第1話

文字数 1,993文字

 動物と分かりあうことなんてできるのだろうか?
 鳴き声の通じる人間同士でも何を考えているかわからないのに。結局自己満足でしかない。
そんな古臭い言葉を私自身の慰めのために繰り返す。寝不足の目をこすって教授の話を聞き流し、つまらない窓の外を眺める。一回の講義室からの景色は別棟に遮られて雲の端が見えるだけだった。単位のためだけの講義。真面目に聞いているのは最前列の生徒ぐらいだ。窓際の後ろから三列目。前の席に背の高い音のの二人組。私の姿は隠されているはずで、睡魔の相手は良心だけだ。頬杖を突き、シャーペンを手放し、瞼の裏の光を眺め始めるのにそう時間はかからなかった。現実から七割ほど旅立った頃、上着のポケットの中のスマホがデフォルトの目覚まし音を鳴らした。教室中に響いた。少なくとも私にはそう聞こえた。そして間違いなく、再程の教授よりも多くの生徒の視線を集めた。私は荷物を鞄に押し込み鞄を掴み、立ち上がった。すみませんと謝った。喉が痛い。寝起きで叫んだらしい。気まずい静寂を無視して、その次の教授の君!という呼びかけを無視して教室を飛び出した。何も恥ずかしかったわけではない。変に目立ったことに後悔はあったし、入学してまだ数か月で話したこともない同級生も多くいたが、今話してない人とはどうせ話さない、その思いが強かった。
 設定したわけでもないのに、突然鳴り響く目覚まし音、これが私の悩みの種だった。
 数日前、一人暮らしにも慣れ、暇つぶしにインテリアを探そうとネットショッピングをしていた私は、チョコレートで作られた猫の彫刻に辿り着いた。サイトには妙にリアルに造形されたビターチョコレートの黒猫はペーパークッションの上で丸くなり眠っている写真が載っていた。衝動的に、特に深く考えもせずに私は購入ボタンを押していた。振り返ってみれば値段の割に凝った彫刻が写真詐欺ではないかと疑い、興味惹かれたのだと思う。おいしかったという評判も後押しした。とにかく私は猫の形をしたチョコレートを購入したはずだった。
 次の日、インターホンの音で目が覚めた。パジャマのままロフトから転げ落ちるように玄関へ向かい、段ボールを受け取った。想像していたよりも大型だったが気にしなかった。無駄に大きいなんてよくあることだ。薬缶で湯を沸かし、マグカップにインスタントコーヒーを淹れる。チョコをつまみながら飲むためだ。座椅子に座って、横に置いた段ボールを開ける。青い箱に筆記体のような文字で商品名らしきものやブランド名が書かれている。箱を閉じている紐を切り、開けた。チョコの匂いが広がる。写真よりもリアルな20センチほどの猫が寝ている。スマホを取り出し、写真を撮ろうと構えた。レンズを通して劣化するとしても撮影したかった。室内灯の安っぽい光の当たり方を気にしてあれこれ動きまわっていると、猫が目を開けたように見えた。まだ、目が覚めていないのかと考えている間に猫は立ち上がり、歩き始めた。
「生きてるなら食べれないじゃないか。」
私は慌てて、パソコンの履歴を開く。昨日のサイトを確認するために。同じサイトの別のページばかり見つかり、肝心のページは見つからない。猫は私の脇腹にすり寄ってくる。感触は柔らかかった。サイトに問い合わせようか悩んでいると目覚まし時計が鳴り響いた。何事かと顔を上げると猫がまだ熱い薬缶で爪を研いでいた。その前足は溶けかけている。私は慌てて猫を引きはがした。ネコ科の誇りであろう爪は不格好に溶けて繋がってしまっている。そんな前足を私の顔に近づけるように猫は身をよじった。ただの溶けたチョコレートのはずなのに痛々しくて私は顔をそらした。その後、私は近くのスーパーでチョコと小さなナイフを買い、猫を治療してやらなければならなかった。何とか足を治した後、箱の解読を始めようと不慣れな筆記体のにらみ合い、どうも筆記体でないということが分かった時、目覚まし音が鳴り響いた。すぐにドンと硬い音が続く。猫がロフトから飛び降りたのだ。足が折れ、体にもヒビが入っている。私は大丈夫と声をかけながら、溶かしたチョコレートで猫を治す。私が治せば治すほど見た目が不格好になり、とても悲しくなった。
 私の悩みはこの自殺したがりな猫をどうにか思いとどまらせたいということだ。なんにせよ生きているものに死んでほしくなかった。大学から慌てて帰ると縛っていたはずの猫が部屋の隅に横たわっている。何度も体当たりをしたようで壁の周りにチョコが飛び散っている。慌てて鍋に火をかけ、チョコレートを溶かして駆け寄る。猫を抱け上げるとボロボロとチョコレートの破片が落下した。猫は鉛筆のようにとがった右前足を舐めて、私の白い服にこすりつけた。
「たべて。しぬから」
そう書き残して、猫は私を見つめる。私は恐る恐る床のチョコを口に入れた。猫は満足そうに目を細めた。
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