朝食は軽く済ませたい 1
文字数 3,370文字
一連のやりとりを経て完全に目を覚ましたはいいものの、それですぐ普通に動き出せるかどうかは話が別だ。
体というものはずっと同じような姿勢でいた後にすぐ動けるものではない。寝ていた後というのもそれで、下手に無理な動きを行うと最悪、目眩や吐き気というものが発生する場合もある。
この辺もやはり個人の体質や性格が深く関わる繊細な問題になってくるが、カトレアは体を起こしてもすぐには動けない方だ。起こす動き自体も相当ゆっくりしたものだが、この時に感じている倦怠感たるや、熱病の治りかけの時などと似ている。つまり、これだけでとても憂鬱な気持ちになれる程度には楽しくない感覚だ。そういうものを感じない人にとってはわからなくても、確かに自分の中に存在してる感覚なので、それを怠けや気のせいと一蹴するのは暴論だと思われる。
つらいものはつらい。
最低限の動作をするのはこの際仕方ないと割り切るとして。
だがやはり無理は良くないだろう。
つまり、起きたとはいえゆっくり過ごせるならそれが一番だ。
なのに、やっと平静を取り戻した空気の読めない堅物には、そういう配慮がない。
「早く着替えて下さい!」
きっとこの男にとっては起床後の着替えなど、髪を整えるのと同じような感覚でさくさくとやってしまうものなのだろう。
カトレアに背中を向けたままでも騒がしい。見えてなくても着替えたかどうかは衣擦れの音でわかるのだろう。そんなものにずっと聞き耳を立ててるのはどうかと思わなくもないが、これは彼女を知っているが故の自衛でもあるのだろう。敢えてそこは踏み込まないでおく。
どうやら彼はカトレアが未だにあられもない格好をしているのがよほど気にくわないらしかった。しかし着替え終わるまで決してこちらに視線を向けない辺りは、性格の紳士さと言うよりは、やはり単に直視できないウブさを感じる。
仮にここで好色な目を向けてきて「女を見放題だぜげへへ」とされる方が余程早急に着替える気が起きるのだが、もちろんそれを言う気はない。
一応、見た目だけなら全身が無駄に出来過ぎな美青年なので、そんな変態的態度は笑えるほど似合わないだろうけど。
…………ちょっと見てみたくはある。
「まだいいでしょ。もうちょっとゆっくりさせてよ」
「そんなわけにはいきません」
全身が求めるまま、急がずのんびりゆっくりと着替えながら言う彼女に返ってきたのは、きっぱりはっきりとした否定。
普段も融通の利かない男だが、ここまでではない。
ちょっとねだれば少しくらいは大目に見てくれる。
その選択肢のなさに別の解を思い当たったカトレアは、一瞬手を止めて息をついた。ほぼ毎日のことだし自分で選んだことだ。今更嫌になった訳ではないが、慣れるかどうかは別の話。そして彼女からすれば「いつものこと」でしかないものも、訪れるものからすれば文字通りに「一生に一度のこと」なのだから、むしろこの先も慣れるべきではないのだろう。
再度動き始めた自分の動作が、さっきよりも少しだけ俊敏になっている。
しかし大慌てという程にはならない辺りは、やはり日常の延長だった。最初の頃の自分はどうだっただろうか、と少しだけ考えてみても、昔の感覚などうまく思い出せない。出来るようになってしまえば、出来なかったことを忘れる。感覚などそんなものだろう。
衣装棚から適当な服を取り出して着替えながら自嘲する。
記憶と感覚は違う。
普段忘れていたって記憶はどこかに残っているもの。思い出さないだけ。
けれど感覚は、生きている限り時間が経てば薄れるのだ。
昔の「痛かった」記憶は残るが「痛かった」感覚そのものは確実に薄まる。覚え続けるのは「痛いと思った自分」の記憶でしかない。感覚が薄れることをも人は忘れると呼ぶが、常に今を生きていくために大事なのは今の感覚だから、それで構わない。稀に過去の傷が疼く現象は存在するが、それらにはそうなるだけの理由があるし、簡単には起こらない。
どんなに覚えていたい感覚も、いつまでも残っていてはくれないもの。優しいそれも悲しいそれも。
そんな終わりない思考をしながら着替え終わる。広くない部屋なので、寝床の数歩先には衣装棚があるし、隣の姿見などはちらっと目をやるだけで終わりだ。どうせ顔などそうそう変化しない。
ふと視線を流せば、朝だと示すように窓から注ぐ朝日が、部屋の中をチカチカと通り過ぎる。綺麗だが、たまにはこの部屋を換気しろと言われているような気がする光景だ。彼女の住む家には使用人などおらず家事は全部自分だが、生来の面倒臭がりもあって必要最低限しか行っていないので、気づけば埃は溜まっている。寝室はその最たる例だ。今日もしも時間ができたらやろう、と毎日思いつつ出来ないままである。
一通り着替え終わって扉へと向かう途中、未だに背中を向けたままその場を動かない男を追い抜いたところで「ちょっと終わったんなら教えて下さいよ」と文句が飛んできたが、気にせずに扉を開く。文句を言った当人もそれが気にされないことには慣れているので「居間の方にいますよ」と教えてくれた。
寝室の扉を開けば、日当たりが悪いため少し暗い廊下。
この家は町の普通の一軒家と同じほどの大きさしかない、よくある間取りの広くない家だ。居間と言っても、寝室から歩いて数歩の先にある階段を降りたすぐ目の前にある部屋で、玄関と繋がっているから使い勝手の理由で居間扱いしてるだけの部屋だ。
この家に来るものは全部そこにいてもらうので客間と言っても良いのだろうが、客がいなくても過ごす時間が長すぎるので、居間という方がしっくりくるようなそんな部屋。この家の室内は全てただの民家と何の違いもないが、壁などが結構分厚く出来ているのは、ここが単に居住目的の家ではないからなのだろう。ここは一定の快適さを与えつつも、中に住むものを出さないことを念頭に作られた、賢者である彼女専用の牢獄である。
今の所彼女に出る理由はないから、牢獄としての務めを果たしたことはないただの家だ。
そのまま階段を降りようとするカトレアの後ろから、当然のように青年もついてくる。
「髪、寝癖が残ってますよ」
「気にしないからいいわよ」
「そこは女性として気にして下さい」
「気にする相手がいるならそうするわ」
「僕がいるでしょう? あぁ折角綺麗な髪をしてるのに」
「いやね、髪を触るような色っぽい事をしない相手は対象外よ?」
「……覚えてろ」
「その時が来れば思い出すかもね」
そんな会話をしている間に階段は終わって居間の前。化粧すらしてないのだから顔くらいは洗ってくるべきだろうが、時間が惜しいと言い訳。普段何もなければちゃんと顔は洗っている。決してものぐさの言い訳ではない。
窓が近くにないので薄暗い廊下で、しっかり閉まっている扉の前に立つと、彼女は深呼吸した。慣れたつもりだが、毎回この瞬間は緊張する。どういう相手が部屋にいるのか入ってみないとわからないから。
それに関しては事前に容姿なりの情報を教えようか、と前に背後の男から以前提案された事もあったが、丁重にお断りした。
例え限りなく事実だけを彼から言われるとしても、誰かの視点が入ればその分だけ情報は狭くなる。そうでなくても限りある情報しか得られないのだから、そこからふるいにかけられる情報は最大限少なくあるべきだ。
それに、この緊張は手放してはならない気がする。慣れるべきでない理由と同じ理由で。一期一会という言葉があるが、自分にとってはよく来る客の一人でも、相手からすれば初めて訪問した先で初めて会う相手なのだから、すべての機会は出来るだけ大事にしたい。
鼓動の鳴りすぎは寿命に悪いらしいが、今更何年縮んだところで構うものか。
深呼吸するその時間、後ろで待っている青年は何も言わない。
ここに来た最初の頃こそ彼は色々気にしていたけれど、繰り返すうちに沈黙を覚えた。普段はかなり口うるさいが、学習できない馬鹿ではないのだ。そうでなければ、この後に一緒に部屋へ入ることなど許していない。
気を引き締めて、居間へ続く扉を軽く二回叩く。木の扉にしては重く鈍く濁った音は、中に鉄骨でも入ってるのかもと毎回思わせる。
中からの返事はないが気にせずに扉を開いた。
体というものはずっと同じような姿勢でいた後にすぐ動けるものではない。寝ていた後というのもそれで、下手に無理な動きを行うと最悪、目眩や吐き気というものが発生する場合もある。
この辺もやはり個人の体質や性格が深く関わる繊細な問題になってくるが、カトレアは体を起こしてもすぐには動けない方だ。起こす動き自体も相当ゆっくりしたものだが、この時に感じている倦怠感たるや、熱病の治りかけの時などと似ている。つまり、これだけでとても憂鬱な気持ちになれる程度には楽しくない感覚だ。そういうものを感じない人にとってはわからなくても、確かに自分の中に存在してる感覚なので、それを怠けや気のせいと一蹴するのは暴論だと思われる。
つらいものはつらい。
最低限の動作をするのはこの際仕方ないと割り切るとして。
だがやはり無理は良くないだろう。
つまり、起きたとはいえゆっくり過ごせるならそれが一番だ。
なのに、やっと平静を取り戻した空気の読めない堅物には、そういう配慮がない。
「早く着替えて下さい!」
きっとこの男にとっては起床後の着替えなど、髪を整えるのと同じような感覚でさくさくとやってしまうものなのだろう。
カトレアに背中を向けたままでも騒がしい。見えてなくても着替えたかどうかは衣擦れの音でわかるのだろう。そんなものにずっと聞き耳を立ててるのはどうかと思わなくもないが、これは彼女を知っているが故の自衛でもあるのだろう。敢えてそこは踏み込まないでおく。
どうやら彼はカトレアが未だにあられもない格好をしているのがよほど気にくわないらしかった。しかし着替え終わるまで決してこちらに視線を向けない辺りは、性格の紳士さと言うよりは、やはり単に直視できないウブさを感じる。
仮にここで好色な目を向けてきて「女を見放題だぜげへへ」とされる方が余程早急に着替える気が起きるのだが、もちろんそれを言う気はない。
一応、見た目だけなら全身が無駄に出来過ぎな美青年なので、そんな変態的態度は笑えるほど似合わないだろうけど。
…………ちょっと見てみたくはある。
「まだいいでしょ。もうちょっとゆっくりさせてよ」
「そんなわけにはいきません」
全身が求めるまま、急がずのんびりゆっくりと着替えながら言う彼女に返ってきたのは、きっぱりはっきりとした否定。
普段も融通の利かない男だが、ここまでではない。
ちょっとねだれば少しくらいは大目に見てくれる。
その選択肢のなさに別の解を思い当たったカトレアは、一瞬手を止めて息をついた。ほぼ毎日のことだし自分で選んだことだ。今更嫌になった訳ではないが、慣れるかどうかは別の話。そして彼女からすれば「いつものこと」でしかないものも、訪れるものからすれば文字通りに「一生に一度のこと」なのだから、むしろこの先も慣れるべきではないのだろう。
再度動き始めた自分の動作が、さっきよりも少しだけ俊敏になっている。
しかし大慌てという程にはならない辺りは、やはり日常の延長だった。最初の頃の自分はどうだっただろうか、と少しだけ考えてみても、昔の感覚などうまく思い出せない。出来るようになってしまえば、出来なかったことを忘れる。感覚などそんなものだろう。
衣装棚から適当な服を取り出して着替えながら自嘲する。
記憶と感覚は違う。
普段忘れていたって記憶はどこかに残っているもの。思い出さないだけ。
けれど感覚は、生きている限り時間が経てば薄れるのだ。
昔の「痛かった」記憶は残るが「痛かった」感覚そのものは確実に薄まる。覚え続けるのは「痛いと思った自分」の記憶でしかない。感覚が薄れることをも人は忘れると呼ぶが、常に今を生きていくために大事なのは今の感覚だから、それで構わない。稀に過去の傷が疼く現象は存在するが、それらにはそうなるだけの理由があるし、簡単には起こらない。
どんなに覚えていたい感覚も、いつまでも残っていてはくれないもの。優しいそれも悲しいそれも。
そんな終わりない思考をしながら着替え終わる。広くない部屋なので、寝床の数歩先には衣装棚があるし、隣の姿見などはちらっと目をやるだけで終わりだ。どうせ顔などそうそう変化しない。
ふと視線を流せば、朝だと示すように窓から注ぐ朝日が、部屋の中をチカチカと通り過ぎる。綺麗だが、たまにはこの部屋を換気しろと言われているような気がする光景だ。彼女の住む家には使用人などおらず家事は全部自分だが、生来の面倒臭がりもあって必要最低限しか行っていないので、気づけば埃は溜まっている。寝室はその最たる例だ。今日もしも時間ができたらやろう、と毎日思いつつ出来ないままである。
一通り着替え終わって扉へと向かう途中、未だに背中を向けたままその場を動かない男を追い抜いたところで「ちょっと終わったんなら教えて下さいよ」と文句が飛んできたが、気にせずに扉を開く。文句を言った当人もそれが気にされないことには慣れているので「居間の方にいますよ」と教えてくれた。
寝室の扉を開けば、日当たりが悪いため少し暗い廊下。
この家は町の普通の一軒家と同じほどの大きさしかない、よくある間取りの広くない家だ。居間と言っても、寝室から歩いて数歩の先にある階段を降りたすぐ目の前にある部屋で、玄関と繋がっているから使い勝手の理由で居間扱いしてるだけの部屋だ。
この家に来るものは全部そこにいてもらうので客間と言っても良いのだろうが、客がいなくても過ごす時間が長すぎるので、居間という方がしっくりくるようなそんな部屋。この家の室内は全てただの民家と何の違いもないが、壁などが結構分厚く出来ているのは、ここが単に居住目的の家ではないからなのだろう。ここは一定の快適さを与えつつも、中に住むものを出さないことを念頭に作られた、賢者である彼女専用の牢獄である。
今の所彼女に出る理由はないから、牢獄としての務めを果たしたことはないただの家だ。
そのまま階段を降りようとするカトレアの後ろから、当然のように青年もついてくる。
「髪、寝癖が残ってますよ」
「気にしないからいいわよ」
「そこは女性として気にして下さい」
「気にする相手がいるならそうするわ」
「僕がいるでしょう? あぁ折角綺麗な髪をしてるのに」
「いやね、髪を触るような色っぽい事をしない相手は対象外よ?」
「……覚えてろ」
「その時が来れば思い出すかもね」
そんな会話をしている間に階段は終わって居間の前。化粧すらしてないのだから顔くらいは洗ってくるべきだろうが、時間が惜しいと言い訳。普段何もなければちゃんと顔は洗っている。決してものぐさの言い訳ではない。
窓が近くにないので薄暗い廊下で、しっかり閉まっている扉の前に立つと、彼女は深呼吸した。慣れたつもりだが、毎回この瞬間は緊張する。どういう相手が部屋にいるのか入ってみないとわからないから。
それに関しては事前に容姿なりの情報を教えようか、と前に背後の男から以前提案された事もあったが、丁重にお断りした。
例え限りなく事実だけを彼から言われるとしても、誰かの視点が入ればその分だけ情報は狭くなる。そうでなくても限りある情報しか得られないのだから、そこからふるいにかけられる情報は最大限少なくあるべきだ。
それに、この緊張は手放してはならない気がする。慣れるべきでない理由と同じ理由で。一期一会という言葉があるが、自分にとってはよく来る客の一人でも、相手からすれば初めて訪問した先で初めて会う相手なのだから、すべての機会は出来るだけ大事にしたい。
鼓動の鳴りすぎは寿命に悪いらしいが、今更何年縮んだところで構うものか。
深呼吸するその時間、後ろで待っている青年は何も言わない。
ここに来た最初の頃こそ彼は色々気にしていたけれど、繰り返すうちに沈黙を覚えた。普段はかなり口うるさいが、学習できない馬鹿ではないのだ。そうでなければ、この後に一緒に部屋へ入ることなど許していない。
気を引き締めて、居間へ続く扉を軽く二回叩く。木の扉にしては重く鈍く濁った音は、中に鉄骨でも入ってるのかもと毎回思わせる。
中からの返事はないが気にせずに扉を開いた。