第5話

文字数 1,145文字



 食事を済ませた女は、俺が止めたにもかかわらず食器を洗ってくれた。



 暫くすると、焦げ茶色のポシェットをたすき掛けにした女が書斎にやって来た。

「ご迷惑をお掛けしました」

 正座をして、頭を下げた。傍らにはジャケットとボストンバッグがあった。

「記憶は戻りましたか?」

 万年筆を置いた。

「……いいえ。でも、これ以上厄介になるわけには」

「いや、私のほうは構いませんよ。記憶が戻るまで居てください。だって、記憶が無いのにどこに行くつもりですか」

「……駅のほうに行けば、何か思い出すかと思って」

「それだって、確かとは言えないじゃないですか。どっちにしても、記憶が戻ってから行動したほうが安全です」

「……そうなんでしょうけど」

「ここでのんびりしてたら、そのうち記憶も戻りますよ」

「……いいんですか?お言葉に甘えても」

 弱々しい目で見た。

「勿論です。歓迎しますよ。大輝もあなたのことが好きみたいだし」

「……よかった」

 女はホッとした笑顔を見せた。

「あ、コーヒーでも淹れましょう」

 そそくさと腰を上げた。

「ありがとうございます」



 台所に行くと、インスタントコーヒーをカップに入れ、テーブルに載ったポットの湯を注いだ。

「二人だけの男所帯ですし、なんの気兼ねも要りませんよ」

「はい」

 テーブルに着いた女が返事した。

「男親には分からないこともありますので、何か気付いたことがあったら教えてやってください」

 カップを女の前に置くと、テーブルを挟んだ。

 女はお辞儀をすると、カップの取っ手をつまんだ。

「でも、たいき君、しっかりしてらっしゃるから」

「確かに、私よりはしっかりしてますね。けど、抜けてるとこも多々あります。先週も宿題を書いたノートを入れ忘れて嘆いてました。やはり、女手が無いと行き届かなくて」

「じゃ、居候させてもらう代わりに何かお手伝いさせてください。掃除とか洗濯とか」

「いやぁ、それは助かりますが、そんな意味で引き止めたわけじゃ」

「分かってます。でも、私がそのほうが居やすいので」

「……分かりました。では、お願いします」

「ええ」

 安心したのか、女は柔らかな表情で俺を見た。

 うむ……やはり、馬のような目をしている。



 掘っ立て小屋のようなガレージから車を出すと、温泉街のスーパーまで食料の買い出しに出掛けた。

 ついでに衣料品売場に寄ると、着た切り雀の女のために、恥ずかしかったが婦人下着や靴下、セーターなどを購入した。



 戻ると、台所が綺麗に片付いていた。

「おかえりなさい」

 と出迎えた前掛けをした女を見て、一瞬、亡妻と重なった。
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