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文字数 1,977文字
また今日も職場で怒られてしまった。
憧れの看護士として入った職場。一ヶ月経つんだけど、失敗してばかりだ。
趣味で書いていた小説も手につかない。
はぁ、とため息をつきながらお風呂と食事を作業のように済ませる。
ソファーで缶ビールをグイと飲み、スマホを手に取る。
小説投稿サイトのアプリ。通知がきていた。
ああ、誰か読んでくれたんだ。評価ポイントがついてる。
こんな素人が書いたものに……。それに最近は更新も遅れていた。
最初から読み直してみながら、この頃は楽しく書けていたんだなあと思い出す。
読み進めるうちになんだかまぶたが重くなってきた。
その場でクッションを下に横になる。
それでポチポチとスマホを操作していたけど、どうにも睡魔には勝てず、わたしは次第に目を閉じていった。
懐かしい風景が目の前に広がっている。
わたしの学生時代の帰り道。右手の金網ごしにグラウンドと校舎が見える。
わたしの格好も制服姿になっていた。これは夢なんだな、と思いながらまっすぐに歩く。
三叉路の中央にある喫茶店。
そこへ導かれるようにフラフラと近づく。
夢の中では思い出のまま。アンティークな作りの看板もドアも。開ける時のベルの音も。
カウンターに置かれているおかしな形のサボテンだってそのままだ。
現実ではもうこの店は存在しない。高齢のマスターが亡くなって、そのまま空き店舗の状態が長く続いていたけど、先月に取り壊されてしまった。
だからこんな夢を見ているのかな、とわたしはカウンターの奥を覗きこむ。それともわたしが書いている小説がこの喫茶店を舞台にしたものだからだろうか。
ゆらりとダークブルーの影がこちらに向かって頭を下げてくる。
このお化けみたいな影を見てもわたしは驚かない。
わたしの小説に出てくる登場人物は皆、こんな形だった。会話することもないし、触れることもできない。
たったひとりの例外を除いては。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
一番右奥の席に着いたわたしに話しかけてきたのは、ここでバイトで働いている青年。
学生時代の憧れの先輩だ。背が高くて髪がサラサラで優しい声で黒縁のメガネがとても似あってて。
学校で女性徒にすごい人気だったから、声なんてかけたことない。
たまに空いているのを見はからって、この喫茶店に来るのが精一杯だ。
それでわたしは目も合わせられずにうつむきながらコーヒーを頼む。夢でもおんなじ調子なのが悲しい。
しばらくしてコーヒーが運ばれてくる。
ありがとうございます、と蚊の鳴くような声でお礼を言い、外の景色を眺めながらコーヒーをすする。
外ではダークブルーの影がゆらゆらと行き交っている。
学生時代のわたしも他の人たちはこんなふうに見えていたのかもしれない。
とにかく先輩ばかり気になってて。でも告白もなんにも出来なくて。
社会人になってからも引きずっている初恋。だから小説に書いたり夢に見たりするんだ。
お砂糖ふたつにミルク一杯の懐かしいコーヒーの香りと味を楽しんでいたんだけど、急に涙がこぼれてきた。
この夢が覚めたらまた現実の世界に戻される。
口うるさい職場の上司に怒られて、それで萎縮して分からないことも聞けなくて、また失敗して。
それの繰り返し。気の小さいわたしは学生の頃から何もかわっていない。
こぼれた涙がテーブルに落ちると、硬い音を立てて小さな塊になった。
青や赤、緑。色とりどりの宝石になって転がっていく。
散らかしちゃいけないと、わたしは慌てて拾い集めて上着のポケットにしまう。
コーヒーも飲み終えてわたしは席を立った。
レジで会計を済ませようと鞄の中から財布を探す。
「あ、あれ? おかしいな」
でもいくら探しても見つからない。
また泣きそうなわたしに、先輩は微笑みながらポケットのほうを指さしてきた。
「お代はその宝石でお支払いできますよ」
「は、はいっ」
顔を真っ赤にしながらわたしはポケットに手を突っ込み、宝石をすべて銀のトレイの中に入れる。
そうだった。自分の小説の設定なのに忘れていた。この喫茶店の支払いはこの宝石。自分の中のいろんな感情が変化したもので済ませるんだった。
「いろいろあったんですね」
宝石を眺めながら先輩が言った。わたしは小さくうなずく。
「でも、少しは楽になったでしょう。苦しい時やツラい時はまた来てください。僕はいつでもここにいるので」
優しい目で見つめられ、わたしはまたちっちゃな声でしか返事ができなかった。
目が覚めるといつものわたしの部屋。
朝日が眩しい。鏡の前まで移動し、泣いたあとのむくんだ顔にプッ、と吹き出した。
夢だし、わたしの小説の中の妄想だけど、本当に楽になった気分だ。
わたしはよしっ、と鏡の前の自分に向かって叫び、両頬をパチンと叩いた。
憧れの看護士として入った職場。一ヶ月経つんだけど、失敗してばかりだ。
趣味で書いていた小説も手につかない。
はぁ、とため息をつきながらお風呂と食事を作業のように済ませる。
ソファーで缶ビールをグイと飲み、スマホを手に取る。
小説投稿サイトのアプリ。通知がきていた。
ああ、誰か読んでくれたんだ。評価ポイントがついてる。
こんな素人が書いたものに……。それに最近は更新も遅れていた。
最初から読み直してみながら、この頃は楽しく書けていたんだなあと思い出す。
読み進めるうちになんだかまぶたが重くなってきた。
その場でクッションを下に横になる。
それでポチポチとスマホを操作していたけど、どうにも睡魔には勝てず、わたしは次第に目を閉じていった。
懐かしい風景が目の前に広がっている。
わたしの学生時代の帰り道。右手の金網ごしにグラウンドと校舎が見える。
わたしの格好も制服姿になっていた。これは夢なんだな、と思いながらまっすぐに歩く。
三叉路の中央にある喫茶店。
そこへ導かれるようにフラフラと近づく。
夢の中では思い出のまま。アンティークな作りの看板もドアも。開ける時のベルの音も。
カウンターに置かれているおかしな形のサボテンだってそのままだ。
現実ではもうこの店は存在しない。高齢のマスターが亡くなって、そのまま空き店舗の状態が長く続いていたけど、先月に取り壊されてしまった。
だからこんな夢を見ているのかな、とわたしはカウンターの奥を覗きこむ。それともわたしが書いている小説がこの喫茶店を舞台にしたものだからだろうか。
ゆらりとダークブルーの影がこちらに向かって頭を下げてくる。
このお化けみたいな影を見てもわたしは驚かない。
わたしの小説に出てくる登場人物は皆、こんな形だった。会話することもないし、触れることもできない。
たったひとりの例外を除いては。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
一番右奥の席に着いたわたしに話しかけてきたのは、ここでバイトで働いている青年。
学生時代の憧れの先輩だ。背が高くて髪がサラサラで優しい声で黒縁のメガネがとても似あってて。
学校で女性徒にすごい人気だったから、声なんてかけたことない。
たまに空いているのを見はからって、この喫茶店に来るのが精一杯だ。
それでわたしは目も合わせられずにうつむきながらコーヒーを頼む。夢でもおんなじ調子なのが悲しい。
しばらくしてコーヒーが運ばれてくる。
ありがとうございます、と蚊の鳴くような声でお礼を言い、外の景色を眺めながらコーヒーをすする。
外ではダークブルーの影がゆらゆらと行き交っている。
学生時代のわたしも他の人たちはこんなふうに見えていたのかもしれない。
とにかく先輩ばかり気になってて。でも告白もなんにも出来なくて。
社会人になってからも引きずっている初恋。だから小説に書いたり夢に見たりするんだ。
お砂糖ふたつにミルク一杯の懐かしいコーヒーの香りと味を楽しんでいたんだけど、急に涙がこぼれてきた。
この夢が覚めたらまた現実の世界に戻される。
口うるさい職場の上司に怒られて、それで萎縮して分からないことも聞けなくて、また失敗して。
それの繰り返し。気の小さいわたしは学生の頃から何もかわっていない。
こぼれた涙がテーブルに落ちると、硬い音を立てて小さな塊になった。
青や赤、緑。色とりどりの宝石になって転がっていく。
散らかしちゃいけないと、わたしは慌てて拾い集めて上着のポケットにしまう。
コーヒーも飲み終えてわたしは席を立った。
レジで会計を済ませようと鞄の中から財布を探す。
「あ、あれ? おかしいな」
でもいくら探しても見つからない。
また泣きそうなわたしに、先輩は微笑みながらポケットのほうを指さしてきた。
「お代はその宝石でお支払いできますよ」
「は、はいっ」
顔を真っ赤にしながらわたしはポケットに手を突っ込み、宝石をすべて銀のトレイの中に入れる。
そうだった。自分の小説の設定なのに忘れていた。この喫茶店の支払いはこの宝石。自分の中のいろんな感情が変化したもので済ませるんだった。
「いろいろあったんですね」
宝石を眺めながら先輩が言った。わたしは小さくうなずく。
「でも、少しは楽になったでしょう。苦しい時やツラい時はまた来てください。僕はいつでもここにいるので」
優しい目で見つめられ、わたしはまたちっちゃな声でしか返事ができなかった。
目が覚めるといつものわたしの部屋。
朝日が眩しい。鏡の前まで移動し、泣いたあとのむくんだ顔にプッ、と吹き出した。
夢だし、わたしの小説の中の妄想だけど、本当に楽になった気分だ。
わたしはよしっ、と鏡の前の自分に向かって叫び、両頬をパチンと叩いた。