逆立ちする海神

文字数 3,378文字

 小雨が当たっている。

 あれだけよかった天気が、南に進むにつれ崩れていった。

 ラオは『ガンマディオラ』の船長室にいる。当の船長は真上の船尾甲板だ。

 やることがなくて退屈していると、ロギアに言われたのだ。

「本を読んで、もっと知識をつけろ」

 今のラオは、ラドミールの常識や歴史についてはほとんど知らない。それを覚えておけば今後の役に立つだろう。

 そういうわけで、彼は船長室に閉じこもって夢中で本を読んでいるのだった。

(コンコン)
はーい、ラオがいまーす。
 ノックには返事。これも覚えた。
失礼します。また本を読んでいたのですね。
あ、シュトラ。――うん、冒険家の話がすごく面白いんだ。
これ、よかったらどうぞ。
赤い……。初めて見る飲み物だな。
紅茶ですよ。お勉強もいいですが、夢中になりすぎるのもよくないのですよ。適度に休みを入れないと。
そうだね。いただきます。

 ラオは紅茶のカップを口に近づけた。

 甘い香りが浮き上がってくる。

 飲んでみると、ほんのりした甘みが口の中に広がった。

はぁ……甘くておいしいな、これ。
それはよかったです。――外、だいぶ雨が強くなってきましたね。
あ、本当だ。全然気づかなかったよ。
それだけ夢中になっていたのですよ。こんな中で本を読めるなんて、ラオさんは船酔いにも強いのですね。
もともと漁で暮らしてたから。船にはよく乗ってたしね。――でも、これだけ風が強くなればもうちょっと揺れるはずなんだけど……。
ロギアが〈碧渡(ストーゼ)〉で周りの風を押さえ込んでいるんですよ。だから揺れが最小限で収まっているんです。
……やっぱり、超星力(アストラ)ってすごいね。
巨大な海魔が嵐を引き連れて現れることは知っていますよね。彼らの放つ力が、上空の雷や風を自然に集めてしまうらしいんです。ロギアが乗り込んできてから、より有利に海魔漁を進められるようになったんですよ。

 うんうん、と頷くラオだったが、実はよく知らなかった。

 クラーケンが現れる時はいつも大荒れだったから、それを目印にして島を出てきた。なるほど、あの風雷は奴が引き起こしていたのか。



海神が逆立ちしてる時に海に出るなんて、本当はありえないことだったんだよな。
……海神? 逆立ち?
えっとね、海神が逆立ちするっていうのは、海が荒れて危ないっていうポドカルガス島のことわざなんだ。
私の生まれた街にも海の神信仰はありましたけど、それは初耳です。
ポドカルガス島の海神は凪の海の象徴で、船乗りの守護神なんだ。だから海が荒れて船乗りが危険に晒されることを、海神が逆立ちするって呼んでた。
興味深い言い回しですね。

 近海をクラーケンが通る時、ポドカルガス島はいつも大雨に見舞われた。

 叩きつけるような大雨に息もできないほどだった。

 嵐が去ったあと、砂浜に打ち上げられていた魚の腹には砂が大量に詰まっていたくらいだ。

 あの嵐をクラーケンが呼び寄せているのなら、ラオが最初、思うように戦えなかったのも無理はない。

 今度はロギアがいるから、自分は戦いに集中できるのだ。

せっかくだから、シュトラの超星力(アストラ)のことも教えてくれる?
……ラオさん。
 軽い気持ちで尋ねたのだが、シュトラはなぜか真剣な表情を作っていた。
……うん、いいわよね……。
あ、あの、シュトラ?
ラオさん、私の超星力のこと、知りたいですか?
それは知りたいけど……。
でしたらこちらに来てください。
えっ?

 シュトラは立ち上がって、壁の方へ歩いていった。

 壁に背中をつけて手招きしている。

 指示された通り、ラオは移動してシュトラの前に立った。

 シュトラはラオより背が低い。そのため見おろす格好になった。上目づかいでラオを見つめてくる彼女は、頬をほんのりと朱に染めていた。

えっと、ラオさん……。
どうすればいいの?
ここに手を突いて、さっきみたいに質問してもらえませんか?……できれば、ちょっと強めの感じで。

 シュトラは、自分の顔の左側の壁を示している。

 ラオにはさっぱりわけがわからなかったが、言われたからにはやるべきなのだろう。

――ドン。
シュトラの超星力のこと、教えてくれる?
あっ……ああああああああっ――……
 シュトラが大声を上げて、両腕で自分の体を包み込んだ。
す、すごい威力だわ……どうしよう……震えが……うぅ……。
(こ、この子けっこう怖いかも……)
 おしとやかなイメージがガタガタ崩れていく。
あ、超星力、ですけど、私は、水の壁を、張ることが、できるんです……。
 呼吸が乱れまくっている。
水の壁……。
(ふうー、ふうー……)
水流を噴き上げさせるので、海魔の体当たりをはね返すことができます。フィーネの力も同じで、私達は〈流障(トラード)〉と呼んでいるんです。
超星力の壁……。
ええ。クラーケンが触手を叩きつけてきても、私達がきっちり防いでみせますよ。
(本当に、この船のみんなは俺の復讐に協力してくれるんだ……)
ラオさん、超星力の扱いは大丈夫ですか?
島で特訓は積んできたから大丈夫のはずだよ。火球も作れるし、火炎も撃てるし、体に纏って相手を焼き焦がすこともできるし。
 炎が水に弱いという先入観は捨ててもらった方がいいだろう。
俺の〈紫焔(ブレープル)〉は水に触れても消えたりしない。だから海中に向かって撃つこともできるんだ。でも……。
でも?
練習するだけなら使いこなせるけど、本当にちゃんと戦えるのか、自信が持てないんだ。まだ海魔に勝てた試しがないし……。
それは実戦を経験していけばすぐに慣れます。今度の仕事がそれにぴったりですから、今後に活かせるよう頑張りましょう。
そっか、そうだよね……。
はい。――それでですね、ラオさん。
(うわ! また顔がとろけかかってる……!)
反対の手でも、同じことをしてもらえませんか?
い、いいけど……今度も何か言った方がいいの?
さ、さすがですラオさん!――じゃ、じゃあ「力を貸せよ」と。
――ドンッ。
――力を、貸せよ。
はい、もちろんです! ああ、ラオさん素敵っ! くううううううっ!!
 一人で盛り上がっているシュトラに、ラオは完全に置いてきぼりを食らっていた。
なーにやってんだ、お前ら……。
ロ、ロギア!? こ、これはその……。
あー、弁解はいいよ。シュトラが言い出したことだろ?
お姉さまったら、もうっ!
 ロギアとフィーネが船長室に入ってくる。
はいお姉さま、もういいですよね! 出るですよ!
フィーネ、私は今とても幸せな気分なの! 水を差さないで!
差しますっ! さあ外に出ましょうお姉さま! 大雨ですよ!
きゃあ冷たいっ、いやぁやめてっ、ラオさんの温もりがああああああっ――
 シュトラは強制退去させられた。
あいつ、お前が来てからやたら暴走するようになったな……。
 ロギアは「しょうがねえな」と髪をいじる。
シュトラには昔からああいう趣味があるみたいだが、ここに来て爆発したな。よくはわからねぇけど、ラオがちょうど好みに合う感じなんだろうな。
そんなにいいかなぁ、俺……。
お前ってほら、まだ純粋じゃん。
これからも汚れたくはないけど……。
だから、頼めば素直にああいうことをやってくれるって思ったんだろ。確かに顔も綺麗だし、シュトラにはたまらねぇかもな。
ふあっ!?
ん、どうした?
顔が綺麗なんて初めて言われた……。
 ロギアが「きしし」と笑った。
そういうところが純粋ってわけだよ。ま、あたしとしてはシュトラが物静かなお嬢様やってるよりは多少騒がしいくらいの方が楽しいからさ、くたびれない範囲で相手してやってくれねぇかな。行きすぎたらちゃんと止めに入るからよ。
で、できる範囲でね。
よし、頼んだぜ。船の雰囲気は明るい方がいいからな。――じゃ、勉強続けてくれ。

 ロギアが出て行き、船長室はまたラオ一人になった。

 ロギアは本当に仲間が好きなんだな、とあらためて感じた。

 シュトラがあんなにぐいぐい来るとは予想外だったが、それで彼女が幸せを感じてくれるというなら、またやってあげてもいいと思う。


 それにしても。


 シュトラが、ラオに言わせた言葉。


 ――力を貸せよ。


 シュトラは、ラオが仲間の力を借りることにためらいを持っていると思っているのだろう。だから意識を切り替えさせるつもりであんなことを言わせたのかもしれない。

 ラオは再び本を広げた。

――借りるよ、みんなの力。
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登場人物紹介

「ラオ」

孤島出身の少年。〈紫焔(ブレープル)〉と呼ばれる紫色の炎を操ることができる。

「ロギア・ガーネット」

帆船『ガンマディオラ』の甲板を仕切っている少女。勝ち気な性格。

「シュトラ」

『ガンマディオラ』のメンバーでフィーネの姉。故郷を海魔に攻め滅ぼされ、流転の果てにこの船の一員となった。

「フィーネ」

シュトラの妹。海魔に故郷を攻め滅ぼされ、姉とともに行く当てのない旅を続け、やがて『ガンマディオラ』に乗船することになる。姉への依存が深刻。

「ディック・ハンヴィール」

『ガンマディオラ』の船長。〈神糸(リオット)〉と呼ばれる能力で帆船一隻を丸々操っている。膨大な力を消費するため、航行中はいつも寝落ち寸前の状態。

「サクラ・イカヅチ」

東方の武人の血を引く少女。雷撃を宿した刀を使って海魔を倒す。

「ハーヴェイ・チェッカータ」

大声を衝撃波に変える〈鬼哭(シャウガ)〉という能力を持つ青年。能力のせいで大声を出すと話し相手を吹っ飛ばしてしまうため、寡黙を貫いている。

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