時間を戻したい
文字数 1,931文字
誰かを好きになった時、人は何を望むのか。
その人のことをもっと知りたい。心を通わせたい。自分を好きになって欲しい。触れ合いたい。自分だけのものにしたい。
でも、何よりも、その人にはずっと笑顔でいて欲しい——。
なのに、好きな人の笑顔がこんなにも心を締め付けるのは何故だろう。
今日も彼女は、友達の輪の中で楽しそうに笑ってる。そんな笑顔は僕にも安らぎを与えてくれる。
でも、昼休み。また彼がやって来た。
廊下の窓から彼女の名を呼び、手を振って。
それに手を振り返す彼女。冷やかす友達にも手を振って、長い髪を揺らしながら、弁当の包みを持って駆けていく。
核融合が起きたかのような笑顔。そのエネルギー放出は僕を谷底に突き落とす。
彼女を待つ彼と目が合った。ようっとばかりに右手を上げるから、同じようにして応える。
彼に駆け寄る彼女。
——早く行こ!
彼女の唇の動き。字幕付きの洋画を観ているかのよう。
じゃあなと手を上げる彼。応じる僕。
二人が見えなくなった後、ただ息を吐 いただけだよと誰かに言い訳をするかのように、小さなため息を吐 いた。
友達に恵まれた。好きな人ができた。部活は楽しい。成績もまずまずだ。親はうざいけど、それはどこも似たようなものだろう。なのに去年の夏、心の隅に生まれた小さな黒い粒が、いつまで経っても消えてくれず、少しずつ存在感を増している。
弁当を持って屋上に出た。
「よお」
竹田が先に食べていた。
そのそばを通り過ぎ、裏庭を見下ろすフェンスに近づく。
真下のベンチには彼女と彼がいて、彼女の膝には弁当箱が二つ見える。
ひとつを彼が受け取った。
——いつも、ありがとう。
——美味しくできてればいいんだけど。
——大丈夫。由香は料理上手だよ。
——ありがと。
心の中でアテレコするが、一年以上つき合ったカップルがどんな会話をするかなんて分からない。
不意に胸が苦しくなり、裏庭の空気が一変するのを感じた。
「不味くて食えねえよ」
「ごめん。何か間違えたかな」
「ざけんなよ、お前」
彼が弁当箱を地面に叩きつけ、中身が周囲に散乱する。
まずいぞ。
僕は苦しい胸を押さえながら、走り出す。おかずを頬張った竹田が何かを言ったけれど、聞き取れない。
次の瞬間には、僕はもう裏庭にいた。
二人の喧嘩は続いている。
「食べ物を粗末にする人、大っ嫌い」
「不味く料理するのも食べ物を粗末にしてるってことじゃねえのかよ」
「ひどい。分かった。もう作らない」
彼女は自分の弁当を片付け始めた。
「ざけんな。旨く作ればいいだけだろ」
二人同時に立ち上がる。
「誰があんたなんかに。二度とごめんよ」
「お前」
彼が彼女に手をのばそうとした時、僕は二人の間に飛び込んで背中で彼女をかくまった。
「やめろ」
「どけ」
「どかねえよ」
彼女は背後で身体を小さくして震えている。
「てめえっ」
僕のパンチの方が早かった。彼は後ろに倒れ込む。
「大丈夫?」
振り返ったとき、そこに彼女の姿はない。
もう一度振り返ると、倒れた彼に寄り添う彼女がいた。
汚れることも厭わず膝をつき、彼の頭を抱いている。ハンカチを出して、口元の血をそっと押さえる。
「馬鹿。弱いくせに」
そこに僕の居場所はない。そう自覚したとき、竹田に呼ばれて我に返った。
眼下では仲睦まじく弁当を食べている二人。
何回目だろう。いくら妄想を繰り返したところで、二人の間には割り込めない。
妄想の中ですら勝てない相手に、どうして現実に勝てようか。
だって、彼は本当にいいやつなのだから。
「また妄想か」
食べ終わったらしい竹田が近づいて来た。
並んで裏庭を見下ろす。
「まだ諦められないのかよ」
「るせえ」
「もう一年過ぎたぞ」
「先に好きになったのは俺なんだ」
「知ってるよ」
「彼女も俺のこと、まんざらでもない感じだったんだよ」
「かもな」
「何でこうなったんだろ」
「油断してたとか?」
「そこまで自信ねえって」
「じゃあ、臆病だったんじゃね?」
「……」
「残念だったな」
「…るせえ」
誰かを好きになった時、人は何を望むのか。
好きな人には笑顔でいて欲しい——。彼女は彼の前ではいつも飛び切りの笑顔だ。
「女は星の数ほどいるってよ」
竹田は高校生とは思えない陳腐な慰めを口にした。こいつも悪いやつではないのだ。
「星の数? 宇宙には銀河が幾つあって、一つの銀河には星が幾つあるか知ってるか?」
「さあ」
「宇宙には数千億の銀河があって、一つの銀河の中には数千億の星があるんだ」
「へえ」
たかだか七十億の人口の比ではない。しかも女はその半分だ。
「それに、おまえは知らないかもしれないけどな」
「今度は何だよ?」
星が幾つあろうとも、女が何億いようとも——
「彼女は一人しかいないんだ」
了
その人のことをもっと知りたい。心を通わせたい。自分を好きになって欲しい。触れ合いたい。自分だけのものにしたい。
でも、何よりも、その人にはずっと笑顔でいて欲しい——。
なのに、好きな人の笑顔がこんなにも心を締め付けるのは何故だろう。
今日も彼女は、友達の輪の中で楽しそうに笑ってる。そんな笑顔は僕にも安らぎを与えてくれる。
でも、昼休み。また彼がやって来た。
廊下の窓から彼女の名を呼び、手を振って。
それに手を振り返す彼女。冷やかす友達にも手を振って、長い髪を揺らしながら、弁当の包みを持って駆けていく。
核融合が起きたかのような笑顔。そのエネルギー放出は僕を谷底に突き落とす。
彼女を待つ彼と目が合った。ようっとばかりに右手を上げるから、同じようにして応える。
彼に駆け寄る彼女。
——早く行こ!
彼女の唇の動き。字幕付きの洋画を観ているかのよう。
じゃあなと手を上げる彼。応じる僕。
二人が見えなくなった後、ただ息を
友達に恵まれた。好きな人ができた。部活は楽しい。成績もまずまずだ。親はうざいけど、それはどこも似たようなものだろう。なのに去年の夏、心の隅に生まれた小さな黒い粒が、いつまで経っても消えてくれず、少しずつ存在感を増している。
弁当を持って屋上に出た。
「よお」
竹田が先に食べていた。
そのそばを通り過ぎ、裏庭を見下ろすフェンスに近づく。
真下のベンチには彼女と彼がいて、彼女の膝には弁当箱が二つ見える。
ひとつを彼が受け取った。
——いつも、ありがとう。
——美味しくできてればいいんだけど。
——大丈夫。由香は料理上手だよ。
——ありがと。
心の中でアテレコするが、一年以上つき合ったカップルがどんな会話をするかなんて分からない。
不意に胸が苦しくなり、裏庭の空気が一変するのを感じた。
「不味くて食えねえよ」
「ごめん。何か間違えたかな」
「ざけんなよ、お前」
彼が弁当箱を地面に叩きつけ、中身が周囲に散乱する。
まずいぞ。
僕は苦しい胸を押さえながら、走り出す。おかずを頬張った竹田が何かを言ったけれど、聞き取れない。
次の瞬間には、僕はもう裏庭にいた。
二人の喧嘩は続いている。
「食べ物を粗末にする人、大っ嫌い」
「不味く料理するのも食べ物を粗末にしてるってことじゃねえのかよ」
「ひどい。分かった。もう作らない」
彼女は自分の弁当を片付け始めた。
「ざけんな。旨く作ればいいだけだろ」
二人同時に立ち上がる。
「誰があんたなんかに。二度とごめんよ」
「お前」
彼が彼女に手をのばそうとした時、僕は二人の間に飛び込んで背中で彼女をかくまった。
「やめろ」
「どけ」
「どかねえよ」
彼女は背後で身体を小さくして震えている。
「てめえっ」
僕のパンチの方が早かった。彼は後ろに倒れ込む。
「大丈夫?」
振り返ったとき、そこに彼女の姿はない。
もう一度振り返ると、倒れた彼に寄り添う彼女がいた。
汚れることも厭わず膝をつき、彼の頭を抱いている。ハンカチを出して、口元の血をそっと押さえる。
「馬鹿。弱いくせに」
そこに僕の居場所はない。そう自覚したとき、竹田に呼ばれて我に返った。
眼下では仲睦まじく弁当を食べている二人。
何回目だろう。いくら妄想を繰り返したところで、二人の間には割り込めない。
妄想の中ですら勝てない相手に、どうして現実に勝てようか。
だって、彼は本当にいいやつなのだから。
「また妄想か」
食べ終わったらしい竹田が近づいて来た。
並んで裏庭を見下ろす。
「まだ諦められないのかよ」
「るせえ」
「もう一年過ぎたぞ」
「先に好きになったのは俺なんだ」
「知ってるよ」
「彼女も俺のこと、まんざらでもない感じだったんだよ」
「かもな」
「何でこうなったんだろ」
「油断してたとか?」
「そこまで自信ねえって」
「じゃあ、臆病だったんじゃね?」
「……」
「残念だったな」
「…るせえ」
誰かを好きになった時、人は何を望むのか。
好きな人には笑顔でいて欲しい——。彼女は彼の前ではいつも飛び切りの笑顔だ。
「女は星の数ほどいるってよ」
竹田は高校生とは思えない陳腐な慰めを口にした。こいつも悪いやつではないのだ。
「星の数? 宇宙には銀河が幾つあって、一つの銀河には星が幾つあるか知ってるか?」
「さあ」
「宇宙には数千億の銀河があって、一つの銀河の中には数千億の星があるんだ」
「へえ」
たかだか七十億の人口の比ではない。しかも女はその半分だ。
「それに、おまえは知らないかもしれないけどな」
「今度は何だよ?」
星が幾つあろうとも、女が何億いようとも——
「彼女は一人しかいないんだ」
了