23 ルソー『社会契約論』(3)

文字数 3,511文字

めいめい勝手に暮らしながらも、どこか牧歌的であった自然状態を、かき乱すバカがでてくるせいで、各人は一致団結し、共同防衛に当たるわけだが、政治的結社を樹立するわけだが、このとき、この政治的結社の動きは一般意志に基づくべきだ、とルソーは言う。

でね、この一般意志の立ち上がり方なんだが・・・・・・

要するに多数決ではあるんだが・・・・・・

たとえば、ルソーは、

一般意志はつねに正しく、つねに公共の利益に向かうことになる。しかし、人民の議決がつねに同じように公正であるということにはならない。人はつねに自分の幸福を望むが、かならずしもつねに、何が幸福であるかがわかっているわけではない。人民はけっして腐敗させられることはないが、しばしば欺かれることはある】[ルソー:P46]という

ン?

なんかヘンですね?

一般意志は、要するに多数決の結果なんでしょ?

だとするなら、それは多数派の見解ですよね?

多数派の見解が、まぁ全体として、みんなの利益に合致することを仮に認めたとしても、その後で、ルソーさんは、投票する人は自分の幸福を望んでるんだが、何が自分にとって真の幸福なのかわかってるわけではない、とか、人々は騙される、とか、付け足してるじゃないですか、ヘンだ。

極論するなら、デタラメっぽい投票が、なんで正しく公共の利益に向かうんだろう。

なぜ一般意志は間違わない、って言いきれるんだろう

うん、そう。

そう思うよね?

結論だけ簡単に言ってしまうと、近代経済学の父ともいえるアダム・スミス(1723-1790)に、見えざる手というのがあるんだが・・・・・・

あ、聞いたことあります。

神の見えざる手

厳密には、アダム・スミスは「神の」という枕詞は付けてないから、見えざる手、なんだけどね・・・・・・

まぁ、それはいいとして、見えざる手というのはね、御存じのとおり、経済活動は各人がめいめい勝手に自分の利益だけ考えてやってんだけど、それが、自動的に程よいところへ落ち着いてしまう、って考え方だよね。

具体的にいうと、作り手は、儲けるためにさ、商品をできるだけ高値で売りたいんだけど、高すぎると、逆に買ってもらえない。また、ライバルが自分より安く売る可能性が俄然でてくる。

一方で、安くしすぎると儲からないから、撤退することになる。

そうなると、買い手は、それじゃ困るから、買うから、高くてもいいから売ってくれ、となる。

ってな具合でね、商品の価格は、作り手も買い手もウィン・ウィンとなるような程よいところへ落ち着く、というわけだ。

ミクロ経済学の初歩、入り口で習うところだね、今でも

はい、わかります

このとき、経済活動をする各人は、素直に自分の儲けだけ考えてりゃ、言ってしまえばね、バカでもいいし、騙されててもいいんだよ。

「この商品が絶対売れる」と愚かな思い込みをしたり、「それが売れますよ」と騙されて商品をつくったりしても、結局は売れないからさ、市場から撤退することになるんだ。

ダメなものは売れない。

つまりは、必要とされないものは市場に残らない。

求められるものだけが市場に残る。

そういう意味では、一般意志と同じで、市場はつねに公共的なもの(みんなが求めるもの)へ向かうのだし、市場はつねに間違わない、とも言える

え~、市場の失敗ってのがあるじゃないですか~
あれ、なぜかしら朝倉君、経済学を少々かじってるようだね?

失礼な!

いまはルソーの話をしてんだからさ、経済学理論へ首を突っ込むのは止めておく。

ぼくが言いたいのはさ、商品を「買う/買わない」は市場における投票行動だとも言えるでしょ、だからね、まぁ要するに、一般意志もまた見えざる手によって導かれるものなんだよ。

そう割り切って理解してしまえば、ストンと腑に落ちるだろう?

そこを押さえておけば、次の、あまりに有名なね、ルソーの謎めいた不可解な言動もまた理解できるようになる
【人民が十分な情報をもって討議するとき、もし、市民相互があらかじめなんの打ち合わせもしていなければ、(一般意志との)わずかな差が多く集まって、その結果つねに一般意志が生みだされるから、その結果はつねによいものであろう。ところが、部分的結社である徒党が、大結社(=政治体)を犠牲にしてつくられると、これらの部分的結社のおのおのの意志は、その構成員に対しては一般的であるが、国家に対しては特殊的となる。その場合には、もはや人々と同じ数の投票者があるのではなくて、部分的結社と同じ数の投票者があるにすぎなくなると言えよう。差の数が減少すると、その結果として一般性の程度も減少する。ついには、これらの結社の一つが非常に大きくなって、他のすべての結社を圧倒するようになると、結果は、もはやさまざまのわずかな差の総和があるのではなく、ただ一つの差だけがある、ということになる。そうなれば、もはや一般意志は存在せず、勝利を占める意見は、特殊な意見であるにすぎない】[ルソー:P47]

ここで、ルソーはね、一般意志を導出する投票行動に際しては、各人の話し合いなど必要ないって言ってるんだよ。

ここは、大きなポイントだ

ルソーを民主主義の教祖として祭り上げたくなる連中はね、ここで戸惑うことになる

民主主義で、話し合いで決めることだからね~

東浩紀さんの偏見なきルソー読解が素晴らしいので、引用してみよう。

【ここでのルソーの主張は、読みまごうことなくはっきりとしている。一般意志が適切に抽出されるためには、市民は「情報を与えられて」いるだけで、たがいにコミュニケーションを取っていない状態のほうが好ましい。彼はそう明確に述べている】[東:P60]

奇妙ですね?

ぜんぜん。

見えざる手の話がわかってりゃ、ぜんぜん奇妙じゃない。

むしろ正論だ

アダム・スミスの見えざる手が有効に機能するためには、各人がてめぇのことだけ考えてね、めいめい勝手に動いてくれてたほうがむしろ好ましいんだ。

だってそうでしょ?

たとえばさ、声のデカイAさんが、「この商品は素晴らしい。ぜったいコイツを買うべきだ」なんてやりだしてね、周りを巻き込むなら、短絡的にその商品ばかりが売れてしまい、素朴な競争原理が働かなくなる

もっと言うと、たとえば不買運動とかあるじゃない。

徒党を組んでね、大規模なキャンペーンをして、「日本車は買うな(どんなに優れていても)」とかやりだすと、良いものが残り、悪いものは駆逐される、という市場の機能が阻害される。

それは、平易に理解できるでしょ

うん
同じことなんだよ

だからルソーは、徒党を組んで投票行動に走ることを好まない。

具体的に言うと、政党政治を好まない

ちなみに、いまの日本でいうと、自民党勢力が圧倒的に強いからね、ルソーに言わせれば、自民党の政治は真に一般意志を体現しているものなのか、あるいは自民党の特殊意志なのか、わからないな~、ってなことになるだろう

ルソーは言う。

【一般意志が十分に表明されるためには、国家の中に部分社会(デンケン註:政党など)が存在せず、おのおのの市民が自分だけに従って意見を述べることが必要である】[ルソー:P47-8]

となると、ルソーが推してるのは、直接民主主義ですね?
YES

たとえば、ルソーはね、【イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる】[ルソー:P144]なんて言っている。

ここは、有名な箇所だ

挑発的な発言ですね
ただし一方では、現実的に考えるとね、ルソー自身、【民主政という言葉の意味を厳密に考えるならば、真の民主政は、かつて存在したことがなかったし、これからもけっして存在しないであろう。多数者が統治して少数者が統治されるということは、自然の秩序に反している。人民が公務を処理するためにたえず集まっているなどということは想像もできない】[ルソー:P102]とも言っている
じゃ、やっぱし、一般意志とか直接民主主義とかって、妄想の類ってことになるんじゃないですか?

ここで、ちょっと脱線するけれども、東浩紀さんの一般意志2.0って発想をね、見ていくことにしよう。

というのも、東さんはね、いわば、ルソー的夢想を今日の情報技術は実現可能にする、としているからね。

また、一般意志と、いわゆる集合知をリンクさせて立論しているところもユニークで興味深い

集合知?
あ、そこから入らないとダメ?
うん
ふぁ~い

[引用文献・参考文献]

・ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』作田啓一訳、白水社、2010

・東浩紀『一般意思2.0』講談社文庫、2015

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登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・・・・仙人のごとく在野に生きることを愛する遊牧民的活字ドランカー。かつては大学院にいたり教壇に立ったりしていたが、その都度その都度関心があることだけを考えていきたい、という専門性を磨こうとしないスタンス、及び『老子』の(悪)影響があり、アカデミズムを避けた・・・・・・がゆえに一介のサラリーマンである(薄給のため独身、おそらく生涯未婚)。

朝倉恭平(30)・・・・・・ご近所の鷺ノ森市文化創造センターに契約職員として勤務。

(チャットノベル『毒男女ぉパラダイス!!』の登場人物・朝倉5年後の姿)

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