレンジ。男は、三十階建のビルの屋上にいた。地上から約百メートル。ここから落ちれば、さすがに死ねるだろう。
 男は、朝まで待つことにした。屋上で体を横にして、朝日が昇るのを、今か今かと待っていた。
 ――朝。男は、白い景色の中、目を覚ますと同時に走り出し、フェンスを飛び越えて空に体を投げ出した。これで、死ねる。そう確信した。朝日とともに、自分の人生は終わるのだと。
 しかし、待っていたのは、固い地面ではなく、――水だった。
 男の頭に漫画のような「?」が思い浮かんだ。同時に、体も浮かんできた。周りを見渡すと、男が飛び降りたビルを除いて、水面が果てしなく広がっていた。地球温暖化? 異常気象? それともここがあの世なのか? 男は混乱しながら、取りあえずビルの屋上に戻ることにした。
 青い空と水平線が広がる。男は服を乾かしながら考えた。人類は絶滅したのだろうか。生き残っているのは、自分だけなのだろうか。もう、残された方法は、入水か、餓死か……。しかし、待てよ、一体、なぜ俺は死にたいのだろうか。今、こうして、全ては水の中に沈んでしまった。疲れも、絶望も、悲しみも虚無も、全て水の中だ。
 まあいい。食べるものもないし、これは海水だ。いずれ死ぬだろう。
 そう思っていた矢先、雲が陰り、大雨が降ってきた。雷が轟き、屋上に落ちた。しかし、男は無事だった。雷は貯水タンクに穴をあけ、雨水を貯めだした。
 翌朝、男が目を覚ますと、ビルの屋上に釣竿が流れ着いていた。水面を覗くと、魚がうようよ泳いでいる。また、次の日には、屋上の隅に植物が生えてきた。どうやら、食べられそうな植物だ。さらに、次の日には、教科書でしか見たことのない火打石が転がっていた。
 水、食料、火。男はしばらく生きることにした。
 男は拾った石で貯水タンクに「正」の文字を一日一文字ずつ刻んでいくとこにした。この「正」がどこまで続くのか、男には分からなかった。
 希望もなにもなかった。青い空、広大な水平線、ときどき、魚が飛び跳ねる。
 「正」の文字が増えてきた。およそ、三ヵ月。男は生きていた。生きてはいるが、ただ、それだけだった。
 男はときどき夢をみた。女がひょっこり現れる夢だ。そこで決まって女は言う。「ああ、良かった。さあ、一緒に生きていこう」と。
 その度に、男は目を覚ました。手の届きそうな星空。月明かりが淡く、男の影を描いている。タンクから水を飲む。そして、また、眠りに落ちる。
 ――死にたい。
 そんな気持ちがふつふつと再燃してきた。意味がないじゃないか。生きている意味が――。
 男は、そこで、気がついた。
「そうか、そういうことか」
 生きる。
 それは死に向かうということだ。
 男は、大きく息を吸って、静かに吐いた。
 ゆっくりと、死に向かう。
 これが自分の死に方なんだ。
 ――朝。男は、「正」の文字をまたひとつ書くと、その横に「遺書」という文字を書き足した。
 こんなにのんびりとした死に方があるなんて――、男はあくびをして、再び眠りに落ちていった。
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