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文字数 3,889文字

黒竜會の本部が入るマンション前に瀕死状態の尹明輝(ユンミョンヒ)が捨てられたのは夜明け前のまだ暗い時間帯だった。
仕事帰りのホステスが発見してすぐに救急車を呼んだが、他に目撃者はいなかった。
尹が担ぎ込まれたのは蔵前にある『三つ葉総合病院(みつばそうごうびょういん)』だった。
俺は車に龍傑を乗せてすぐに病院に向かった。しかしその日は面会謝絶で結局、面会が許されたのは翌日だった。それすらも病院側は抵抗したが、龍傑が半ば強引に認めさせたのだ。
尹は全身を包帯で覆われていた。右上腕の太い骨が折れて、鈍器で殴られた右膝は骨が剥き出しになっていたらしい。更に両手を併せると計四本の指が折れていた。
尹の右目は赤く充血し、顔の左半分は内出血で黒くなっていた。
側頭部には十三針を要する裂傷があり、髪の毛が半分剃られていた。
「すみません老大(ラオタ)、本当にすみません」
尹は龍傑の姿を見て、その場でどうにか座って詫びようとしたが、身体の自由が利かず、首だけを前後に揺すって謝意を表した。
粉砕したコンクリート片を、大量に口に含まされて殴られたおかげで歯は折れ、口内も傷だらけだったので、その言葉は不明瞭極まりなかったが、それでも尹は順を追ってあの晩の経緯を説明した。

恵比寿から戻った後、林健(リンチェン)はかなり苛立っていた。しきりにシャブが食いたいと言うので、尹は仕方なく顔見知りの売人がよく立つ公衆トイレ近くへと林を連れて行った。
しかしその晩に限って知人の売人はおらず、代わりに見知らぬ男が立っていた。
尹が異常を伝えると林健は男に近付き、どこの組かと尋ねた。
男は林健を馬鹿にしたような態度のまま英組だと名乗り、その場で林を殴り付けた。
もちろん林は反撃し、持っていたハンティングナイフで男を刺した。そのまま興奮して止まらなくなって結局死ぬまで男を何度も刺した。
尹は慌てて林を連れて現場を離れた。しかし林は返り血を大量に浴びており、目立って仕方がない為、路地裏の地下にある焼肉居酒屋に駆け込んだ。
幸い他に客はいなかった。店の店員に、SかMサイズのTシャツを一万円で分けて欲しいと頼み、無地の白いTシャツを入手して林を着替えさせた。
そのまま朝まで身を潜めてから行動するつもりだったが、運の悪いことにそこは政和興業の息のかかった店だった。
約三十分後、屈強そうな男たちが数人現れて、林と尹は車に乗せられて連れ去られた。
そこで尹は林とは別の部屋に入れられて拷問を受けた。
「場所はわかりません――。どこかの工場みたいなところです」
尹は木刀で腕を折られ、ハンマーで膝を砕かれたところまで覚えているが、その後は意識が朦朧としてあまり覚えていないと言う。
当然、林がどんな拷問を受けたのかも知らない。ただ林の叫び声と泣き声が交互にずっと続いていたと言う。尹のこの怪我の状態から察するに、刺し殺した主犯の林健はもっと酷い目にあっているだろう。むしろ生きていることさえ懐疑的にならざるを得なかった。
「政和興業側に知っている顔はいたか?」
尹は苦しそうに呻いてから、首を横に振った。
「政和興業側は誰も。……でも別の組の奴ならいました」
「誰だ」
「英組の――、日沖といつも一緒にいる髪の長い男です」
この日、同行していた李が後ろで呟いた。
小佐野(おさの)です。英組の中堅幹部で、ロシアやルーマニアの女を束ねている男です」
「そうか。多分、政和興業は阿健(アチェン)の身柄を渡すことで、英組に恩を売ったんだろう」
尹がまた呻いた。
「それだけじゃないです。あともう一人」
「誰だ?」
「たまにうちのカジノに来る客で、指のないスキンヘッドのヤクザ者」
そいつは諸橋健二だ。これも政和興業から声がかかったのだろう。諸橋のいる二代目蜷川組と政和興業は同じ秋葉会系列だから、当然、黒龍會と諸橋の関係も熟知している筈だ。
俺は先日、諸橋に言われた伝言を思い出していた。そしてこの場で龍傑に伝えることが賢明かどうか逡巡したが結局、正直に伝えた。
「諸橋がどういうつもりで言ったのか俺にもわからない。単に渡世の筋道的な話なのか。それとも何か魂胆があるのか」
「魂胆があるんだよ、阿鐘(アジョン)――。諸橋はとにかく金が欲しいんだ。阿健を見てまた金になると踏んだんだろう」
そこで龍傑の顔が少し明るくなった。絶望の淵に僅かな希望が芽生えたのだ。
「それなら大丈夫だろう。諸橋が阿健を金に換えようと思っているなら、五体満足で帰すことが重要だ。そうだろ」
それはあくまで龍傑の希望的観測に過ぎない。しかし今はその僅かな希望にすがるしかないのだろう。
その後、龍傑は〈大塚〉に用事があると言い、俺にもこの後の予定を尋ねてきた。
そこで俺はこれから訪問する予定の二人目と三人目のリストの詳細を伝えた。龍傑はリストの二人目である新晃デベロップメントと言う会社名に聞き覚えがあると言い、池袋の会社ならば羅偉が何か知っているかもしれないと言った。
暗に一緒に来ないかと言うメッセージだ。それは確かに伝わってきたが、俺は鈍感な振りをして撥ね退けた。
龍傑は内心失望したのだろうが、感情は表に出さず、新晃デベロップメントは飛ばしてリストの三人目から先に当たるようアドバイスをくれた。こちらで調べておくからと言って。



新保数馬を捕まえるなら永田町の議員会館か、東京の住まいにしている品川の『東京パシフィックホテル』のどちらかだろう。
ここ最近は勉強会や親睦会に参加する日も多いらしいが、今日は午後七時に仕事を終えると愛車のトヨタ・プリウスのハンドルを握って品川方面へと向かった。
俺は数台の車間距離を保って、湘南ナンバーの銀色のプリウスを追った。予想通りプリウスは品川駅前を右折して、東京パシフィックホテルの駐車場へと入って行った。
俺はプリウスより数台手前の空きスペースにエルグランドを停めた。そして運転席から降りてトランクを開け、中の荷物を整理している二世議員候補を観察した。
身長は百七十センチ前後で弟とそう変わらない。年齢は玲也より二歳上の三十六歳。短く清潔に借り揃えられた髪型にチャコールグレーのシンプルな背広。面長で整った顔立ちは実に政治家向きだった。
弟の玲也が亜種配合に失敗した不良品ならば、こちらは純粋培養に成功した完成品といったイメージだ。
俺はエルグランドから降りて新保数馬に近付いて行った。
数馬は人が近付いて来る足音に敏感に反応してトランクから顔を上げた。手元でゴルフバッグが覗いた。これから練習に行くつもりなのかもしれない。
俺は怪訝な表情を浮かべる新保数馬に声を掛けた。
「新保数馬さん。弟さんのことで少しお話が――」
「それ以上近付くな。近付けば警察を呼ぶ」
新保数馬は感情を抑え、毅然と言い放った。
俺は歩みを止め、手には何も持ってない、そう示す為に両手をゆっくり上げた。
「私はトランザムの者です」また嘘を吐いた。
「トランザム? なんだそれは」
「弟さんと一緒に失踪している、ICEを抱えている芸能事務所です」
「芸能事務所? それが何の用なんだ」
「弟さんの居場所を教えて貰えませんか」
新保数馬は緊張の糸が切れたのか、ふいに嘲笑するような笑みを浮かべた。
「玲也の居場所なんぞ、私が知っている訳がないだろう。もう二年以上顔を見てないし、もっと言えば五年以上まともに口を利いていないんだ」
「仲が良くないんですか」
その顔に一瞬警戒心が浮かんだ。
「違う。仲が悪いんじゃない。人種が違うんだ」
「人種が違う? 兄弟なのに」
「そう。兄弟でも違うんだよ。見ればわかるだろ」
「確かに兄弟でも全然違いますね」そう言ってから俺は、仕込んできた矢を新保数馬の心臓近く目掛けて投げつけた。「母親が違うと、こうも変わるんですね」
新保数馬の目付きが鋭くなった。
「お前、何を言ってるんだ」
第二投はもっと中心を狙う。
「しかも驚くことにお父さんの後を継いで政治の道に進んだ長男のあなたが婚外子で、ドラッグまみれの弟が実の息子だなんて、そんな馬鹿な話、神の悪ふざけとしか思えませんよね――。それじゃ元首相も安心して引退できない訳だ」
ダーツはブルに突き刺さった。一気に五十ポイントの加算だ。
「何を言ってるんだお前――。芸能事務所かなんか知らんが、誰を相手にものを言ってるか、わかってるんだろうな。ただじゃすまんぞ」
脅し文句はヤクザも政治家も同じだ。
「長年、子宝に恵まれなかったあなたのお父さんは、妾との間に産まれた男子を養子とした。それ自体は当時決して珍しい話じゃない。問題はその二年後だ。今度は本妻が懐妊して、玲也さんが誕生してしまったんだから」
興信所の資料には学生時代から常に品行方正だった新保数馬の半生記が書かれていた。
いつ立場を追われるかわからない薄氷の人生。
そんな中、弟の堕落は数馬にとってどう映っていたのか。恐らく快楽以外の何ものでもなかったのだろう。そう思えて仕方がない。
「厳しく育てられた養子ととことん甘やかされた実子。ここまでくるともう悪い冗談みたいだ」
もういい――。そう言って新保数馬はスーツの内ポケットから携帯電話を抜き出し、液晶画面を睨んだ。「警察を呼ぶ」
「その前に教えてください。弟さんは今どこにいるんですか」
新保は一一〇をプッシュすることを躊躇っている。衆議院選挙に出馬する前に、余計な騒動は起こしたくないのだ。
「だから私は知らないと言っているだろ」
「では新保家の持ち物で公になっていない不動産はありますか」
「ない」
「そうですか」
二人の間に沈黙が流れた。駆け引き、計算、勝算、打算。
「いや、不動産じゃないが、一つだけ――」
「お願いします」
新保数馬はもう一度携帯電話を睨み、警察ではない別の場所へ電話をかけた。
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