エピローグ

文字数 2,497文字

 ──気がかりな夢を見て、葉月は目を覚ました。
 けれど、起きてみると、もうそれがどんな夢だったのか思い出すことはできなかった。
 記憶を探ってみても、さっきまであれほどはっきりしていたはずの何かがつかまえられない。とてももどかしい気分だった。
 寝起きのうっすらとした意識では、夢の内容だけではなく、自分が誰なのか、どこにいるのかさえも、すぐには思い出せないような気がした。
 ……昨日。そうだ、傘もささずに雨に打たれながら家に帰って、早々に寝込んでしまったんだっけ。
 葉月は起きあがり、学校に行く準備をした。行きたいとはまったく思えなかったが。
 鏡を見ると自分でもひどい顔に見えた。やつれているような気がした。
 着替えを済まし、居間に降りていった。
 母は朝食を作っていた。
「……行ってきます」
 と葉月がいって出ていこうとすると、
「ちょっと待ちなさいよ、もう少しでご飯できるから」
 と母が止めた。
「……いらない。今日は、いいや」
 投げやりにそういった。食欲がわかなかった。
「でも、あんた、昨晩も食べてないのに」
「いいじゃない、別に」
 それだけいってまた歩きだした。すべてがおっくうだった。
「……葉月!」
 と少し大きめの声を母が出した。
 びくっ、として、怒られるのかと思いながら葉月はふり返った。
「葉月……あなた、大丈夫なの?」
 母は怒る様子などなく、そう訊いた。心配そうな表情を浮かべていた。
 葉月はほっとして、
「──うん。平気。大丈夫だよ」
 と答えて、また歩きだした。
 気にかけてくれているのだ。そんなちょっとしたことが、葉月には嬉しかった。
 心配をかけてしまったな。それはそうだろう。ひどい顔をしているし、私の振る舞いは明らかに不安定だ。
 娘が異常者だということが露わになってしまったら、もっと心配をかけてしまうことになるのだろうな。
 母の気遣いに感謝しながら居間を出るが、明るい気持ちはまたたくうちに去ってしまい、あの憂鬱に再び浸っていた。
 ……盗み聞きなんてするものじゃないな。七枝も結局、私のいうことなんてまったく信じていなかったんだ──いや、当たり前だ。信じてもらえたなんて、なぜそんな思い違いをしたのだろう。
 七枝の環への相談を聞いて以来、葉月の心にその憂うつはつきまとっていた。
 廊下を進んで玄関に向かった。
 ……七枝も、心配してくれているだけなんだ。少なくとも、私をだまして、そのことを陰で嗤っていたわけではない。そうしないでいてくれただけでも、ありがたいことじゃない……。
 だがそう考えても、葉月の憂うつは消えてくれなかった。
 玄関にすわって靴をはき、立ち上がった。
 以前と同じに戻るだけだ。私はこのことを隠しながらやっていくしかないんだ。そういう運命なんだ。どれだけ分かちあいたいと願ったとしても……。でも、こんな気持ちを抱えたまま生きていたって、それが何になるのだろう。
 葉月は扉に手をかけた。
 優しい人はいても、理解しあえる相手はどこにもいないのだろう──それは身にあまる望みなんだ。
 そう考えながら扉を開けて外に出ると、家の門の向こう側に、葉月の眼にしか映らない子どもたちがいた。
 その子どもたちには見覚えがあった。以前に見たことがある。強く印象に残っていたのだ。
 だが、顔ぶれに少し違和感があった。
 ……前に見たときは、もうひとり男の子がいたような……それに、そう、こんなベージュ色の鞄を背負っている幼い女の子はいなかった。
 子どもたちは門の向こう側から口々になにかを語りかけてきた。二度見ることもそうだが、そんな積極的な関わり方は珍しいので、葉月はすっかりおどろいてしまった。
 子どもたちはなにかを訴えかけるように話しているが、その言葉はやはり意味のわからない音としかきこえず、ぼんやりと見返すことしか出来なかった。
 葉月は門を開いた。
 何もない所をじっと見ていたら、また他人に変に思われそうだな。
 無視してもういこうか──。
 そのとき、まだ一言も喋っていない幼い女の子が、持っていたノートにペンで何かを書きはじめた。
 興味がわいたので、葉月はもう少しだけ眺めることにした。
 その子は書き終えたようだったが、なにか他のことを思い出したらしく、背負っていた鞄をごそごそとあさって妙なものを取り出した。
 掌におさまるようなそれを、女の子は笑いかけながら差し伸べた。
 彼らから物をもらうなんて初めての経験だ。
 葉月は困惑しながらそれを受け取った。彼らに触れることは出来ないのに、その贈り物を受け取ることは出来た。
 手にのせたそれをじろじろと観察する。どうやらそれはくしゃくしゃになった紙のようだった。
 変な形……文字が印刷してある。本のページかしら? なんでこんなものを渡したがったのだろう……。
 女の子はさっき書きこんでいたノートを広げた。そこに書きつけられた文字が葉月の眼に入った。

(元気でね かなちゃん)

 その文字を頭の中で音にしながら、葉月の思考にふと閃くものがあった。
 鶴だ。それは、鶴だったのだ。
 そうして渡されたものの正体に思い当たった瞬間、心の中で何かがざわめくのを感じた。内側から揺さぶるものがあった。かすかな波紋が全身に広がり、声が鳴り響いた。自分ではない別の存在が鼓動を伝えていた。魂の奥底で誰かが叫びを上げていた。
「──ありがとう。みんなも、元気でね」
 自然と言葉が口をついて出た。
 子どもたちは葉月を見つめている。そして、うなずいたようだった。
 葉月は自分の手に何も残されていないことに気がついた。
 落としたのだろうかと身をかがめて地面を探したが、どこにも鶴は見当たらなかった。
 はっとして身を起こすと、子どもたちもいなくなっていた。彼らは認識の外へ姿を隠してしまい、葉月にはわからないどこかへ去っていってしまった。
 それでも、胸に生まれた名づけることのできない感情は、燠火(おきび)のように残りつづけていた。
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