第20話

文字数 3,330文字

 集中を途切らせず、カンナギの解説をすばやくノートに書き付けていく。訓練された蓮の頭脳は意識を集中させてさえいれば耳に入れた内容を一言一句違わず再現することができる。つまり、わざわざ記さずとも覚えたい内容は記憶してしまう。それでも手を動かすのは、その場で得られた気づきや感じたことを余さず記録しておきたかったからである。

 ――僕は蓮の長所をたくさん言えるぞ。

 集中は途切れていない、のに、またしても今このときに関係のない言葉が頭に浮かぶ。一度浮かんでしまえば、このセリフの続き――カンナギが蓮に告げた長所の数々――が一言一句違わず脳裏にずらずらと再生されていく。

 ――ああ、もう!

 思わず下唇をぎゅっと噛み締めた。もちろん筆記する手は止めていない。
 浮かれている。心のむず痒さがまだ鎮まらない。誰のどんな褒め言葉も素直に聞くことができなかったのに、カンナギが言ったことはしっかり受け入れている。そう、カンナギの無垢な言葉は頑なに閉じていた蓮の心の扉を開いてしまうのだ。
 蓮は筆記を打ち切って、たった今書き上げたばかりのノートに視線を向けた。


――――――――――
◉自己を保つためのポイント
 役割に縛られすぎない自由な部分を自分の中にもっておく
 →役割距離によって逆らえる余地がある。他者の期待にばかり応えなくてもいい。自分には自由な自己を表現する余地があるということを心に留め置いておく
――――――――――

 
 じっくりと数秒かけて黙読し、心に刻むべき箇所にはマーカーを引いた。ほぼ全ての記述が蛍光イエローに染まる。自意識が過ぎることを承知すれど、まるで自分のために語られた内容ではないかと思えてならない。

 左拳を口元に寄せ、しばし考えたのち、赤ペンで「役割を引き受けつつも、自由な自己は維持できる。期待された役割と違う自己を表現したっていい」と書いた。何とはなしに天井の方へ視線を移動させ、淡く光る琥珀色のペンダントライトに目を細めた。

 ――自分に何が期待されているのかを正確に把握し続けることだってすごく難しいと思うんだ。

 カンナギの言うとおりだと蓮は思う。
 周囲の期待に応えることを主軸に置いた人生を送ってきた。気がつけば「優等生」や「人気者」と呼ばれるようになっていた。そうしたポジションにいる自分に違和感を覚えていながら、結局は優等生として、人気者として、期待されているとおりに振る舞い続けていた。

 だがしかし、果たして自分は自分に対する他人からの期待というものを正しく把握していたのだろうか。実際はなんとなくで把握していたに過ぎないのではないだろうか。だとすると、自分が縛られてきた期待とは、実はとても不確かで、曖昧で――

 考えを進めようにも、(もや)がかかったように思考が鈍っていく。答えを目前に混迷しているような感覚である。
 先ほどノートに(したた)めた「自己を保つためのポイント」を再読する。赤で書かれたちいさな決意が目に飛び込んできた。活路はすでに示されている。蓮はカップに手を伸ばし、紅茶を啜った。冷めかけていたが、かえって味がはっきり感じられた。

「ねえねえ、役割距離の例って他にどういうのがあるの?」
「たとえば、老人扱いされたくない高齢者の人が、優先席やシルバーシートに近づかなかったり。真面目で怖いと評判の先生が、授業中に冗談を言ったりするとか……」

 カンナギが挙げた例を耳にした蓮の顔は綻んでいた。なんと微笑ましく、ささやかな抵抗だろう。期待される役割に対するとてもささやかな抵抗――だが、「こういう期待を抱いているかは知らないが、勝手に決めつけないでほしいね」という力強い声が聞こえてきそうだ。

 ――僕は……まだ、諦めきれない。

 久しぶりに、嘘偽りのない心の声を聞いた気がした。そう、父からの期待を振り切れるほど自分はまだ割り切れてなどいない。しかし、もう実体のない不確かな期待に振り回されてばかりの自分で居続けることになんの意義があるだろうとも思う。
 拳を固く握った。無意識だった。
 誠心誠意向き合ってくれたカンナギに恥じない自分になりたい――そう主張する心の声が聞こえたかと思うと、思考を妨げていた(もや)はすっかり晴れていた。

「――なるほどねえ。あ、そうだ」
 愛が何かを思いついたらしい。蓮は「どうしたの?」と問いかけるような顔を愛に向け、耳を傾けた。

「期待云々でちょっと気になったんだけど、同じ役割でも期待されていることが微妙に違ってることってあるでしょ? 
 ほら、お医者さんに求めるものって、色々あるじゃない? 冷静にテキパキと診てほしいって思うんだけど、かといって、こっちの言ってることにあんまり共感してくれないと対応が冷た過ぎるって思っちゃったりさ。あー、あんまりいいたとえじゃなかったかな。つまり、えーと……」

 言葉を選びながら懸命に話す愛を嬉しそうに見つめるカンナギを見て、蓮は自分がこの表情を引き出したかったと密かに悔しさを覚え、同時に心の中で唸った。
 やはりこの久野愛という人物はなかなかに鋭いところがある。蓮は物事を理解する、呑み込むということに苦労したことはほとんどなかった。ところが、そこで納得してしまい、疑問を持つだとか発想を広げるだとかいう点に乏しい。

「いいや、いいたとえじゃないなんてことはなかったぞ、久野さん」
 弾む声でカンナギが言い、それぞれに視線を配りながら
「要するに、一つの役割に相反するような期待が向けられてる状況を久野さんは言ってくれたと思うんだけど」
 と確認すると、愛が勢いよく首を数回縦に振った。

 相反するような期待が向けられる――すなわち、異なる期待の間で板挟みになっている状況だ。愛に遅れをとりたくない。蓮は必死に他にも似たような事例があるはずだと知恵を絞る。カンナギが口を開く前に、何か――

「あ、それなら……」

 閃きと共に、声が出る。教室でもないのに、思わずちいさく挙手をしていた。
 間に合ったことに安堵してから、ひとり躍起になっていた自分にはたと気づいて蓮は可笑しかった。こんなに子どもっぽい自分がいたなんて。

「どうした、蓮? 何か面白いことでもあったのか?」
 どうやら顔に出ていたようだ。
「ううん。何でもないよ。えっと、僕も相反する期待に挟まれるようなケースを考えてみたんだけど……」
「さすがレンレン、すぐ思いつくなんて! 聞きたい聞きたい!」
 愛が身を乗り出した。少し吊り目の、勝ち気そうな少女がキラキラしたまなざしを蓮に向けている。愛の顔を、蓮は初めて認識した。 

「そんな大した内容じゃないけど……」
「またまたご謙遜を。聞きたい聞きたい!」
 カンナギまでもが身を乗り出して蓮を急かし始めた。吹き出しそうになるところを咳払いで抑え込む。

「久野さんが挙げた例――ひとつの役割に対する異なる期待についての事例ではないんだけど」

 いちおう、断りを入れておく。

「複数の役割の間で、異なる期待を背負うことってあるんじゃないかと思って……。たとえば、会社員としての役割と母としての役割を担っている女性だと、仕事と育児それぞれ異なる期待に板挟みになっているんじゃないかって……」 
「――いやあ、久野さんも蓮も、社会学にすごく向いていると思うぞ。もうあれだな、立派な隠れソシオロジストだ。隠れソシオロジスト」

 興奮を抑えきれないといった様子でカンナギがどこかで聞いたような言葉――おそらく造語だと思われた――を繰り返した。

「ちょっと、立派とか言いながらなんで隠れキリシタンっぽくなってんのよ。ってかソシオロジストって何よ」

 愛が蓮の言いたかったことをすべて代弁してくれた。

「ああ、ソシオロジスト《sociologist》は英語でね。社会学者という意味なんだよ。まあ実際隠れる必要はないんだが、まだまだ社会学そのものの魅力が世間に充分伝わっていないのではないかという懸念が……個人的に風当たりの強さを感じるところがあってだな。何事もそうだが、どんなに素晴らしい道具も使う人間次第だから、僕としては……」
「カ、カンナギ、戻ってきて!」

 よほど思うところがあるのか、力強く語り出すカンナギに蓮は待ったをかけていた。
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