第4話

文字数 4,464文字

 とかいうことになってんじゃないのかこんちくしょう。

 ―受け取りました!  読んだら連絡します! 

 原稿を送信するとすぐに、戸樫はこんなような受け取ったという報告を送ってくる。それを受け取ってから読んだ感想が届くまでの間、おれの頭は原稿を読んでいる戸樫の姿にさいなまれる。おれは戸樫に見せる前にも推敲を重ねる。万全だと思ったものを送信するのに、送信ボタンを押した直後からあれこれ気になり始める。戸樫が受け取った原稿を読むところが浮かぶ。戸樫はおれの送った原稿をプリントアウトして読むと言っていたからきっとこんな感じだ。そうに決まっている。戸樫がどんな部屋に住んでいるか知らないがおれが想像する戸樫はこぎれいなワンルームマンションで彼女と同棲している。同棲しているかどうかも知らないしそもそも戸樫に彼女がいるのかも知らない。もしかしたら結婚しているかもしれないがそんな話もしたことはない。つまり戸樫はおれの担当編集者ではあるがおれは戸樫のことをほとんど知らない。

 おれが知っているかどうかなんてことはどうでもいい。おれの想像の中で戸樫は恵美って女と同棲している。恵美はバカっぽいが気のいい女で、戸樫と恵美はあっさりした関係でありながらそこかしこに優しさが漂っている。戸樫はおれにないものをみんな持っているんだ。おれが逆立ちしても手に入れられないようなものもごく自然に手に入れるんだ。そしておれはその戸樫がいなけりゃ何もできやしない。くそったれ。

 戸樫は編集者としても有能だ。おれのようなたいした特徴もない物書きに目を掛けて、まがりなりにもちゃんと本を出した。戸樫が編集しなければおれの書いた戯言など売り物にならなかっただろう。それに戸樫は面倒見もいい。おれへの指摘にも細やかな気配りがあって、貶すようなことは言わない。だからこそおれは不安になるんだ。戸樫は必ず褒める。ここがとてもいいですね、だからこれに合わせてこっちは少しこうしたらどうでしょう、といった具合だ。そうやって巧妙に、おれのまずいところを、決してまずいと言わずに直させる。だからおれは原稿を送信するたび、彼女を相手におれの原稿に率直なケチをつける戸樫を思い浮かべる。

 おれの脳裏に現れるこの仮想戸樫はおれが生み出したものだからおれにない知識は持っていないはずだ。それなのに原稿を書いているときには気づきもしなかった問題点を指摘する。文乃の言葉遣いだと。リアリティがないだと。そのとおりだ。こんな女を見たことがないから書いたんだ。おれはこういう女に出会いたいが、出会ったところで文乃みたいな女はおれのような男に興味は持たない。持つはずがないんだ。やはりそこは売れてなくても映画俳優のような男なんだ。おれは自分にかなえられない状況を小説のキャラクタに力を借りて作り出している。そんなものはみんな妄想だ。おれの小説にはおれが切望するもの、渇望するもの、熱望するものが知らないうちに詰まっているんだ。それを世間に発表するというのはいわば公開オナニーだ。おれはおれの作品に出てくる井戸橋の映画なんかよりももっとずっとマスターベーションなものをおおっぴらにばらまこうとしているんだ。

 それもこれも全部戸樫に見抜かれている。でも恵美はどちらかというとおれの味方だ。戸樫に悪く言われるおれを恵美がフォローしてくれる。それによって戸樫もおれへの信用を失わない。いるかどうかもわからない恵美こそがおれの支えなんだ。

 頭の中で戸樫が恵美といたし始めたのでおれは立ち上がった。おれの部屋はおれが想像する戸樫の部屋とは違うワンルームだ。どちらもワンルームではあるけれど戸樫のはこぎれいなワンルームでおれのはこぎたないワンルームだ。もともとそう長く住むことを想定されていないワンルームにもう十年も暮らしている。戸樫みたいに女と同棲するようなことにはなったことがないし、女が来たこともない。男すら来たことがない。十年も暮らしていて水道の修理人以外誰も来たことがないような部屋だ。くそ溜めだ。

 おれはキッチンの上にある吊戸棚からリーデルのコニャックグラスを出し、足元の収納から取り出したマーテルのコルドンブルーを注いだ。そのどれもがこの部屋に似つかわしくないし、なにより、おれに似つかわしくない。だからおれはこの趣味を誰にも話したことがない。えー、雨野さんブランデーなんか飲むのおぉ、きもおい、とか白痴じみたやつらに言われるのは我慢ならないからだ。コニャックグラスの下の方にちんまりと注いだコルドンブルーをちまちまと舐める。こんな姿も誰にも見せられまい。そんなにケチケチ飲むならコルドンブルーなんか飲むんじゃねえ手前には千年早いとか、戸樫みたいなこぎれいな部屋でよれてない服を着てるようなやつらに言われるに決まっている。

 おれはブランデーを舐め舐めデスクへ戻る。戸樫からの感想はまだ届かない。あたりまえだ。戸樫は今恵美と真っ最中だからだ。おれは戸樫の言葉を思い出していた。あのあとおれと文乃はヤるんだろう。それはそうだ。会えばたいていすると言っておいたからな。おれは戸樫に原稿を送るとき、その手前までを送ったんじゃない。あのシーンはあそこで終わりなんだ。セックスのシーンは書かないつもりだった。二人でしゃぶしゃぶを食ったらそのあとはもちろんセックスになるはずだが、それは書かない。そして読者は書かれていないからこそ想像することになる。文乃のような女はどんなふうにセックスをするのかと。戸樫はギャグにしちまったようだが。それも面白いかもしれない。恵美だって大笑いしていたじゃないか。そうかそれを書けばいいのか。文乃が言葉遣いを崩さないままいたすシーンを書けば。それはおれのこの手が丁寧に築き上げた文乃という理想を同じこの手でぐちゃぐちゃに凌辱するような行為ではないのか。うへへ。勃起した股間によだれが垂れた。そうか。そういうシーンをご所望か、戸樫よ。雨野はギャグにしたいわけじゃないだと。おまえにおれのなにがわかる。わかるものか。おれはほとんど自分のことを話さないからな。おまえはおれのことをこれっぽっちも知りやしないんだ。いいだろう。ギャグにしてやろうじゃないか。最上級の女を地に堕としてやろうじゃないか。むひひひひ。あなた、いたしますか、いたします、いたしましょうか、どのようにいたしますか、あれをそれしてこうですか、それともそれをこうしたほうが、あらそんなあなたそのようなところを、はずかしいですわ、あら、そちらですの、いけませんことよ、いけませんことよ、あ、いえ、やめなくてもいいんですのよ、ええ、ええ、はい、ただそういうこととは思いませんでしたので、あ、よろしいですわね、よろしいです、あなたのほうはいかがですか、よろしいですか、さようでございますか、あ、しかたがありませんねあなたというひとは、ああ、あら、そうですの、大変ですわ大変ですわ。

 だめだ、とおれは叫んだ。だめだ。どこまで行っても文乃から冷静さが抜けない。この調子では文乃は満足できない。戸樫の言う通りだ。文乃がどのようにいたしてどのように至るのかおれには想像できない。まずはそれを想像することだ。おれがみずからの持てる想像力を総動員して全身の感覚を研ぎ澄ませ、大変ですわ変態ですわと身もだえているとビコーンと肝をつぶすような音で携帯端末の通知音が鳴った。驚いてその場で立ち上がったおれは勃起した陰茎をデスクに思いきりぶつけ、そのまま椅子ごと後ろ向きにひっくり返った。ジャーマンスープレックスで投げ飛ばされたような恰好でワンルームの真ん中に裏返ったおれは股間を両手で押さえながら世界のすべてを呪った。

 なんの通知だこのやろう。おれは右手で股間を抑えたまま左手で吹っ飛んだ携帯端末をさぐりだして通知を確認した。通知はコミュニケーションサービスがメッセージを受信したことを知らせるもので、メッセージはまったく心当たりのない差出人からのものだった。件名は「あなたに危険が迫っています」だ。

 ははははははははと乾ききった笑い声を立ててからおれは受信メッセージを開いた。

――――――――
あなたに危険が迫っています

 雨野 健 様

 同胞であるあなたに迫る危機を、我々は見過ごすことができずにこうしてメールをお送りすることにしました。
我々については心配されなくてかまいません。あなたの同胞です。あなたの秘密はわかっています。我々も同じ秘密を抱える者ですから。
あなたが作品に散りばめたメッセージ、我々同胞だけに届くメッセージはちゃんと受け取っています。
あのメッセージを受け取った者たちがいるということを知っておいていただきたいし、あなたが一人じゃないということも知っておいていただきたいのです。
あなたにはぜひ私たちと合流していただくのが良いと思います。

 また改めてご連絡いたします。

 袋麹行止

――――――――

 差出人は袋麹行止とある。ふくろこうじ行き止まりだと。ふざけるのもたいがいにしろ。このメッセージの中で理解できるのはおれの名前だけだ。同胞ってなんだ。おれの秘密をわかっているだと。おれの秘密ってなんのことなんだ。おれが秘密にしてることっていったいなんだ。書いてる小説にセックスが出てくるのに童貞だってことか。じゃおまえも童貞なのか。それなら同胞とか書かないで童貞と書け。童貞のあなたに迫る危機を見過ごせないと書け。それに作品にちりばめたメッセージだと。そんなものをちりばめた覚えはまったくない。童貞だけに届くメッセージがどんなものか見当もつかん。それはあれか。セックスの場面を言葉しか描写しないことか。それがメッセージだというのか。いったいなんのメッセージなんだ。一人じゃないだと。童貞のおっさんが一人じゃないことがどんな安心につながるんだ。おれ一人だと思う方がよほど安心だ。

 もう改めてご連絡なさることはお控えください、と返信しようかと思ったけれど、返信すると内容がどうであれ返信ありがとうございますってなことになりそうだからやめた。おれはメッセージをただちに削除して、ネット越しにぼやくためのサービスにぼやきを投稿した。

 ―どうやらおれの童貞に危機が迫っているらしい

 このばかげたメッセージは好評で、あっという間にかなりの数の賛同を得た。さらにはわざわざ返信でおめでとうございますとか書いてくるやつまでいる。童貞がピンチってことは脱童貞しそうだと捉えられたのだろう。脱童貞が歓迎すべき事態だと思っているところが短絡的だというんだ。もうすこし多様性ってものを意識してもらいたいものだ。

 結局待てど暮らせど戸樫からの感想は届かないし狂ったメッセージは届くしでおれは疲れ果て、携帯端末はその辺に放り出してそのままベッドの上に身を投げた。
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