第13話 誰が信じろっていうの?
文字数 2,626文字
「開けたベランダのサッシにストッパーをしてるでしょ? マジックでちょんと印をつけてあるよね、僕が出られる幅にさ。サッシを強引に動かすと警報が鳴るものも取り付けてあるよね? 開けられた形跡はあった?」
「ない」
「それに、爪とぎを新しくしてくれるんでしょ? 昨日言ってたもんね」
涼音さんはさらに目を真ん丸にして固まってしまった。
「そんなの……誰が信じろっていうの?」
僕はちらりと腕時計を見た。
「人間にしてもらう前に万年様に言われたことがあるんだ、それでもいいかって、でね──」
その時、涼音さんのスマホが着信音を鳴らした。
涼音さんは辺りを憚 って、はい、と小さな声で応えた。
うん──うん──今ね、友達と会ってるの──そんなに時間はかからないと思うけど──夜は? 一緒に出掛けられる? 食事とか──うん──あぁ、そうなんだ……。ふっと小さなため息が漏れた。
僕は話の内容をおおよそ把握した。あいつまた、セックスをするためだけに涼音さんを呼び出している。それさえすめば夜の食事なんて面倒なものには付き合わない。目の前がくらくらした僕はスマホを奪い取った。
「お前! もう二度と電話してくんな!」
周りの客の視線が一斉に集まった。
「もう二度とだ! わかったら返事ぐらいしろ! はい、が言えないならもう切るぞ! 今度電話してきたら噛み殺すからな‼」
涼音さんは茫然と、僕とスマホを交互に見ていた。僕はもう一度腕時計を見た。
「拒否設定にして」スマホを差し出した。
受け取った涼音さんは困惑したような表情を浮かべた。
「いますぐ。即座に」僕の言葉の通りに、涼音さんはスマホを操作した。
「寒い夜だった」僕は組んだ両手の肘をテーブルに乗せた。
「陽が沈む前から降り出した雨は、間断なく木の葉を鳴らし、そして揺らした。木々の間からは街灯が見えた。その街灯が浮かび上がらせる幾筋もの白は、それが永遠に降り続くと予言するかのようだった」
僕は一息ついて天井を見上げた。
「突然ガサガサッと音がして、真っ黒い人影が公園の植込みに入ってきた。僕は怖くて後ずさった。雨をたくさん乗せた植込みの木々からは容赦なく雨粒が落ちてきた。
その人影はなおも近づいてきた。僕は捕まって殺されるんだと思った。僕にはもう、逃げ場がなかった。いや、逃げる気力も体力もなかった。雨に濡れた体は、恐怖と寒さで震えていた」
一気に、ここはもう一気に説得するしかない。あの男は運良く僕が撃退した。けれど、僕がチャトランであることを信じてもらわなくてはならない。何より僕には時間がない。
「なおも近づくその人影は、引っかかってしまった傘を投げ捨て素早く僕をつかんだ。すごい速さで僕は地上を離れ、その人影の胸に抱かれた。
その人が言葉を発した。大丈夫だよ、大丈夫だよ、怖くないよって……。
それが初めて聞いた涼音さんの声だった。寒くて不安で腹ペコだった僕はきっとミャーミャー鳴いていたんだろう」
僕はじっと涼音さんの目を見つめた。
「寒かったねえ、怖かったねえ、もう大丈夫だからね。涼音さんは放りだした傘を拾い上げて、急ぎ足で帰宅した。あのワンルームマンションに。
涼音さんの髪も服も顔も雨でぬれていた。それでもかまわず僕をタオルで拭いてくれた。そして、ふと思い立ったように僕を温かいお湯でシャンプーしてくれた。
シャンプーなんてされるのは初めてだった。濡れるのは嫌だったけど、僕はもうすでにずぶ濡れだったからされるがままにした。
それからタオルで拭いて、ものすごく怖い音のするものを近づけた。大丈夫だよ、大丈夫だからって。そのすごい音のするものからは暖かい風が吹いて、僕の毛は乾いていった。でも僕は、その音に怯えていたんだよ。
それから僕をベッドに乗せて毛布でくるんで、すぐ戻るからいい子にしてるのよ、と頭を撫でて出て行った。僕は辺りをキョロキョロしたけど、怖くて毛布から出なかった。
その毛布からは、僕を助けてくれた涼音さんの匂いがした。その残り香に包まれ心穏やかに、僕は少しの間うとうととした。
ガタッという音に、僕は起き上がった。すると、ドアの隙間で黒いものがブルブルと震えていた。
怖くなった僕は後ずさった。
もしやあのお化けに、僕を助けてくれたひとが食べられてしまったんじゃないかと、パニックになった。
その黒いものは、ますます動きを大きくして唸り声を上げた。僕に気づけばすぐに襲いかかってくるに違いないと、体が震えた。
次に見えたのは膝から下の足だった。さらに唸り声を大きくして現れたのは涼音さんだった。強引に引っ張った両手の荷物とともにスピンして、僕に背中を見せて尻餅をついた。
早く助けなくちゃと思ったけど、ベッドが高すぎて降りられなくて、ベッドの端を行ったり来たりした。
今考えれば、荷物を置いてドアを開けてから入ってくれば良かったんだよね。たとえが悪くて怒らないで欲しいんだけど、ツボの中にある好物の金平糖を掴んで手が抜けなくなる猿、みたいな。
涼音さんって、時としてどこか合理性を欠く行動に走るときがあることを、一緒に暮らしていくうちに僕は知った。
両手の荷物をかたくなに離さず、強引にドアから入ろうとする。あれは、いかにも鈴音さんらしい行動だった」
鈴音さんが少し笑ったように見えた。
「体に負けないぐらいの荷物の中身は、僕の食事とか食器とか、トイレとか、トイレの砂とか、家になるかごとか、爪とぎとかが入っていた。
両手に荷物で傘はさせないから、涼音さんはずぶぬれで、ぜぇぜぇと肩で息をしていた。それなのに、僕にえさをくれて水を与えて、おしっことウンチはここにするのよと、トイレを教えた。あれは何月だったっけ?」
「いち、がつ?」涼音さんは何かをこらえるように辛うじて声を出した。
「これって、盗聴のなせる業?」
ぶるぶるっと首を振る涼音さんの目に光るものが見えた。
「ない」
「それに、爪とぎを新しくしてくれるんでしょ? 昨日言ってたもんね」
涼音さんはさらに目を真ん丸にして固まってしまった。
「そんなの……誰が信じろっていうの?」
僕はちらりと腕時計を見た。
「人間にしてもらう前に万年様に言われたことがあるんだ、それでもいいかって、でね──」
その時、涼音さんのスマホが着信音を鳴らした。
涼音さんは辺りを
うん──うん──今ね、友達と会ってるの──そんなに時間はかからないと思うけど──夜は? 一緒に出掛けられる? 食事とか──うん──あぁ、そうなんだ……。ふっと小さなため息が漏れた。
僕は話の内容をおおよそ把握した。あいつまた、セックスをするためだけに涼音さんを呼び出している。それさえすめば夜の食事なんて面倒なものには付き合わない。目の前がくらくらした僕はスマホを奪い取った。
「お前! もう二度と電話してくんな!」
周りの客の視線が一斉に集まった。
「もう二度とだ! わかったら返事ぐらいしろ! はい、が言えないならもう切るぞ! 今度電話してきたら噛み殺すからな‼」
涼音さんは茫然と、僕とスマホを交互に見ていた。僕はもう一度腕時計を見た。
「拒否設定にして」スマホを差し出した。
受け取った涼音さんは困惑したような表情を浮かべた。
「いますぐ。即座に」僕の言葉の通りに、涼音さんはスマホを操作した。
「寒い夜だった」僕は組んだ両手の肘をテーブルに乗せた。
「陽が沈む前から降り出した雨は、間断なく木の葉を鳴らし、そして揺らした。木々の間からは街灯が見えた。その街灯が浮かび上がらせる幾筋もの白は、それが永遠に降り続くと予言するかのようだった」
僕は一息ついて天井を見上げた。
「突然ガサガサッと音がして、真っ黒い人影が公園の植込みに入ってきた。僕は怖くて後ずさった。雨をたくさん乗せた植込みの木々からは容赦なく雨粒が落ちてきた。
その人影はなおも近づいてきた。僕は捕まって殺されるんだと思った。僕にはもう、逃げ場がなかった。いや、逃げる気力も体力もなかった。雨に濡れた体は、恐怖と寒さで震えていた」
一気に、ここはもう一気に説得するしかない。あの男は運良く僕が撃退した。けれど、僕がチャトランであることを信じてもらわなくてはならない。何より僕には時間がない。
「なおも近づくその人影は、引っかかってしまった傘を投げ捨て素早く僕をつかんだ。すごい速さで僕は地上を離れ、その人影の胸に抱かれた。
その人が言葉を発した。大丈夫だよ、大丈夫だよ、怖くないよって……。
それが初めて聞いた涼音さんの声だった。寒くて不安で腹ペコだった僕はきっとミャーミャー鳴いていたんだろう」
僕はじっと涼音さんの目を見つめた。
「寒かったねえ、怖かったねえ、もう大丈夫だからね。涼音さんは放りだした傘を拾い上げて、急ぎ足で帰宅した。あのワンルームマンションに。
涼音さんの髪も服も顔も雨でぬれていた。それでもかまわず僕をタオルで拭いてくれた。そして、ふと思い立ったように僕を温かいお湯でシャンプーしてくれた。
シャンプーなんてされるのは初めてだった。濡れるのは嫌だったけど、僕はもうすでにずぶ濡れだったからされるがままにした。
それからタオルで拭いて、ものすごく怖い音のするものを近づけた。大丈夫だよ、大丈夫だからって。そのすごい音のするものからは暖かい風が吹いて、僕の毛は乾いていった。でも僕は、その音に怯えていたんだよ。
それから僕をベッドに乗せて毛布でくるんで、すぐ戻るからいい子にしてるのよ、と頭を撫でて出て行った。僕は辺りをキョロキョロしたけど、怖くて毛布から出なかった。
その毛布からは、僕を助けてくれた涼音さんの匂いがした。その残り香に包まれ心穏やかに、僕は少しの間うとうととした。
ガタッという音に、僕は起き上がった。すると、ドアの隙間で黒いものがブルブルと震えていた。
怖くなった僕は後ずさった。
もしやあのお化けに、僕を助けてくれたひとが食べられてしまったんじゃないかと、パニックになった。
その黒いものは、ますます動きを大きくして唸り声を上げた。僕に気づけばすぐに襲いかかってくるに違いないと、体が震えた。
次に見えたのは膝から下の足だった。さらに唸り声を大きくして現れたのは涼音さんだった。強引に引っ張った両手の荷物とともにスピンして、僕に背中を見せて尻餅をついた。
早く助けなくちゃと思ったけど、ベッドが高すぎて降りられなくて、ベッドの端を行ったり来たりした。
今考えれば、荷物を置いてドアを開けてから入ってくれば良かったんだよね。たとえが悪くて怒らないで欲しいんだけど、ツボの中にある好物の金平糖を掴んで手が抜けなくなる猿、みたいな。
涼音さんって、時としてどこか合理性を欠く行動に走るときがあることを、一緒に暮らしていくうちに僕は知った。
両手の荷物をかたくなに離さず、強引にドアから入ろうとする。あれは、いかにも鈴音さんらしい行動だった」
鈴音さんが少し笑ったように見えた。
「体に負けないぐらいの荷物の中身は、僕の食事とか食器とか、トイレとか、トイレの砂とか、家になるかごとか、爪とぎとかが入っていた。
両手に荷物で傘はさせないから、涼音さんはずぶぬれで、ぜぇぜぇと肩で息をしていた。それなのに、僕にえさをくれて水を与えて、おしっことウンチはここにするのよと、トイレを教えた。あれは何月だったっけ?」
「いち、がつ?」涼音さんは何かをこらえるように辛うじて声を出した。
「これって、盗聴のなせる業?」
ぶるぶるっと首を振る涼音さんの目に光るものが見えた。