5-2 星降る夜に見ゆるもの

文字数 9,548文字

 ミゼールことバルトロミゼール・デッソは、幼い頃から宇宙に飛び立つことを夢見る少年であった。
「俺たちのご先祖様は、あの星空を延々旅してここまでたどり着いたんだ。俺もいつか宇宙に出て、色んな星を旅してみたい」
 初等院の導師に率いられて博物院の中を訪れた際、北門に面した玄関ホールの吹き抜けに浮かぶ巨大な天球図のホログラム映像を見上げながら、ミゼール少年は興奮した面持ちでそう語った。明るい茶髪の下で紅潮した彼の横顔を眺めて、隣りに立つ黒髪の少女の表情は、感心すると同時に若干心細げでもあった。
「ミゼールは、宇宙に行っちゃうの? 《星の彼方》には《オーグ》がいるんでしょう? 怖くないの?」
「怖いわけなんてあるもんか! それに《星の彼方》以外にも、宇宙は広いんだぜ。《オーグ》のいない星を探して回るんだよ」
「……じゃあ、私も一緒に行ってもいい?」
 そう言って上着の裾を引っ張る少女に向かって、ミゼール少年は当然のように大きく頷いてみせる。
「当たり前だろ、ジューンも一緒に、沢山の星を見て回ろうぜ!」
 そのときの彼の、にかっと口を開けて白い歯の覗く笑顔が、黒髪の少女――ジューン・カーダのその後の原動力となった。ミゼールと共に宇宙に行くために、ミゼールに置いていかれてしまわないようにという想いは、少女を学業へと駆り立てていく。
 少年の後を追いかけて、学業一辺倒だったジューンの意識が変化することになったのは、中等院に進んでスヴィ・ノマと出会ってからである。
 スヴィは癖の強い黒髪を短髪に刈り込んで、褐色の肌に活力をみなぎらせた瞳が特徴的な、行動力の固まりのような少女であった。同じ黒髪でもその頃にはストレートの長髪を背中まで垂らしていたジューンとは、外見からして対照的である。
「いいなあ、その綺麗な髪。私が伸ばすとそのまま頭がまん丸に大きくなるだけだから、あなたみたいなさらさらした髪は憧れるわ」
 ジューンの髪に興味を持つや否や、スヴィは初対面であることなどまるで頓着せずに、一気に距離を詰めてきた。なんと反応していいのかわからず戸惑うジューンに、スヴィは自己紹介と共に躊躇わずに手を伸ばす。握手を求められているのだと気がついたジューンが、おずおずと出して右手をしっかと掴んで、スヴィは握り締めたまま勢いよく手を振ったものだ。
 その様子を見かけたミゼールが、面白くなさそうな顔でふたりの間に割り込んだ。
「おい、お前。ジューンを怖がらせてんじゃねーよ」
 傍から見れば、同年代の中では背の高いスヴィが、小柄なジューンにちょっかいを出しているように見えただろう。だが幼い頃からの付き合いであるミゼールに、ジューンが怯えているかどうか判別出来なかったとは思えない。後から思い返せば、あれはジューンに対して馴れ馴れしいスヴィへの対抗心の表れだった。
「何よ、私はこの子と仲良くしたいだけなの。ちんちくりんはあっちに行ってな」
 スヴィは適当にあしらうだけのつもりだったろうが、「ちんちくりん」という言葉はミゼールのプライドをいたく傷つけた。当時、ミゼールの身長は小柄なジューンとほとんど同じ程度、もしかするとやや低いぐらいで、口には出さなかったものの彼の悩みの種だったのだ。
 憤懣やるかたないといった表情のミゼールと、文字通り彼を見下すスヴィが睨み合い、お互いに掴みかかるまで、ものの十秒と掛からなかった。
「誰がちんちくりんだ、このオトコ女!」
「ちんちくりんが嫌ならはっきり言ってやるよ、このチビ!」
 長身で男勝りのスヴィと、小柄ながらはしっこさでは負け無しのミゼールは、後々中等院で語りぐさになるほどの取っ組み合いを繰り広げる。最初は呆然としていたジューンは、やがて自分が原因であることを思い出すと仲裁に入ろうとするが、興奮するふたりにあっさりと弾き出されてしまった。
 その際に運悪く頭を打ちつけたジューンが目を回してしまったことで、派手な取っ組み合いは中断された。医務室に運ばれたジューンがベッドの上で意識を取り戻したとき、目の前でふたりが揃って泣きそうな顔で覗き込んでいたことを、よく覚えている。
 かくして何かとぶつかり合うミゼールとスヴィ、そんなふたりの間でおろおろするジューンという図式が出来上がった。
 衝突の切欠には事欠かない。身体能力を競うものは個人競技から団体競技まで当然のこと、座学の成績でも鍔迫り合う。もっとも座学ではふたりを抑えてジューンが常にトップに立っていたので、体力勝負ほど白熱することはなかったものの、突っかかるふたりをその都度止めに入るのはジューンの役割になってしまっていた。
 困ったことに幼馴染みのミゼールはもちろん、スヴィもまたジューンにとっては大切な友人であった。時折り兄貴分を気取るミゼールと異なり、スヴィはジューンに対等の友人として接し、その上で引っ張り回すのだ。
「この前、美味しいジェラートの店を見つけたんだ。行ってみよう!」
「博物院公園のステージでコンサートがあるって!」
「今度の院祭の演し物、一緒に考えよう!」
 ジューンの中等院での生活が充実していたのは、ひとえにスヴィのお陰と言っていい。思いついたら即行動に起こすスヴィに振り回されるのは体力が要ったが、疲労以上に得るもの、感じるものの方がはるかに多かった。
 だからこそふたりが何かにつけて張り合い続けるのは、ジューンにとって頭痛の種であった。大抵は彼女が間に入ることで事態は収まるのだが、仲裁が失敗してかえって油に火を注ぐ羽目になることもある。そうなるとジューンにはどうしようもなくなって、大人の出番となる。
 中等院で大人と言えば専ら導師を指すが、彼らは同時に博物院生であり、即ち《繋がれし者》でもある。ジューンたちの導師のキンクァイナはひょろりとした、起伏に乏しい目鼻立ちの若い男性であった。
「バルトロミゼール・デッソ、スヴィ・ノマ。いい加減にしたらどうだ」
 キンクァイナの声はぼそぼそとして、聞き取りにくいことの方が多いぐらいだったが、どういうわけか彼の言葉は効き目があった。講義にしても、眠気を誘いそうなほど抑揚がないはずなのに、なぜだかその内容は脳裏に刻み込まれているのだ。キンクァイナが一言言ってくれれば、ミゼールもスヴィもとりあえず大人しくなった。
 だが運悪くキンクァイナが不在の場合もある。たまたま彼が不在のタイミングが相次いだある日、仲裁し損ねてまたしても取っ組み合いから弾き出されたジューンは、とうとう堪忍袋の緒を切らしてしまった。
「ふたりともいい加減にしてよ!」
 スヴィだけでなく、ミゼールも聞いたことが無いような大声を張り上げて、ジューンは目に涙をためながらふたりを睨みつけた。
「やってらんない。私もう、疲れた。ふたりとも、好きなだけ喧嘩してればいいんだわ。もう知らないから!」
 スヴィもミゼールも初めて目にするジューンの怒りに驚き、狼狽え、何か声を掛けようとするが、ジューンはふたりを無視して踵を返した。頬を伝う涙は、果たして性懲りもなく衝突し続けるスヴィとミゼールに向けられたものか、それともふたりを取り持つことが出来ない自分が情けないからなのか、当のジューンにもそれはよくわからない。
 その場を離れて、中等院の校舎も飛び出して、どこをどう彷徨ったのか、ジューンはいつの間にか博物院北側のホールの隅にいた。
 結構な数の人影が行き交うホールの壁際のベンチに腰掛けて、ジューンは座面に両脚を乗せてスラックスの膝を腕で抱え込み、誰にも見つからないよう隠れてしまいたくて仕方なかった。
 怒りに任せて感情を爆発させてしまった自分が、つくづく恥ずかしい。これまでにもふたりの前で泣き出すことはよくあったが、怒りをぶちまけたのは多分初めてだ。実のところ、あんな風に感情を発露させる自分に一番驚いていたのは、ほかならぬジューン自身であった。
 おもむろに顔を上げれば、ホールの中空には巨大な漆黒の球体が浮かんで彼女を見下ろしている。球体の中には数え切れないほどの星が煌めいているが、その大半がスタージアからの観測結果に基づく予想図でしかないことを、ジューンはミゼールに聞かされて知っていた。
「この前、《星の彼方》方面以外の極小質量宙域(ヴォイド)が見つかったんだ。新しい、植民可能な惑星を探し出す計画が、ついにスタートするんだよ!」
 そのことを教えてくれたときのミゼールは、緑色の瞳をきらきらさせて興奮していたものだ。
「もうすぐ極小質量宙域(ヴォイド)の向こうへ、無人探査機が派遣される。もしかしたら、そこでまた人が住めるような星が見つかるかもしれないんだ。そうしたら今度は有人調査だぜ。俺も早く大人になって、そういう星に行ってみたい!」
 熱く夢を語るミゼールの表情は、幼い頃から変わりない。そんなミゼールの側にいたくて、ジューンは努力してきたつもりだった。身体能力には自信がなかったから、せめて勉学を頑張れば、彼と肩を並べていくことが出来るだろう。
 そう思って頑張ってきたというのに、中等院に上がってもミゼールは、彼女のことを相変わらず世話を焼くべき妹分としてしか見ようとしない。彼が対等に相手をするのはジューンではなく――
「ジューン、こんなとこにいたの」
 彼女の名を呼ぶ声を耳にして、赤く腫らした目で振り返ると、その先に立っていたのはスヴィのすらりとした長身だった。
「良かった。通信端末もオフになってるから、どこに行っちゃったのかと思った」
 全速力で探し回っていたのだろう。息を切らしながら、安堵を浮かべて歩み寄ってくるスヴィの顔を、ジューンは真っ直ぐに見返すことが出来ない。何も言わずに視線を逸らし、再び腕の中に顔を埋めるジューンを見て、スヴィは愕然として立ち尽くす。
「その、ごめん。いつもジューンが間に入ってくれるからって、甘えてたよ」
 困惑と反省を褐色の顔に浮かべて、スヴィが心から謝罪を口にしているのは、ジューンにも十分に伝わった。
「なんでかなあ、ミゼールとはいっつも喧嘩になっちゃう。でもジューンを困らせてるのはわかってるんだ。もうあいつとは喧嘩しないよ。約束する」
 本当に喧嘩しないままでいられるとは思えない。だが、少なくとも喧嘩をしないようにスヴィが努力するだろうことは、信じられる。
 でも、そうじゃないのだ。
 立てた膝に額を擦りつけながら、ジューンは己の怒りの正体をとっくに見極めていた。
 感情が爆発してしまったのは、喧嘩を止めないふたりに痺れを切らしたからではない。喧嘩出来るふたりが、羨ましかったのだ。
 ミゼールの目には、スヴィは彼と同等の、いやもしかすると共に高め合う存在として映っている。本当は自分こそがその立ち位置を望んでいたのに、スヴィは初対面からごく自然にその場所に入り込んでしまった。それが口惜しくて、妬ましい。
 スヴィが嫌な女の子だったらいいのに、とジューンは理不尽なことを思った。そうであれば彼女を嫌うのに引け目を感じないで済むのに。
 しかしそんなわけがない。スヴィ・ノマはジューンにとって大切な、今ではミゼールと並ぶほどの存在だ。そんな嫌な女の子ならミゼールが最初から相手にするはずがないし、ジューンと友人でいられることもなかっただろう。
「ねえ、スヴィ。ひとつお願いがあるの」
 ゆっくりと面を上げたジューンは、頬に残る涙の跡を拭いながら、不安そうにこちらを覗き込む友人の顔を見返した。
「なに、なに? なんでも言って」
 スヴィは中腰の姿勢のまま、勢い込んで身を乗り出す。そんな彼女の顔の向こうに、ジューンはそっと人差し指を突き出した。その指の先には、スヴィの背後で宙に浮かんだままゆっくりと回る、巨大な天球図がある。
「私とミゼールはね、将来は宇宙を旅したいって思ってる。新しい入植先候補の星を探して、調べて回るの。元々はミゼールの夢だけど、ずっと聞かされている内に、私もすっかりその気になっちゃった」
 想定外の話題を持ち出されたのだろう、スヴィは少々戸惑いながら後ろを振り返る。
「ミゼールから聞いたことあるよ。いずれ宇宙を飛び回ってやるって」
 数え切れないほどの光点が散りばめられた、真っ黒な球形のホログラム映像に目を向けながら、スヴィは答えた。その前に身長制限で引っ掛かるよ、とからかって喧嘩になったことは、ジューンも知っている。
 だがジューンはそんなことを混ぜっ返したいのではなかった。彼女が提案したのは、もっと別のことであった。
「スヴィも一緒に、宇宙を目指さない?」
 思いがけない誘いを受けて、スヴィは再び振り返ってジューンの顔を見つめ返した。
「私も? 宇宙に?」
「そう。私と、ミゼールと一緒に。三人で一緒に宇宙に行くの」
「ミゼールも? それは、うーん、どうなんだろう」
 腕組みして考え込むスヴィに、ジューンはようやく笑顔を浮かべて言った。
「もう喧嘩しないんでしょう? 一緒に宇宙を目指すなら、きっと仲良くやれるよ」
 ミゼールもスヴィも大切なら、ふたりとも失いたくないのなら、三人で一緒にいられるようにすればいい。それがジューンの出した、彼女なりの結論だった。
 スヴィの意向やミゼールの気持ちを無視した、無茶な願いであることはわかっていた。
 だが誰よりも自分自身を偽っていることに、そのときのジューンはまだ気づいていなかった。

 ジューンの願いだからといって、スヴィまで宇宙を目指さなければいけない道理はない。だが博物院の北ホールで懇願されて以来、スヴィは周囲にもそれとわかるほど宇宙への興味を示し出し、熱心に勉強に励むようになった。
 スヴィの変化に最も戸惑ったのは、間違いなくミゼールだった。天敵と見做していたはずの相手が、彼のアイデンティティとさえ言える領域にずかずかと踏み込んできたのだ。それだけなら今まで通りに真っ向から反発すれば済んだのだが、彼の調子が狂わされたの理由は別にあった。
「お前は恒星間航法ってやつを、根本的にわかっていない!」
 ミゼールが机を叩きつけて、声を張り上げる。彼の向かいには不服そうな顔のスヴィと、その隣りには澄ました顔で柑橘茶を啜るジューンがいる。
「どうしてさ。宇宙はあんなに広くてすかすかなのに、恒星間航法が使える宙域は限定されてるっておかしくない?」
「お前の目が見える範囲で考えるなよ。すかすかに見えても、ちょっとしたデブリや空間の歪みがあるだけで事故が起きる。周囲に計算外の質量が計測されない、何万キロ範囲の宙域ってのは、まず見つけるのが大変なんだ」
 口を曲げて承服しかねるスヴィに、ミゼールはひとしきり頭を掻き毟ってから、やがてジューンに泣きついた。
「ジューン、お前からも言ってやってくれ」
 ミゼールの懇願に対して、ジューンは視線だけ明後日の方向に向けながら

もない。
「恒星間航法のことなら任せておけって自慢してたのは、どこの誰だったっけ」
「こいつに宇宙の話をしたのはお前だろう?」
 そう言ってミゼールはスヴィに、今度は非難がましい視線を向ける。
「だいたいお前も、ジューンにお願いされたからって安易すぎるだろう。しかも俺に教えてくれってのは、どういう了見だ」
「そんなこと言ったって、この手の話に一番詳しいのはあんたなんだろう。あんたに話を聞くのが一番手っ取り早いじゃないか」
 スヴィは口を曲げたまま、だが悪びれもせずそう答えた。
「いいからあんたは知っていることを、教えてくれればいいんだよ。全部吐くまで解放するつもりはないからね」
 それが教えを請う人間の態度か、というミゼールの反論も虚しい。スヴィの興味に一度火がついたら誰も止められないということは、彼もよく知っている。ミゼールとスヴィがいちいち角突き合わせ、ジューンが間を取りなすということはいつしかなくなり、代わりに三人が揃って真剣な顔で机を囲む光景が当たり前になっていく。
 ジューンからの涙ながらの願いは、スヴィにとっては切欠に過ぎなかったのだろう。いざ興味を向けてみれば、宇宙とは彼女の好奇心を刺激する格好の対象であった。もはやジューンとの約束の存在など忘れてしまったかのように、スヴィは宇宙に関する知識を貪欲に吸収していく。そんな彼女の姿勢に、ミゼールがいい加減でいられるはずがない。彼は態度こそぞんざいだったが、その講義内容については彼の知りうる限りの知識を存分に披露してみせた。
 ふたりは時折り意見の食い違いで白熱することはあったが、それは以前のような単なる意地のぶつかり合いではなかった。むしろ自分たちが宇宙に出るため、未知の惑星の調査隊員となるための幼いながらも真剣な議論であり、そういう場にジューンが立ち会った場合は、彼女自身も積極的に議論に加わった。ただしふたりだけで議論の折り合いがつくことは少なかったので、最後に審判を下すのはやはりジューンの役目であった。
 極小質量宙域(ヴォイド)に向けた無人探査機が、いよいよ静止衛星軌道上の宇宙ステーションから進発することになったのは、ちょうどその頃の話である。
「無人探査機の出発を、なんとか地上から観測出来ないか」
 ミゼールの切実な願いを切欠に三人が調べたところによれば、市街地から離れた南西の岬からなら、夜半に望遠グラスを使えば観測出来る可能性があった。
「望遠グラスなら博物院にあるはずだよ」
「キンクァイナ師にお願いすれば、一晩ぐらい借りれるんじゃない?」
 そうと決まれば話は早い。三人の行動は迅速だった。キンクァイナに相談し、それぞれの保護者を説得して、探査機が出発するその夜に、天体観測という口実の下に岬にキャンプを張る了承を取りつけたのだ。
「今時分は天候も穏やかだから大丈夫だとは思うが、ここら辺は時折り強い海風が吹く。くれぐれも崖の端には近寄らないように」
 目的地まで三人を車で送り届けたキンクァイナは、そのほかにも注意事項を言い含めてから、翌日の昼過ぎに迎えに来ると約束して再び車で去っていく。残された三人は興奮した面持ちのまま、慣れないキャンプの準備を始めた。
 悪戦苦闘しながらテントを張った後は、夕食に取りかかる。三人とも料理に長けているとは言い難かったから、用意したのはポトフとリゾットの簡易食だ。ポータブル現像機(プリンター)に材料をぶち込み、設計図(レシピ)を登録して再現するだけだったが、非日常的なシチュエーションで友人たちと囲む食事が美味しくないはずがない。
 ちょうど時刻は辺りが夕闇に染まる頃合いで、岬の端で食事を取る彼たちの目の前には、一面に広がる空と海が鮮やかな茜色に染め上げられている。三人は見事な眺望を堪能しながら、ジューンが手ずから淹れた柑橘茶に口をつける。
 だが本番は、彼らの周囲を夜の闇が包み込むように帳を下ろしてからであった。
「見ろ、ジューン、スヴィ。宇宙ステーションはあそこだ!」
 満天の星空の下、望遠グラスのレンズにしきりに目を当てたり外したりしながら、ミゼールが地平線すれすれ南方の夜空を指差してみせる。ジューンも同じようにグラス越しに目を凝らすと、大気に遮られて瞬く星の海の中でひとつだけ、定期的に微かに明滅を繰り返す明かりが視認出来た。
「宇宙ステーションの光って、地表から見えるもんなんだねえ」
 ジューンと並んでグラスを目に当てていたスヴィも、感嘆の声を上げる。
「なんとか観測出来そうで良かったね、ミゼール」
 ジューンに声を掛けられて、ミゼールはそれどころではないといった顔で振り返る。
「落ち着いている場合か! ふたりとも見逃すなよ、もうすぐ探査機が発進するぞ!」
 そう言ってミゼールが再びグラスに目を当てた、その瞬間――
 宇宙ステーションの明滅の脇に、ぽうっと小さく別の明かりが灯った。
 地表からおよそ四万キロメートル上空で出発する探査機の推進エンジンの光が、果たして地上から目にすることが出来るのか。内心では半信半疑だったジューンだが、その微かな、時間にすればほんの一瞬の光の動きは、確かに彼女の瞳にも認めることが出来た。
「見たか! 今、俺たちは探査機の出発を、この目で見届けたぞ!」
 グラスを目に当てたまま興奮の雄叫びを上げるミゼールに、スヴィが何度も確かめるように問いかける。
「なんか光ったけど、もしかして今の?」
「それだよ、それ! ちゃんと目に焼きつけただろうな? 今のが探査機の出発の明かりだ。人類の新天地を探る、希望の光だ!」
「あれで終わり? なんか一瞬でよくわかんなかった。もう見えないかなあ」
 グラス越しに星空を覗き続けるスヴィが、そう言って一歩、二歩と前に足を踏み出す。彼女の横でそれまで余韻に浸っていたジューンは、グラスを下ろしながらミゼールを振り返った。
「でも、多分あれだって光はわかったよ。そうかあ、探査機が出発するところ、本当に見れたんだね」
 てっきり目を輝かせて大きく頷き返すだろうと思われたミゼールは、大事な望遠グラスを投げ出して、必死の形相で、ジューンの視線のちょうど反対側に向かって駆け出していた。予想外の光景を目にして思わず固まるジューンの耳に、ミゼールの「スヴィ!」という絶叫が届く。その声でようやくジューンが反対に目を向けるのと、風に煽られて崖から足を踏み外しかけていたスヴィの身体(からだ)にミゼールが後ろから抱きついたのは、ほぼ同時だった。
 スヴィの腰にがっしりと両腕を回したミゼールが、そのまま両脚を踏ん張って勢いよく尻餅をつく。ミゼールの上に背中からのしかかるような格好となったスヴィは、しばらく何が起きたかわからないという顔をしていたが、やがて上体を起こすと、背後で息を荒くしたままのミゼールに振り返った。
「ミゼール……」
「馬鹿野郎!」
 至近距離からの怒鳴り声に、スヴィがびくりと肩をすくめる。なんとか呼吸を落ち着けながら、ミゼールはさらに怒声を浴びせ掛けた。
「崖の端に近づくなって、キンクァイナ師も言ってただろうが! こんなところから落ちたら、死んじまうぞ!」
 唾を飛ばしながらミゼールが指し示す先には、切り立った崖下に黒い海が打ちつけて、白い波が泡立つ様が小さく見える。眼下の光景を目の当たりにして、再びミゼールに視線を戻したスヴィは、やがて細かく歯の根を震わせ始めた。
「ご、ごめん……」
「望遠グラスを覗いたまま歩くなんて、ここまで馬鹿だとは思ってなかっ……」
 まだまだ言い足りないという勢いだったミゼールの言葉が、不意に途切れる。事態を把握して、今頃になって腰が抜けてしまったスヴィが、座り込んだまま抱きついてきたためだった。スヴィはほとんどしがみつくようにしてミゼールの背中に両手を回し、今や身体(からだ)全体を小刻みに震わせている。ミゼールは最初呆気にとられて彼女の横顔を見返していたが、やがて宥めるかのようにその背中をぽんぽんと叩いてみせた。
「安心しろ、もう大丈夫だ」
 ミゼールが気遣うように声を掛けると、スヴィが青ざめた顔のまま微かに頷く。
 その様子を、ジューンは一歩離れたまま、ただ眺めていることしか出来なかった。
 ジューンはすぐ横にいるはずのスヴィが、崖から落ちそうになっていることに全く気がつかなかった。いや、もし気がついたとしても、ミゼールのように咄嗟に反応して助け出すことは出来なかっただろう。きっと身体(からだ)をすくませたまま、声も上げられなかったかもしれない。
 スヴィの危機を見逃してしまったことと、その窮地をミゼールが救ったということ。そのふたつの事実を目の前に突きつけられて、ジューンは自分の足元こそがあやふやになっていくような感覚に襲われていた。
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