第1話

文字数 1,573文字

      『裏帳簿』
 コロナ禍での代理店営業が三年目を迎えた。正月の初出勤であった。
「何とか潰れずにここまで来たな。」
 社長は、こう言って、コーヒーを飲みかけると、ドアがノックされた。入ってきたのはダブルの黒服の男二人であった。腹が出て、肩幅もあって重量感のある体型であった。一見して、これは筋違いの人がやってきたと社長は感じた。
「突然で申し訳ないが、このビルを昨年の年末に買ったのだ。持ち主が変わったので入居条件も変更になることを知ってもらいたいと思ってな。それでやってきた。」
 そういえば、ビルの所有者である一階の店舗は12月中頃からシャターが閉まっていた。オーナーの奥さんが年末に家賃を取りに来た時、主人が急に熱を出して入院した。コロナに感染したのと違うかと心配していた様子が思い浮かんだ。家主は酒の飲み過ぎで肝臓が弱っていた。だが、ビルの売却についての話は出ていない。
「一方的にビルを買ったといわれても、持ち主からは何の連絡も受けていませんから。確認できるまで時間をいただけませんでしょうか。」
 こう言うしかなかった。男たちはパイプ椅子に腰かけて、私の動作をジッと観察していた。とりあえず、私は家主の自宅に電話を入れた。
「年末の31日に主人が肺炎で亡くなったのです。正月の期間中は焼き場も休みですから、4日の昨日にお通夜をすませて、今日がお葬式なのです。ビルの件ですが、主人が意識のあるうちに借金もあるから、以前から交渉していた不動産会社に連絡して売ってしまえと言ったのです。遺言みたいに言って、31日に亡くなったのです。頭が混乱して、のぼせ上ってしまって、連絡するのさえ忘れていました。」というものであった。
「まあ、余計なことですが、売買代金はもう決済されたのですか。」と私は裏を取りに出た。
「当たり前やがな。話がまとまった時点で電子送金したで。今は昔と違って、早いで。」
 どうや、文句があるのかという余裕のある男の返答であった。
 借りているビルは一階が持ち主の店で電動工具を販売するショップで、二階が私が借りている事務フロアーで、三階は自販機を扱う営業所になっていた。
「それで賃貸条件はどうなるのですか。現状維持ならば、問題ありませんよ。」
 私は相手の出方を探るように一歩踏み込んでみた。
「なにせ、高い値段で買ったもんやから、家賃は3倍にしてもらわんとな。嫌なら、出て行ってもらうしかないな。1月末までや。今日は、このことを言いに来たんや。」
「いきなり出て行けとは、えらい無茶な話ですな。」
「三階の事務所の人はな。引っ越し代を負担するというたら、納得しとったで。」
「そんなこと言われても、今月末に出ていけといわれても、無理です。どうしてもというのでしたら、一応、弁護士に相談してみます。裁判になったら、時間がかかりますよ。」
 この交渉は引越し費用の実費と営業補償という名目でプラス30万円で帰着がつき、立ち退きは2月末日になった。新しい事務所も道路を渡った向かい側に賃貸の部屋が見つかって移転できた。やっと落ち着いて、3月に入ってから税務署の調査が行われた。これは定期の調査であったが、二人の調査員は帳簿を見ながら、雑益に計上していたプラス30万円について質問してきた。領収書の控えを見ながら、引越し費用の宛名と30万円の領収書の宛名がちがっていると税務調査員は言ったのである。営業補償金は三階の人とは別に払うもので内密にしておいて欲しいと黒い背広の丸顔の男が言ったことを、何の気もなくに言ってしまったのだ。二人の調査員は「分かりました。」こう言うと、経理調査に問題はありませんと言って、急に引き上げて行った。階段を下りて行く二人の会話が私の耳に入った。「どうやら、あの不動産屋には裏帳簿があるみたいですな。」という会話が聞こえた。
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