第1話 負け犬の遠吠え

文字数 5,047文字

 人は皆、大なり小なり承認欲求を持っている。
 絵を描いていたら展覧会に出展したくなるし、楽器や唄や声楽をやっていたらコンサートやライブに出演したくなる。
 そして、小説を書いていたら? 人に読んでもらいたい気持ちになるのは当然のこと。昔は出版社が主催する新人賞に応募するか、雑誌に投稿するか、さもなくば同人誌に投稿するか、自費で出版するしかなかった。
 それがどうだろう? 今はこうして沢山のオンライン小説サイトがある。
 その数多ある投稿サイトの中からこの「NOVEL DAYS」を選んだのには、皆それぞれ理由があるはずだ。

 【骨太小説】コンテストの入選作は一作。そして佳作は七作。
 多くの作者が自信作を応募した。その後にここを去った人もいる。今もって様々な思いが応募者の心の中に渦巻いていることは想像に難くない。

 入選作『酒井七馬と手塚治虫』は、文字通り骨太小説で、入選に異論を唱える人も少ないのではないか?
 読ませて頂いて感じたことを正直に記そう。
 前半は手塚治虫の希有な才能に出会った感動や期待に心を震わせた一方で、後半は酒井七馬の悲愁に深く飲み込まれた。激動の昭和史とよく言われるが、当にその変化をリアルに感じさせてくれる作品だった。
 私は『鉄腕アトム』世代だったが、小学校高学年になる頃には「アトムはもう古い」と友だちと語り合っていた。だからこそ、七馬の年代になった自分には、老いた漫画家の苦しみや悲しみが手に取るようにわかる。
 洋楽で育った私は、洋モクを吸ってディズニーに憧れた七馬と重なるし、米津玄師やあいみょんも悪くないが、AppleMusicでダウンロードするのは以前に買ったことのある洋楽のアルバムばかりだ。サチモスや髭ダンディズムを聴きながら、「この曲は(洋楽の)○○に似てる」なんて言おうものなら「その感覚が古い」と若い子達から批判される。

 生老病死は人間に共通の苦しみである。その苦しみを超える精神的革命として二千五百年以上も前に釈尊はインドで仏教を生み出した。それでも、私たちは老いから逃れることは出来ない。ならば、いかにしてそれを楽しみとするか?

 私が初めて小説のようなモノを書いたのは中学生のときだった。
 たった一人ヨットに乗って太平洋を横断した堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」を読んだことに刺激されて、一人宇宙船に乗って太陽系の外まで二十年かけて旅をする宇宙飛行士の話を書いてみた。
 原稿用紙ではなく、横罫のノートに鉛筆で書いた『始まりの終わり』というその物語は、宇宙では歳を取らず、地球に残った人たちだけが歳をとっていく逆浦島効果を期待しながら、二十年の旅を終えて地球に戻って来た飛行士の話。しかし、彼が帰ってきた場所は打ち上げのその場所、その時間だった。世間の人は飛行士をほら吹きと非難し、誰も信じてくれない中にどんどん老いていって、自分でもあれは夢だったのか? と思いながら命果てる——と、そういうあらすじだった。その後、映画『コンタクト』を観て、似たようなシチュエーションに驚いたから、着眼点は悪くなかったのだろう。

 太宰治とフランツ・カフカに傾倒していて、当時あまり最新のSF小説を知らなかった十四歳の私は、自分の物語もSFのジャンルになるのだと判って、筒井康隆、小松左京、平井和正、星新一……と、日本のSF作家の作品を読み始め、その後はハインライン、ブラッドベリ、クラークといった海外のSFに夢中になった。

 初めて物語を書いた三年後、再び物語のアイディア——要するに妄想——が浮かんだ私は、もう一度筆ならぬ鉛筆を執った。今度は大学ノートではなく四百字詰め原稿用紙に向かい、その一枚目に『戦没者記念公園にて』とタイトルを書いた。
 舞台は1970年代前半。日本は敗戦で東西に分断され、東京に巨大な壁が出来ているというパラレルワールドの設定。年に一度だけ、旧皇居前広場で東西交流のゴーカートレースが行われる。そこで、共産圏の小石川に住む十六歳の少年Kは、自由経済下の浜松に住むミチルという少女と知り合う。惜しくも優勝を逃したKに、翌年の優勝を期待したミチルは密かに精度の高い西側のパーツを送る。ところが、それが包まれていた古新聞に東側では知られてはならない共産党政府の陰謀に関する記事が載っていた。Kは秘密警察に逮捕され、スパイ容疑で死刑を言い渡される。戦没者記念公園と名付けられた旧靖国神社で刑は執行されるが、物語は絞首刑の為にKが登っていく十三階段の一段毎にKの回想を挟む形で進む。最後の十三段目。薄れていく意識の中で、Kは東西に分断されなかったもう一つの日本で、ミチルと楽しく遊園地でデートする光景を脳裏に浮かべる……というストーリーだった。
 まだ学生運動の名残が強かった当時、自分の周りには共産主義を理想化する友人が多く、左翼でも右翼でもなく中道を自認していた自分は「日和見主義」と言われていた。それに抵抗する意味もあって書いた小説だった。「今の自分たちの自由に感謝しよう」というメッセージを逆説的に描いたはずだった。
 私は、この小説を「SFマガジンのコンテストに応募したが選外だった」と、周囲に話していた。でもほんとうは、物語のあまりの暗さと、文才を語るレベルにほど遠い自分の国語力のなさに、何度も読み返すうちに自信を無くして応募を断念した……というのが真相だった。

 『始まりの終わり』も『戦没者記念公園にて』も、私にとって「小説」ではない。それは誰にも読んでもらうことがないまま自分で葬ったからだ。
 そして四十年以上の間「私は文才がないので小説は書けない」と言い続けてきた。

 二十代の頃、脚の障害のためにドラマーを諦めた私は、音楽専門のレコーディングエンジニアを生業とするようになったが、一年のニューヨーク修行を終えて、音楽の世界と決別した。そして二十代の後半、地味な教育映画の制作に携わっていた時に、映画台本、つまりシナリオの書き方を学んだ。現場では書き手が不足していたのだ。
 その後、オーディオ&ビジュアルのメディアを扱える画期的なコンピューターが現れて、私の人生は変わった。当時主流だった国産のPCは、8色か16色しか使えなかった上に、音は昔のゲーム機と同じビープ音しか出せなかった。しかし、国産PCの数倍の価格のApple製のMacintoshという名の魔法の小箱は、音楽を目指す前には写真家を、その前にはデザイナーを目指していた少年時代の夢を、三十を過ぎてから叶えさせることになった。
 クルマ一台分の私財を投じて1670万色のフルカラーが扱えるMacintoshを手にした私は、当時はまだ英語版しかなかったPhotoshopを使いこなすようになった。本業とはほど遠い写真画像の修復や加工の仕事が一気に増えた。
 Sound ToolsはPro Toolsに生まれ変わり、Avid Media Composer、Adobe Illustrator、COSA After Effects、MacroMedia Director、Aldus PageMaker、Quark Express、Mini-Cad、Shade、Electric Image……と、夢を形にするアプリケーションが次々と生まれ、職場と自分のMacintoshはハードディスクがどんどん膨らんでいった。

 いつの間にか、自分の仕事は録音から映像に、マルチメディアにと広がり、そしてインターネットが現れた。
 Webやマルチメディアの制作を可能にするために新たな組織を立ち上げ、グラフィックデザイナーを雇い入れてデザイン全般を守備範囲とするようになった。
 そんな中で、クライアントから、Webサイトのデザインと同時にニュース記事と広報誌の編集・制作を依頼された。
 当時、事務所全体をディレクションしながら、3D-CGによるプロダクトデザインの手伝いや、Photoshopによる画像処理、HTMLのコーディングや簡単なJavaScriptの制作を担当していた私は、いつの間にかスタッフが書いたニュース記事の原稿を校正する立場になった。そして、気づいたら自分がニュース記事を執筆するようになっていた。
 その頃、アルファポリスという投稿サイトに、自作の小説を投稿していたアマチュア作家がいた。SFとも現代ファンタジーとも言えそうなその小説は、新しい可能性を提示してくれた。ところが初期の投稿作品は、登場人物の名前が途中で変わってしまうことに作者本人も気づいていないようだった。広報誌の校正や執筆をしていた私は、書き手がそのまま発信できるインターネットの投稿サイトに怖さを感じた。出版や印刷の業界でさえ、デジタル化されたことで誤植の多さを古い世代の人たちから批判されていたのに、これでは自分が丸裸にされてしまう……と。
 敢えてご本人の名誉のために作者の名前は伏せておくが、その方の作品はその後出版されてベストセラーになり、映画化されて大ヒットした。
 オンライン小説に可能性を感じ、四半世紀ぶりに小説を書いてみようかとキーボードに向かったが、自分の文章に嫌悪感を感じ、やはり自分には小説は書けないと断念した。

 それからさらに二十年。映画を観るたび、小説を読むたびに、頭の中に妄想が浮かぶ。書きたい……という思いは、三十を越えるストーリープロットとなって、映画化や映像化されるあてもないシナリオに生まれ変わった。それでも、小説は遠い世界だった。
 時々、音楽業界や映像業界で仕事を続ける友人と夜遅くまで語り合うと、自分のオリジナルストーリー(妄想)の話をする。友人たちからは「面白いよ。映画化が無理でも小説を書いたら?」と何度も言われた。その度に「いやいや、オレは文才がないから、絶対書けないよ」と言い訳していた。しかしその一方で、自分の妄想がこのまま文字にも映像にもされることもなく、消えていってしまうことに一抹の寂しさも感じていた。

 還暦前後からの数年間で、命に関わる大病を二度経験した。人生、生きてるだけでめっけもん……である。
 二年前から病気のリハビリのためにドラムを叩き始めた。四十年ぶりのプレイは自分でも笑っちゃうほど酷いものだったが、叩いているうちにどんどん勘を取り戻し、「良いグルーヴだね」とか「アフタービートがカッコイイ」とか言って貰えるようになった。不思議なことに、プロの一歩手前まで頑張っていた二十代の頃にいくら練習しても叩けなかった技のいくつかが、この歳で叩けるようになった。そんなことが、自分に少し勇気を与えてくれたのかもしれない。
 いつか、自分が死んだ後に「この爺さん、こんな妄想をシナリオに書いてたよ」と笑われるくらいなら、命あるうちに笑われて恥をかいてもいいじゃないか? 文才がなくても、下手くそな文章でも、一人でも読んでくれる人がいたら、それで充分じゃないか? そう覚悟して、恐る恐る小説を書き始めた。そして初めて書き上げた。それが今年の春。

 しかし、私はすでに酒井七馬の亡くなった年齢を超えていた。こんな爺さんの書く小説……いったい誰が読んでくれるんだろうか? と一方では不安を感じていた。
 恐る恐る投稿のボタンをクリックした時、まさか自分が書く小説に1000を越えるPVが付くなんて想像もしていなかった。

 人は皆、自己顕示欲と承認欲求を持っている。私は自分のそれが人一倍強いことも知ってる。
 骨太小説にはほど遠いだろうと思いながらも、とりあえず自作の『Ai needs You』に【骨太小説】のタグを付けた。その後、少しずつ☆やPVが増え、いつしか、コンテストに入選したい。もっと上位に食い込みたい。もっと沢山の「☆いいね!」を貰いたいと、承認欲求は高まっていった。
 ファンレターに「面白い上に洗練されている作品で、お金出しても読みたい作品でした」なんてコメントを頂いた時は舞い上がって、もしかしたら? とその気になった。
 しかし、七月十五日、【骨太小説】コンテスト発表の日に現実に引き戻された。

 一人でも読んでくれる人がいれば、そして喜んでくれる人がいれば、この上なき幸せ……その念いを忘れてはならないと、今は自分に言い聞かせている。
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