奇観百景 吸収大樹

文字数 932文字


「行きたいところがある」
 先輩に頼まれて車を出した。親父譲りのオンボロクーパーには、カーナビが着いていない。先輩の案内に従っているうちに、隣の県まで来てしまった。
「ほら、ここだよ」
 近くの駐車場に車を止めて、目的の場所まで案内される。先輩が見たがるものは、人里離れた奥地にあることが多いので、こんな町中に連れてこられるのは珍しい。
 先輩が指したのは、何の変哲もない街路樹だった。
 こんなものをわざわざ隣の県まで移動して見に来たのかと訝しんでいると、もっとよく見ろと小突かれた。
 女性から男性への暴力も暴力ですよ、抗議したが聞き入れてくれない。先輩は古い人間なのだ。
「ほら、樹の中に、ガードレールが呑み込まれているでしょ」
「ああ」
 たまに見かける。樹が成長するうちに、近くにある人工物を取り込んでしまうのだ。面白がって写真を撮る人もいるけれど、各地の奇妙な光景を見慣れている先輩がこの程度の光景で満足するとは思えなかった。
「ここには昔、町があった」
「町?」
 ポケットから折りたたんだ古い地図を出して、僕に説明してくれる。先輩の地図には、僕らがさっき通ってきた町と、今いる町の間に、もうひとつ知らない町が存在していた。
「十年かけて、樹が呑み込んだんだ」
「え、いや」
 そんな馬鹿な、という言葉を呑み込む。今まで先輩とは、そんな馬鹿なといいたくなるような光景を何度も見てきたのだ。
「だから、私が産まれた病院も」
 この樹の中の町が、先輩の生まれ故郷なのか。
「塾の帰り道に、いつもアイスを買ってもらったコンビニも」
 中学生のころの先輩を想像したが、ブレザーもセーラー服も似合いそうにない。
「自転車に乗れるようになって、調子に乗って転んだ急坂も」
 以前、脛に残った傷の話を聞いたことがある。
「部活の大会で骨折して入院した病院も」
 思い出に怪我や病院が出てくる頻度が高い。
「全部、この樹の中にある」
 先輩は愛おしそうに樹を撫でている。
 信じがたい話だけれど、僕に嘘をつくためだけに、地図や小道具を用意したとは思えない。
 ダムに沈む村があるのなら、樹に呑まれる町もあるのだろうか。
「だから、里帰りができる君がうらやましいよ」
 夕日に照らされる綺麗な横顔からは、何も読み取れなかった。
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