第1話

文字数 2,000文字

 爺さんとの出会いは決して良いものとは言えなかった。
「年を取ると捻挫(ねんざ)もしんどいですよ」と彼は中学生だった和之と、一緒に謝罪に訪れた父を責めた。
 あの頃市議会議員をしていた父は世間体もあって和之が起こした自転車事故にストレスを貯めていたのだろう。縮こまって謝る息子をその場で怒鳴りつけた。それまで怒気を(はら)んだ言葉で叱られた事がなかった彼はひどく動揺し涙目になった。そんな彼を不憫に思ったのか、「慰謝料を貰えれば充分ですから」と爺さんは言った。
「いえいえ、そのお怪我では何かと不便になるでしょう。暫くこいつを寄越しますので雑用でも何でも言い付けてやって下さい」
 爺さんはその申し出を迷惑そうに顔(しか)めていたが目の前ですすり泣く子供への同情も相俟(あいま)って、結局父に押し切られてしまった。

 翌日山田家を一人で訪れた和之は逡巡しながら呼び鈴を押した。
「もう金の話はついたんだから、わざわざ来てもらわなくても結構だよ」と彼は玄関の扉を開けるなりそう言った。
「すみませんでした」
「だいたい君のお父さんは何考えてるんだ。全く若い連中は…」
 後に続くぼやきを波風を立てずに聞いていた彼は、家の庭先に立派に生えた柿の木を所在無げに見ていた。まだ青い実だったがあれは甘柿の一種ではなかっただろうか。
「おい、聞いてるか」という声に和之は慌てて視線を戻した。
「だから帰ってくれて構わないと言ってるんだ」
「すみません、あの柿の木を見てて」
「柿?あれがどうかしたのか」
「良い品種なのに摘果しないのかなと思って」
「なんだ、詳しいのか」
「母の実家が柿農園だったので、それで少し」
「ふん、柿の事は良くわからん。欲しいなら持って帰っていいぞ」と先程までの怒りは既に収まった様子だった。
「青い柿もドライフルーツにすると美味しいんですよ。折角だから作りましょうか」と彼はつい余計な事を口走ってしまったが、「ドライフルーツ?よくわからんがさっさと帰ってくれるなら好きにしてくれ」と存外すんなりと家の中に通された。
 和之は手早く摘果してきた柿を薄くスライスしオーブンにかけた。後ろで作業を見ていた爺さんは、出来上がりが一時間後とわかると肩を竦めて居間へ行ってしまった。
 タイマーが鳴った。焼き上がったドライフルーツを持って行くと爺さんはぞんざいに頷いて一つ口にした。その顔は少し驚いているようだった。「美味いな」と彼は残りも次々と口に運び全部食べきってしまうと、もうないのかと残念そうに呟いた。
 不愛想な老人の食べっぷりに和之は嬉しくなり、「もし良かったら明日も作りに来ますよ」と言った。

 こうして不釣り合いな二人の風変わりな関係は暫く続き、和之は次第に爺さんと打ち解けていった。手伝いの合間に爺さんは時々自分の話をしてくれる事があった。どうやら結婚はしておらず、定年までゲーム会社に勤めていたらしい。押し入れには開発に携わった古いゲームソフトが沢山仕舞込まれていた。和之が埃を被ったゲーム機を引っ張り出して遊んでいると、「不器用な奴だな。ここは相手の動きを見て防御するんだ」と爺さんはしばしば参戦してきて一緒に楽しんだものだった。
 気付けばここは和之にとって心休まる場所になっていたし、爺さんに親しみも感じていた。

 ところが、ある日を境に和之は山田家をめっきり訪れなくなってしまった。
 その頃彼は自分の与り知らぬところで起きた問題に戸惑い、ひどく落ち込んでいた。市議会議員である父の政務活動費の不正使用が地元紙に取り沙汰されたのだ。近隣の人々から露骨に白い目で見られ、その噂を耳にした同じ学校の生徒からは税金泥棒の息子、と嘲笑されて後ろ指をさされた。仲の良いクラスメートでさえ気遣いの中に軽蔑が見え隠れた。
 彼はどこかに消え去りたいと思った。
 それでもめげずに学校に通っていたある時、彼の靴が無くなるという出来事が起きた。仕方なく上履きで下校していると通り過ぎる人々から奇異の目を向けられ、自分がとても惨めな存在だと思えた。こんな恰好で帰宅したらただでさえ疲弊している母に余計な心労を増やす。そう思うと彼の足は自然と山田の家に向かっていた。

 久しぶりに顔を合わせた爺さんは何か言いたげな雰囲気であったが、和之の足元を一瞥すると黙って家に招き入れてくれた。
「ごめん。いきなり来ちゃって」と彼は言った。
「構わん。好きなだけいたらいい」と優しく言われると和之は押し殺していた感情が滲み出てきた。
「お前さんが来ない間に見様見真似で作ってみたんだがどうだろうか」と少し焦げ付いたカチコチのドライフルーツを持ってきてくれた。
 それは硬くて、甘くて、そして涙の味がした。とうとう感情を抑えきれなくなった和之は美味しいという言葉の代わりに嗚咽(おえつ)を漏らした。爺さんは遠くを見ていたけれど静かに和之の背中を(さす)り、彼を優しく抱き寄せた。
 美味しい、と彼は細い腕の中で呟いた。
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