第1話

文字数 2,921文字



松永謙太郎 様
○あなたは 2012 年 11 月 22 日に、 C 病棟 317 号室に入院されました。
○診断は以下のとおりです。  
 うつ状態
○診療の方針、療養上の留意点は以下のとおりです。
 環境を変え、のんびり過ごして下さい。
 採血・胸部X線等 身体の一般的な検査をします。
○予想される入院期間は以下のとおりです。
 2ヶ月

(医療法人 T会 S病院 松永謙太郎(15歳 M 2012.11.22 Adm)の診療計画書より抜粋)

 僕は薬を飲んだ。バファリンを飲んだんだ。頭が痛かったからじゃない。バファリンと、風邪薬のコンタック、心療内科で処方された抗うつ薬。俗にいうOD。死ねなかった。コンタックの赤と白の顆粒は、赤が遅れて溶けるのだなと便座に顔をうずめながら思った。すごい吐き気だ。
 心療内科の医師と相談し、僕は入院を決めた。精神病院にね。手を動かしても自分の手のように思えないし、生の実感はなく、薬を飲んでもなにをしても、ぜんぜん、一切変わらなかった。

「小学校高学年より不登校の兆しが見られ、中学校1年生の冬季休業を機に完全に不登校となる。同時期に心療内科に通院し薬物療法を受けていたが、入院を希望。overdoseによる自殺企図の既往あり。言語に障害はなく、疎通性は保たれている。論理的思考に傾倒し、強迫的な思考の固定が見られる。離人感を認め、自傷行為の痛みで現実感を実感している。入院加療には本人の強い希望でもあり意欲的。」

(松永謙太郎のアナムネを元に担当医が作成(抜粋))


 煙草を吸いはじめたのは14歳のとき。ちょっとした好奇心からと、自棄っぱちになっていたから父親のセブンスターをくすねて吸った。それはどんな精神安定剤よりも僕を安らかにしてくれた。むせることも気持悪くなることもなく、苦しみも楽しみも寄る辺なさも、全部煙に巻いてくれた。入院初日、院内の自販機で煙草を買う。気のいい小父さんがライターとタスポをくれた(僕は持っていなかった)。




 かの女も煙草をよく吸っていた。五ミリとか三ミリといった軽い煙草を日に何箱も吸い、煙を吐くときは頬を膨らませ、ふうっ、と吹くのが好きなようだった。「きのうは四箱吸ったんよ。ふっ。吸いすぎだねぇ。ピース。チョコレート味」

 違うよバニラフレーバーだよ、と目の前でしゃべるかれはさも得意げだった。わたしよりは煙草に詳しいらしい。しかしそのことがかれの年齢に鑑み、何ら誇りにならないことは重要ではないようだった。年相応、かな。

 これはかれの病棟であるC棟の談話スペースで話していた時のことだ。袖を捲くり腕の切り傷をかれに見せてあげた。わたしは切りたいから切ったんじゃない。そうするよりなかったのだ。この心理は今になっても了解しがたい。が、それでも切っている間は苦しみを忘れることができた。傷は深い方がいい。痛みなんて感じない。

 かれに話しかけたのはわたしからだった。「ねえ、話しない?」。

「高校2年生の時に恋人と別れ、それを機に神経症圏の症状が顕在化(紹介状参照)。家庭内不和もあり、不安、焦燥感から身近な男性にほとんど無作為に愛着行動を取るようになる。安定した対人関係は築けず、相手へ自分の関連付けを確認したがる。しかしながらその関係の、いずれにも満足できない(アンヘドニアの疑いを認める)。幼少期にMoから虐待を受け、Moを愛しているが同時に敵視していると話す。Faへは異性愛に似た感情を抱いている。Wrist cutなど自傷行為を繰り返し、破傷風、敗血症などに注意を要す。他患に対し操作的行動を取ることがあり、トラブルのないよう看視する。Drの方針通り、無理な要求は通さないこと。」

(中西麻里子(18歳 F 2012.11.2 Adm)のアナムネ、看護計画より抜粋)


 精神病院、いやそもそも入院自体が初めてだ。緊張のため催眠薬もちっとも効かず、しばらく暗いロビーで煙草をふかす必要があった。

「ねえ、話しない?」
 いきなり声がした。明かりを落としたロビーではよく見えないが、若い女性だ。不眠症仲間ができた、その時はそう思った。かの女とC棟の談話スペースに移動した(かの女が一般的に言って美人だったためもある)。何を話したのだろう。かの女は頬笑んでも目は笑わない。それが強く印象に残っている。いや、それが気にかかった、といったほうが正確だ。

「へえ、うつ病なんだ。わたし、もうすぐ退院なの。松永君も短期の入院でしょ? 連絡したいから電話番号教えてくれない」とかの女はいった。少したじろいで、ジーメールはないの、と訊いた。ジーメール? よくわかんないな。そう。じゃあ退院するときに教えるね、とお茶を濁した。失敗だった。その後、かの女との連絡手段を自ら絶ってしまったことを僕は後悔するからだ。




 この日も夜だった。入院して三週間ほど経ったころだ。入院生活にも少し慣れ、煙草を吸うととんでもなく出費がかさむことを知った。四人部屋の病室の前でかの女が僕を手招きし(僕は本を読んでいた。他界したうつ病患者の手記だ)、僕が近づくと抱きついてきた。これは、どういうことだ。僕はこわごわと抱き返した。かの女は痩せて、骨ばっていた。細身の割りに立体的な胸が押し当てられる。頭の奥がちりちりする。数秒抱き合っただろうか。ついて来て、と言われたのでそうした。

 二階B棟の食堂へ行き、「あんたでしょ。わたしの財布盗ったの」と、かの女はテレビを見ていた中年女性に詰め寄った。「なんでそういうこと言うのよう――違うって言ってるのに」
 
 わたしは証人としてかれに立会してもらうことにした。この婆はおかしなことを言う。わたしの財布。どこに消えたのか分からないけど、この婆が持っているに違いない。わたしの財布。

 かの女の財布、か。あまり興味深い事柄ではないし、いちいち自分の発言に同意か賛同を求めるようにちら、ちらと僕を見るかの女に少し苛立った。だいいち、これは職員に言う事じゃないかな。でもすぐにそうとは言えず、とにかくこの状況を長引かせるべきではないと判断する。
 かの女の腕を引っ張って強引にC棟の談話スペースに行った。煙草を吸い、違う番組(財布を盗まれたと責められた女性はテレビショッピングを見ていた)でも見ようと一階A棟にある、二十四時間開放の談話室に誘った。

S(主観的情報)(省略)
O(客観的情報)
C
・C317の松永謙太郎さんが外出時に購入した酒を一緒に飲む。
・松永さんに親密な行動をとる。
・A112の山岸貴子さんに財布を返せと迫る。
A(評価)
松永さんを価値化している可能性がある。2012.10.28の伊上春香のEntで拠り所を失っていたところへ、伊上さんと同じく年の近い松永さんが入院したためと思われる。財布の件は、物盗られ妄想か松永さんの気を引き付けたいのかもしれない。 
P(計画)
松永さんの担当Nsに荷物検査、強制退院などの警告を発することを提案する。Ex.)「今すぐ捨てれば強制退院はさせない」。中西さん本人に時間を取りDr(ないしNs)が面接する。
(中西麻里子(前掲)12月14日の看護記録より(抜粋))
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