第21話 彼女の生活

文字数 5,010文字








美鈴は、見た目通り、振る舞い通りの女性ではなかった。


今回の話は、美鈴の普段の生活と、馨の居ない間の話になるので、唐突ながら、三人称で進ませてほしい。


まず、美鈴の朝はとても早かった。五時半に起床するとすぐに勉強に取り掛かり、それから七時までは机の前から動かずに、学習と研究のためにせっせとシャープペンシルを走らせる。それから朝の勉強が済むと簡単に朝食を作り、食べてからは後片付けをし、学校に向かう。

学校でももちろん一日中勉強をして、夕暮れか夜に家に帰れば、またすぐに机に向かってテキスト、学術書、ノートやレポート用紙などを広げ、勉強を始める。夜の十時まではそこから動かずに没頭したあと、美鈴はやっと一息ついて、一杯の紅茶を入れる。

ゆっくりとお茶を飲むと、彼女はまた食事を作って食べ、後片付けをするとすぐに寝てしまう。一日中勉強漬けである。でも本人は「毎日が楽しい」と感じていた。常人離れした彼女の知的好奇心が彼女の生活のほとんどを占めていた。

それから彼女にはもう一つ珍しいところがあって、それは彼女が持つ、非常に豊かな感受性である。知的好奇心だって並では済まないのだが、美鈴は何事においても心揺れないことはほとんど無いほどだった。でも、馨と出会った頃には、それはしぼんでしまっていた。だから馨は、出会ったばかりの頃の美鈴を、「落ち着いていて真面目な学生だ」と思った。それはなぜなのか。


美鈴は、小学校に上がってからというもの、成績が優秀なことで周りから疎まれ、避けられ、痛めつけられてきた。中学、高校と学校が変わってもそれは変わらなかったので、いつの間にか彼女には、心を分かち合える友人は居なくなっていた。そんな日々を過ごしていると、彼女は思い出すのだった。彼女の感じやすい心に受けた侮辱の傷が、どれもこれも大きすぎて抱え切れなかった日々を。

彼女はそれに気づいた時、「このまま心を閉ざせば、きっと傷つくことも減る」と思い込もうとしてしまった。だから、馨が美鈴と出会った時、美鈴は確かに誠意と熱意に溢れた学生ではあったが、人間関係についてはまるで何も期待をしていなかった。

そんな美鈴も、馨の誠実さと愛情に触れ、少しずつ、「この人になら心を預けてもいいかもしれない」と感じるようになっていったのだ。馨もその変化には気づいたが、美鈴が心を閉ざしていた理由について、彼がどのくらい見極められていたかはわからない。

でも、馨にも確かにわかった。美鈴の心が前よりもしなやかに、そして瑞々しく潤って、素直に輝き出したのを。




ここからの話は、馨が十月に日本を離れた後から帰ってくるまでの間に、美鈴の身に起きたことを話すとする。



美鈴は変わらず学習と研究に明け暮れ、教授からも少しずつ信頼されるようになり、彼女が十二歳の頃に読んだ哲学書の著書、皆川教授も、美鈴を秘蔵っ子として可愛がるようになっていった。美鈴はそんな充実した日々を送りながら、馨に恋し続けていた。

馨が日本を出て自分の家から解放されると、彼は毎晩美鈴に電話を掛けてくるようになったので、美鈴は一日の終わりにその電話を受けた。そうして二人はお互いに寄り添いながら、励まし合い、愛を交わした。それから電話を切ると、美鈴は恋をする喜びに体を温められたように、ゆっくりと眠る。今は会えないさみしさはあったが、八カ月後には、七カ月後にはとそれが縮まってゆくのが彼女には大きな楽しみだった。暗い部屋のベッドの中で彼女はよく、「自分はこれで大丈夫なんだ」という言葉が頭に浮かんだ。そして、眠る前に指にはめた銀の指環をなぞるのだった。


そんなふうに幸福を感じ、それゆえに意欲に満ち溢れた彼女は、どんなにか魅力的に輝いていたことだろう。だからといおうか、美鈴は周りに居る男性たちから、憧れの的になっていった。

もちろん美鈴はそんな視線を気に掛ける暇もなければ、馨以外の男性に用があるわけもないが、彼らは憧れの女性を前にしているのだから心を止められるはずもなく、美鈴は二度ほど二人の男性に言い寄られた。一人は美鈴と同じく博士課程の生徒、それからもう一人は大学院で三年次を終えようとしていた先輩であった。





美鈴の大学院での講義中の態度は大体こんなようなものだった。教授が本や論文から目当てのページを引くのをもじもじと待ち、教授の話に頷く。そして、疑問を感じたら必ず席から立ち上がって質問をした。教授は皆それに答え、彼女は礼を言って着席する。そして美鈴は、意見を求められれば臆することなく整頓された言葉ではっきりと延べ、教授はそれを褒めたり、難色を示したりした。教授が彼女の意見に対してどのような考えであっても、彼女はその内容を聞きたがった。



ある日の美鈴の講義は一年次では単位を一番落としやすいと言われている、難解なものから始まった。それは二時限目の講義だった。講義室で席に就いた時、美鈴の隣には他の男子生徒が一人座っていて、頻りに美鈴をちらちらと見ていた。だが、黒板をよく見て、教授に質問することを考えていた美鈴には、それは見えもしなかった。

二時限目の講義が終わると、片付けをして美鈴は席を立とうとしたが、不意に隣に居た男子生徒が声を掛けた。

「あ、あの、すみません…」

「はい、なんでしょう?」

美鈴が振り向いてその男子生徒に明るい両目を向けると、まるで男子生徒はそれを眩しがるように、ちょっと目を逸らしてもじもじとする。

「あの…園山さんですよね…」

「はい、そうですが」

美鈴は、「自分の名前を、教授でもないのに知っている人が居たなんて」と、ちょっとびっくりして、男子生徒を見つめていた。すると男子生徒は、口憚られることをやっと言う勇気が出たような様子で、顔を上げた。

「僕、あなたに…憧れてるんです。それで、もしよければなんですけど…このあと、学食でごはん食べますよね…?だから、同席してもいいですか…?」

それは決して器用とは言えない、女性への誘い文句だった。決定的なことは恥ずかしくて言えないにしても、ストレート過ぎて、普通の女性なら怖くなって断るだろう。でも美鈴は怖がりはしなかった。しかし、彼の言葉を歓迎したりもしなかった。美鈴はただ一言言った。

「ごめんなさい、そういうお誘いはお断りします」

美鈴の言葉は冷たく突っぱねるようなものではなかったが、断ることに申し訳なさを感じている語調でもなかった。そのあとで美鈴はくるりと後ろを振り向いて鞄を手早く手に取ると、出口に向かって歩いていった。


しかし、その男子生徒はそれだけで諦めはしなかった。彼は美鈴と同じくフランスの哲学と文学を専攻していたようで行き合う講義が多く、美鈴は何度か話しかけられたが、いつも丁寧な言葉で断った。

でも、彼は執念深かった。またある日のこと、彼は講義を終える美鈴を待っていたのか、美鈴が最後の講義が行われていた講義室から出ると、目の前にその男子生徒が居た。さすがに美鈴も驚いたが、彼女は黙ってその前を通って行こうとする。すると彼は一歩前に出て、美鈴の前に立ち塞がった。

「待ってください」

「なんでしょう」

美鈴の口調はやはり丁寧だった。彼はそれをどこか不満足に感じたように悔しそうな顔をしたが、美鈴は立ち止まったまま、彼に言われたようにそこで待っていた。彼はやはり言いにくそうにしていたが、きっと顔を上げて美鈴を睨むほど強く見つめる。美鈴は少しうつむいた。

「僕、あなたを諦めるなんて、できません。せめて連絡先の交換だけでも…」

「困ります。それでは言いますが、私にはもう決まった相手がいますから。これ以上同じ話をするようでしたら、私も出るところに出ます」

美鈴が彼の話を遮った言葉は、ここで初めて険しく尖った口調になって、ぴしゃりと彼の頬を叩いた。彼は片手をちょっと美鈴に向かって上げた格好のまま、はっきりと美鈴から拒否されたことを知って、その場に呆然と立ち尽くしていた。美鈴は自分の言葉を終えた時に、もう校門へと歩き出していた。この件はこれで収まった。



もう一人の三年次の先輩の話に移ろう。彼は美鈴と同じく、皆川教授を信奉する人たちの中の一人だった。

彼はもう博士論文に取り掛かっていて、運良く働き口を見つけ、企業の研究者としての将来が待っていた。また、この彼は目鼻立ちも良く、なおかつとても気のつく心根も優しい人で、非の打ちどころがないと言ってよかった。

書棚が高くて美鈴には手の届かない本を取ってやったり、研究室の整理を手伝ったりと、彼はよく美鈴の面倒を見て、美鈴と研究についての意見を交わしたり、共に皆川教授との議論を楽しんだりした。

ある日、学食で美鈴と彼は一緒に昼食を食べていて、美鈴のトレイには生姜焼きの定食、彼のトレイには麻婆丼が乗っていた。美鈴は食事に夢中になっており、彼は美鈴を見つめて、もたもたと麻婆豆腐をレンゲで掬っていた。

「僕は思うんだけど」

彼はこう切り出した。美鈴はそれに気づいてちょっと箸を止めて、「学友」の喋り出すのを待っていた。

「君は人間関係という点で言えば、僕にはなんの興味も持っていないかもしれない、そう思うんだ」

出し抜けにそう言われて、美鈴は顔を赤くした。世話になっている学友に対して持つにしては、あまりに情けが足りないように思う自分の感情が暴かれたからだ。彼はそれを見て、少し悲しそうに目を細めた。

「もちろん、そんなことで君を責めたりしないけど、僕は自分のわがままを言わせてもらうと…」

そこで彼は美鈴を見つめて少し間を置いた。美鈴は目を逸らすことができなかった。

「僕を見て欲しい。そう思うんだ。…本当に、望みはないのかい?」

美鈴はそれに答えなければいけなくなった。普段世話になっているので、美鈴はそれに胸を痛めた。そして彼女はうつむく。

「…ごめんなさい…」

「…そう」

彼は一言、「そう」と言っただけで、それからせっせと麻婆豆腐と米を口に詰め込み、そのまま黙って席を立った。美鈴も黙ったまま、彼が居なくなるまで食事の手を止めて、やっと彼の背中が学食の扉の向こうに見えなくなってから、また生姜焼き定食を食べ始めた。


その晩、美鈴は馨からいつも夜にかかってくる電話を取った。

“もしもし、僕だよ”

「うん、今日もお疲れ様」

“うん、疲れた”

馨は笑ってそう言い、その日の仕事の辛かったことや驚かされたこと、それからこれからの希望や不安についてを、外部の人間である美鈴にも話せる程度まで、話して聞かせた。

「そうなんだ。毎日大変そう。そういえば、日本に帰ってきたら今度はどんな仕事に就くの?」

“多分、まず初めは子会社を任されることになると思う…もし本社に何もなければ。でも、状況はそう良くないということを父さんからも聞いているから、まだわからないけどね”

「そっか…」

“でも、ゆくゆくは本社で経営に携わらなくちゃいけない。だから子会社についてはよく知っておきたいんだ。社員の生活もかかってるしね”


そう言った馨の声は、不安よりも可能性について考えようとする慎重さと、意欲があった。それで美鈴は少し安心した。


「そっか。すごい。私、今すごい人と話してるみたい」

そう言って美鈴は笑った。

“君だってすごいよ。教授秘蔵の研究者の卵なんだから”

馨もそう言って明るい声で笑った。

「ふふ、それほどでも」


それから二人は少しの間、会わない間にお互いの意識がずれてしまわないよう、隙間を埋めるように話をした。しかし、美鈴はこれまでも、この日も、「自分に言い寄る男が時たま現れること」については、馨に一切話しはしなかった。

本当なら、恋人が近くに居ない状況で男に言い寄られるなど、心細くなってしまうこともありえるし、馨に話して不安を解消する方が美鈴も楽だろう。だけど、美鈴は馨の支えになりたかった。だから、遠い国から帰ってくることができない今の馨に対して、自分のことで不安を与えたくなどなかった。彼女は、そういう時に黙っていられる女性だった。


馨との電話を切ると彼女は、少しの不安はありながらも、さっきまで聴いていた馨の声に包まれているような安心感を布団の中にしまって、自分もそれにくるまってしまい、眠りに就く。


彼女の寝顔は子供のように素直だ。また、光を放つ両目が閉じられた彼女の顔は、真昼とは違うしとやかさを見せる月見草のように、ひっそりと輝いていた。





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