山の神様

文字数 2,126文字

 クマのクマゴロウは、ぶるぶると震えながら、ほら穴の奥で小さくうずくまっていた。ごわごわした毛を逆立てて丸まりながら、空腹に鳴るお腹にため息をつく。
「どうしてぼくは、こんなところに来てしまったんだろう。森というところはきっとステキなところだと思っていたのに」
 心の中でつぶやいて、まだ少し痛む右の後ろ足をなめた。いつもきつく繋がれていたせいで、皮のベルトの太さと同じだけ毛が抜けていて、むき出しの肌には脱走したときのスリ傷が赤く残っている。
 クマゴロウはサーカスのクマだった。
 子どものころに山から連れてこられたらしい。サーカスの人間は優しくなかった。クマゴロウは数えきれないくらいムチでたたかれ、怒鳴られて育った。どんなにうまく芸をしてお客を喜ばせても、サーカスの人間たちはだれもほめてくれない。それどころか小さな失敗を怒ってエサをくれないこともあった。それでもクマゴロウには他に生きるところなどない。ただじっと、ひとりきりで耐えてきた。
 ある日、サーカスは小さな村にやってきた。すると。
 クマゴロウは毎晩、自分を呼ぶ声が聞こえてくるのに気が付いた。人間たちの家の向こう、青々とした山から温かな声が呼ぶ。それはだんだん大きくなってゆき、とうとうクマゴロウは心を決めた。
 あの森へ行こう。ぼくを呼んでいるだれかに、会いに行こう。森はきっとステキで、ぼくを呼ぶだれかはきっと優しくて、もうたたかれたり怒鳴られたりしないで楽しく暮らせるにちがいない。
 夜のやみにまぎれて、クマゴロウはありったけの勇気を出してサーカスのテントを逃げ出したのだ。
「それなのに……」
 生まれて初めての森には見たことのないものばかり。怖いものばかり。食べ物のありかもわからない。
 クマゴロウはたまたま見つけたほら穴の中で、こうしてうずくまるしかなかったのだった。
「だぁれ? だれかいるの?」
 そのときだった。
 ほら穴の入り口からだれかの声がした。とても温かい声だった。はっとした。もしかして、森からぼくを呼んでいた、あのだれかだろうか。ぴくりとクマゴロウは顔を上げた。
「……ぼくは……ぼくはクマゴロウ。ぼくを呼んでいたのは、きみ?」
 もう少しで明けようとしている夜は、あたりを薄青く染めている。
 だれかは、ぴょこりとほら穴の中へ進んできた。小さな影が首をかしげながらじっとこちらを見つめている。見たことのない生き物だ。小さな体、小さな頭。けれど、その頭の上の耳だけはピンと大きく立っていて、まるでサーカスにいた大鳥の羽のようだった。
「もしかして、きみは山の神様? ぼく、サーカスにいたときに神様の話を聞いたことがあるよ」
 クマゴロウは怖いのをがまんして、一生懸命に言った。もしもこれが山の神様なら助けてほしい。震えながらも、もそもそと這い出ていくと、神様は目を見開いた。クマゴロウの姿を見て驚いているようだった。
「あの、ぼく……」
 キュルルルルルル。
 さらに話をしようと頑張って口を開いたとき。大きな大きなお腹の音がほら穴に響いた。
「……ごめんなさい。ぼく、何も食べてなくて。……神様、どこかに食べ物はありませんか?」
「ふふっ……あはははは」
 しばらくの間、ぽかんとした顔でクマゴロウを見ていた神様は、耳をふるふると動かしながら笑い出した。
「あなた、おもしろいわね。わたしが目の前にいるのに、食べ物がどこにあるかわからないの?」
 言われていることがさっぱりわからなくて、クマゴロウはぱちぱちとまばたきをするだけだ。
「はぁ、おかしい。よくわかったわ。あなたがとっても変わっているってことだけはね」
 ま、いいわ。神様はちょっと投げやりに言って、くるりとクマゴロウに背を向けた。
「ついていらっしゃい。食べ物がある場所に連れて行ってあげる」
 そのままぴょこぴょことはねて行こうとするのを、クマゴロウがあわてて呼び止めた。
「あの、山の神様、ぼくはずっとサーカスにいて、こんなところに来たのは初めてなんだ。見たことのないものばっかりで、とても怖いんだ。ここから出ても、だれもぼくにひどいことをしませんか?」
 おそるおそる聞いてみる。とても大事なことだったから。
 しばられ、つながれ、たたかれ、怒鳴られてきたことは、クマゴロウの大きな体のそこら中にしみついていて、傷が治っていても、いまだに痛くて痛くてしかたがない。この森でもひどいことをされるのなら、もう自分にはどこにも居場所はないとクマゴロウは思ったのだ。
 首だけこちらを向いて、神様はじっとクマゴロウを見すえた。
 何かを考えているようだった。やがて。
「だいじょうぶ。わたしは山の神よ。なにも心配いらないわ。さぁ行きましょう」
 山の神様の背後からまばゆい光が差してきた。それは虹色に輝いて甘い匂いでみちている。
「うん」
 光を反射してきらめく、ピンと立った美しい神様の耳を確かめてから、クマゴロウはぐっと顔を上げた。
 いつの間にか、すっかり夜が明けて、ほら穴の半ばまで日が差し込んでいる。
 踏み出した足の裏を、ふんわりと温められた土がやわらかく包み込んだ。
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