《前編》最近、夢を見るのです。
文字数 11,147文字
最近、夢を見るのです。
今までは見なかったの、と聞かれれば、曖昧に首を傾げるしかできませんが。
あんまり思い出せないのですよ。昔のことは、もう。
「おばぁちゃん、ラズベリー摘んできたよ」
ありがとう、と娘にお礼を言います。
レースのリボンが似合う、自慢の娘です。私よりずいぶん小柄なのに、とっても働き者なのですよ。
娘は庭で摘んできたラズベリーを水で洗いました。窓からさし込む光がきらきらと、娘の指に絡まる水と一緒になって遊んでいます。酸っぱいラズベリーの味が、お砂糖のかける魔法で甘ぁいジャムに変わる、その喜びを想像して、わたしはうふふ、と笑います。
娘もわたしも、その魔法が大好きなのです。
空の恵みである水で綺麗さっぱり洗われた果実たちを、娘に手伝ってもらって大きな鍋に移し替えました。手を伸ばして、瓶を取ります。その中には星のかたちに固められたお砂糖が、ぎゅうぎゅうに詰められていました。
「流れ星、みたいだね」
娘が、鍋のなかに落ちていくお砂糖を見て、そんなことを言いました。
とても、素敵な言葉ね。
わたしは娘を褒めてあげます。親ばかと言われるかもしれませんが、自慢の娘なのですよ。読書家で、面白いことばをいっぱい知っているのです。
ぐつぐつ、煮立ち始めた鍋にふたをして、私は椅子に座りました。わたしの正面に座った娘のぶんも、紅茶をいれてあげることにします。湯気でふわりと白くなる部屋のなかはまるで、夢の中のよう。
そうそう、夢の話でした。
不思議な夢なんです。
夢の中で、おばぁちゃんのわたしは年頃の女の子になっていて、そして、黒髪の素敵な御方、「先生」にお勉強を教えてもらうのですよ。
若い女の子に戻っている、という辺りがまさに夢といった感じでしょう? それも、お部屋の鏡に映るわたしは、けっこう可愛らしいんですよ。栗色の髪はくるくる、らせんを描いていて、肩にふんわりと落ちています。お洋服はお上品なブラウスにスカート。良いところのお嬢様みたいな服ですけど、いつも、同じ服なのです。
そこがちょっと残念なのよ。もっといろんなお洋服を着たいのだけど、夢の中なのに上手くいかないものね。
昔のわたしは、あんな女の子だったのかしらねぇ。
覚えていないけれど。
気がついたら、ティーポットにお湯を注いでからちょっと時間が経っていました。濃くなり過ぎていないかしら? 心配しながら、ふたつのマグカップに分けて注ぎました。そう、娘のマグカップはちょっと小さめなのです。わたしのと交換してもいいのだけど、娘はこれで十分と言って譲りません。
「ありがとう、おばぁちゃん」
濃くないかしら、と心配しましたけど、娘は美味しそうに飲んでいます。それで自分のぶんに口をつけてみたのですけど、わたしにはちょっと苦すぎました。だけど、冷やしてあったミルクを注いだら、ちょうどいい味になってほっとしました。
紅茶を飲んだら、少し眠たくなってきました。
わたし、少し眠っても良いかしら? と娘に聞きました。キッチンではまだラズベリーが音を立てて煮えています。
「もちろん。今日のお昼はジャムをつけたスコーンにしましょ」
にっこり笑う娘の顔を見ていたら、頭の中が湯気でいっぱいになったみたいにぼやけていきました。
こんなところで寝たら娘に迷惑をかけてしまうわ。そう思ったのですけど、どんどん目蓋が落ちていって、身体が重くなっていきます。
夢を見れば、あの御方に会える。
とつぜん眠くなってしまうのは困りますけれど、そう思うと眠るのも悪くないものです。わたしは目を閉じて、それから目蓋の裏にあの御方の笑顔が映るのを待ちました。
*
身体が重たい、夢のはじめはいつもそう思います。
どうやら、重たいお布団が何枚もわたしの上に重ねられているせいで、そう感じるようでした。皺ひとつないまっ白な手で、わたしの手がお布団をよいしょ、よいしょと退けていきます。
最後の一枚は、あの御方が退けてくださいました。
「先生」
「おはようございます、夢 路 さん」
そう、夢の中のわたしは夢路という名前で呼ばれているようなのです。どういう意味なのですか、と、あれはいつの夢のことだったでしょうか、先生に伺いました。そうしたら、夢を見ることを道を行くことに例えて、夢路ということばが出来たそうです。
ふふ、夢の中のお名前ですから、元々はわたしの心が作り出したお名前ということになるのですけど、なかなか洒落ていると思いませんか?
「ねぇ、先生? わたし、いま、ジャムを作っているのよ」
「それは良い。何のジャムですか?」
「ラズベリーよ。娘が摘んできてくれるの……だから、今日はあんまり長居する前に、目を覚まさないといけないの。ごめんなさいね」
先生、本当はもっと一緒にいたいんですのよ?
だけど、目蓋の向こうで娘が待っているわ。とても可愛いわたしの娘。あんまりがっかりさせる訳にはいかないんです。
「私も食べてみたいものです」
先生はわたしがすぐに帰ってしまっても怒ったりしないのだわ! 嬉しく思いました。にっこり、頬を持ち上げて先生が笑います。
黒髪に縁取られた、端正な笑顔に思わず魅入ってしまいます。
でも、夢の中の住人である先生には、わたしのジャムを差し上げることは出来ません。
それをお伝えするのはとても心苦しいのですけれど、だけれども、仕方ないのです。わたしはタオルケットの端をぎゅっと握って、先生にお返事しました。
「ええ、先生。ですけど、そうしたらこの夢から抜け出してきて下さらないと……」
「そうですね。だから、私の勝手な望みですよ、お気になさらず」
ああ、夢の外側でも先生に会えたなら、素敵なのに。
哀しくって、思わず溜め息を吐いてしまいます。先生が慰めてくれました。
先生は立ち上がって、お部屋の窓に掛けられたカーテンを開けてくださいます。カーテンに捕まえられていた光がぱぁっと飛び出して、お部屋を隅々まで煌めきでいっぱいにしました。
そうして、ノートと本を開きます。
先生は、お勉強を教えて下さるのです。
どうやら、夢の中のわたしは身体が弱くって、学校に行く代わりに、先生に来ていただいてお勉強をしているようなのですよ。
「虹というものが、空に架かることがあるのですよ。夢路さんは知っていますか?」
「うーん、知らないわ」
そう言いますけど、記憶の何処かにはあるような気もします。本当のわたしはおばぁちゃんですから、ちょっと忘れているのは仕方がないかしら。
「空は色々な表情を見せてくれます。ほかにもハロ、幻日、環天頂アーク……」
「……難しいですね。いまは、何か見えるのかしら?」
窓の外は、ベッドに座った私からはほとんど見えません。でも、青空がそこにあることは分かります。
「今日は、見えませんね。残念だけど、とても珍しいものなのですよ」
「流れ星のようなもの?」
と、わたしは娘の真似をしてみます。
「ええ、流れ星もなかなか、見られるものではありませんね」
もしかして的外れかしらと心配になったのですけど、先生はまたにっこり、例の笑顔を見せて下さいました。そもそも先生はわたしが間違っても馬鹿にしたりなどしないのですから、要らない心配ですけれどね。
しばらくお勉強をしていたら、ラズベリーの匂いがふわりと漂ってきました。
「ねぇ先生、ラズベリーの匂いがしない?」
「ラズベリー? ……いいえ、私には」
先生はちょっとびっくりした顔のあとに、哀しげに眉をひそめました。それで気づいてしまいます。これは、夢の外側で匂っているあのジャムなのですね。
「ねぇ、そろそろ行かないと。娘が待ってるわ」
わたしは、膝掛けのようになっていたお布団をかけ直しました。
そうして目を瞑ります。
「ええ、さようなら。また、お話を聞かせて下さい」
もちろん、そのつもりです。
だけどそれを言おうとする間にも、ますます香しくなるラズベリーの匂いが、わたしを夢から醒まそうと引っ張っていきます。先生、貴方は私にいろいろなお話をしてくれますから、夢の中から出られない貴方に、わたしがいっぱい物語を持って行きます。
また、貴方に会える夢を楽しみにしています。
考えてみたら、しょせん夢でしかないのに、いつでも先生がそこにいらっしゃることは、とても素敵なことのように思われますね。
*
夢から醒めても、夢の中のようにぼんやりとしていました。
先生の笑顔が頭から離れないのです。
まるで、恋する少女のよう。
わたしが眠っている間に、娘がスコーンを焼いてくれたようでした。ラズベリーの匂いに混じって、生地の焼ける香ばしい匂いも漂い始めています。
「おばぁちゃん。ミントティーをどうぞ?」
窓際で育てているミントをいくつか摘んでくれたようです。娘にお礼を言って、わたしはマグカップを口に運びました。皺が寄って、だいぶ色の褪せた手のひら。夢の中のまっ白な手とは対照的です。
「ねぇ、おばぁちゃん? それにしてもずいぶん長いこと、眠っていたわ」
壁に掛けた時計を見ました。すると、もう夕暮れの手前です。わたしはびっくりしました。そんなに長く眠っていた気分などなかったものですから。
「何かの病気じゃないかしら。あたし、心配したのよ」
そんな、病気だなんて。
娘にそんな心配をさせていたなんて、ずいぶんひどいことをしたものです。哀しくて、申し訳なくて目から涙がぽろぽろこぼれ落ちました。慌てたように娘が駆け寄ってきますが、それで、更に涙が零れてしまうのです。
しばらく泣いていたら、やがて、何が哀しかったのか忘れてしまいました。
少し冷めてしまったミントティーを飲みます。
ひとくち、ふたくち、と。
それから、こちらを心配げに見ている娘に向かって、微笑んであげました。
ねぇ、眠っているだけよ。病気でも何でもないの。
素敵な夢を見ているの。それが終わったら、必ず目を覚ますのよ。
そう言ったら、娘は安心したように笑いました。
嬉しそうに、ぴょんぴょん跳ねています。結んだリボンがふわふわ、ゆらゆら、宙を舞いました。
「良かったぁ。おばぁちゃんは病気じゃないのね。あたし、嬉しい」
娘が嬉しそうだと、わたしまで嬉しくなります。
キッチンから、ちりん、と軽い音がしました。ちょうど、スコーンが焼き上がったようです。娘はお気に入りの赤いミトンを使って、スコーンを取り出しました。ミトンはわたしが作ってあげた、娘にぴったりのもので、娘はそれをとても大事にしてくれています。
焼きたてのスコーンに、ラズベリーのジャムを添えます。きめ細かいホイップクリームと、摘んだばかりのミントを添えたら、素敵なティータイムのできあがりです。
水色だった空が、オレンジ色に染まり始めたのを娘と一緒に眺めました。ミントティーのなかに夕焼けが映り込んでいて、とても綺麗です。夕方はとても素敵な時間帯ですけれど、娘と一緒なら、さらに素晴らしいものに思えます。
太陽が窓の向こう側に沈むまで、しばらく、夕焼けを眺めていました。
「あら、おばぁちゃん。髪の毛がずいぶん癖になっているわ」
眠っていたからでしょうか、髪が乱れていました。娘がくしを使って、わたしの髪の毛を解かしてくれます。くるくると渦巻くくせっ毛で、ちょっと難儀な髪なのです。
外が暗くなったからでしょうか、わたしの姿が窓に反射しました。その姿を見ると、どこか夢の中の少女に面影が似ているようにも思います。髪の毛の色はすっかり抜けてしまって灰色ですし、ぱっちりした目は皺に埋もれてしまいましたけど、それでも、どこか。
「序(つい)でだもの、綺麗にしてあげる」
そう言って、娘はわたしの髪の毛を編み込みにしはじめました。どこからか、娘がつけているのと色違いのリボンを持ってきて、それも一緒に編み込んでいきます。
「ほら、これで完成よ。おばぁちゃん」
娘は最後に、まっ白な花を飾りました。
もう、着飾るような年頃とは言い難いですけど、なかなか楽しいものですね。娘と一緒にいると飽きることがありません。いつも、楽しいことを教えてくれるのです。
そうして次に、先生もここにいてくれたら、と考えます。
ああ、娘と、それから先生がこの部屋にいてくれたら、そこはどれだけ素敵な場所になるでしょう?
ねぇ先生、貴方が夢の檻から出てきて下されば、いつでも実現するんです。
……ええ、もちろん分かっていますよ。
夢はしょせん夢なのです。わたしの描いた架空の物語でしかなく、先生もわたしが作り出した存在に過ぎません。もしかしたら先生は、わたしの若き日の思い人であったりするのかもしれませんね。昔のことは忘れてしまいましたが、忘れているからこそ、いくらでも好きなように考えられる、とも言えます。
先生、夢の檻に囚われた貴方の代わりに、わたしが会いに行きます。
夢の中で逢瀬をいたしましょう。
*
そうして、わたしはまた夢の中に潜っていきます。
先生は何か、書き物をしていたようでした。わたしに気がつくと、動かしていた手を止めて、笑顔を向けてくれます。
「ねぇ、何を書いていらっしゃったの?」
そう聞くと、なんと、先生は隠そうとする素振りを見せました。それが目新しくて、ますますわたしの好奇心は募ります。教えて下さい、そう何度もお願いすると、先生はしぶしぶ見せて下さいました。
薄手のノートに、几帳面な角張った字で、半ばくらいまでかき込まれています。文字の書き終わりにはどれも、インクのにじんで広がった跡がありました。一文字ひと文字、丁寧に書いていらっしゃる様子が窺えます。
内容を読んで、そして、びっくりしました。
なんとそこに書いてあったのは、わたしと娘の日々だったのです。
「先生、聞こえていらっしゃるの?」
「ええ。私はここから出られませんが、せめて言葉に残したいと思い……」
「嬉しいわ、先生」
思わず、先生の手を握ってしまいました。先生の手が強ばるのに気づき、慌てて手を離します。はしたない真似をしたかしら。少し不安になってしまいました。
「ああ、ごめんなさい、先生……でも、嬉しいのよ」
「良かった。夢路さんに嫌がられるのではないかと、そればかりが不安でした」
眉根を寄せていた先生は、ほっとしたように笑顔になりました。
その日の夢では、お勉強の代わりに、先生の書いてくれたノートを見て色々とお喋りをいたしました。わたしの素敵な娘のこと、色々な果実でつくるお菓子やジャムのこと、ほかにも色んなことを。
時折、不安になるのです。
何だか、先生に向かって自慢しているみたい。
だって、先生は娘には会えないし、美味しいお菓子をいくら作ったって先生には食べてもらえないんですから。でも、わたしがそうやって恐縮するたび、先生はいいんですよ、と言って笑いました。
「夢路さんのお話を聞くことが、私の楽しみなのですから」
そう言われると、先生は笑っているのに、わたしはとてつもなく哀しくなるのです。先生を夢の中に閉じ込めているのは、他ならぬわたしなのですから。
それで、つい言ってしまいました。
「ねぇ先生……わたし、たまにね、貴方がいるこの世界が現実で、娘がいる方が夢だったら、って、そう思うのよ」
それを聞いた先生は、しばらく黙っていました。
すぐに察しました。わたしは言ってはいけないことを口にしてしまったようです。
「ごめんなさい」
謝るやいなや、申し訳なさで泣きそうになりました。だけど、わたしが泣いてしまってはいけません。零れそうになった涙をぐっと堪えます。
「……そんなことを言っては、いけませんよ。娘さんに会えなくなってしまいます」
「ええ、ええ、その通りよ。わたしがどうかしていたわ」
本当に、先生の仰るとおりです。わたしは何ということを言ったのでしょう? 先生に会える代わりに、娘に会えなくてもいいなんて、そんなわけがないのに。
気がつくと、先生もぽろぽろ、涙をこぼしていました。
胸がぎゅぅと締め付けられるように痛くなりました。人を哀しい気持ちにさせることは、なんて、哀しいことなのでしょうか。
でも、それでもわたしは、夢見てしまいます。
娘と先生と一緒に暮らせる日々のことを。
先生がいつか、境目をくぐり抜けて、夢の外側に行ける日は来るのかしら?
*
最近、なんだか夢を見ることが減ったように思います。
それに、夢を見ても、すぐ目が覚めてしまうのです。
娘と長いこと一緒にいられるのは嬉しいのですよ。けれど、やっぱり先生の顔が見たいな、と思うのです。
それに、なにぶん夢の中でしか会わないものですから、記憶の中にある先生の顔がだんだんぼやけていくのです。黒髪の輪郭に穏やかな笑顔。どんどん薄れていくあの人に、それでも恋い焦がれてしまいます。
娘が目の前に座って、窓の外をゆく小鳥たちと遊んでいました。その様子を微笑ましく眺めながら、おばぁちゃんがこんなことを考えているなんて、娘が知ったらどう思うでしょう、と少しどきどきしています。
「ねぇ、おばぁちゃん? ほら、朝陽と小鳥さんが遊んでいるわ」
娘が逆光のなか、幸せそうに微笑みました。
まだ星がいくつか残る、夜の空に舞う小鳥は、まるで朝陽の案内人のようです。
娘は窓を開けて、小鳥に何事か囁きました。すると小鳥は、くちばしに飾っていた小さな貝殻を娘の手に落としました。娘が嬉しそうに歓声を上げます。
「ありがとう、小鳥さん。お礼に、作りたてのレモンピールを如(いか)何(が)?」
お砂糖で煮込んだレモンの皮を刻んで乾かした、レモンピールを娘が差し出します。だけど小鳥は、残念そうに首をかしげ、雲の向こうへ去ってしまいました。
「苦手なのかしら。甘いのと酸っぱいの、どっちがダメなのかな? それとも、ちょっぴりの苦味?」
やっぱり鳥さんと娘では、食べられるものが違うのではないかしら。わたしがそう言うと、娘はちょっと哀しそうな顔で頷きました。
そんな娘を見て、そうだ、ひとつ思い付いたことがありました。
おばぁちゃんが夢の中で会える人に恋をしている、そんなお話は、哀しそうな娘の気を紛らわすのにちょうどいいのではないでしょうか。
お話を終える頃には、すっかり陽が昇りきっていました。
「そっか、おばぁちゃんが眠っているときは、幸せな夢を見てるって思えば良いのね」
娘は顔を上気させて、すっかり楽しそうにしています。ついさっき、小鳥さんに振られたことなんてほとんど忘れてしまったかのようでした。
でも、何だか最近はあんまり夢を見ないの、と言うと、娘はまるで自分のことのように哀しそうな顔をしました。ああ、また娘の顔を曇らせてしまった、と少し後悔します。
「それじゃ、愛しの先生に会えないのね」
娘の言うとおりなのです。
ですけど、もしかしたら、ひとつだけ、期待していることがあるのです。
それは、先生は夢の檻を抜け出そうとしているのではないか、ということです。
だって先生が夢の外側に来てくれれば、わたしがわざわざ夢を見る必要もなく、先生に会えるのです。
近頃、夢を見ないのはその前触れだったりしないかしら?
*
そう期待したのですけど、また夢を見ました。
嬉しいような哀しいような、複雑な気分になってしまいます。
その日の夢では、窓の向こう側は雨でした。先生のお顔も、どこか陰って見えてしまうのは、お天気のせいでしょうか。
「夢路さん、虹のお話を覚えていますか?」
「ええ、もちろん」
わたしは自慢げに胸を張ります。先生のお話には時折難しいものもありますけど、わたしはどれも忘れない自信がありました。大好きな先生がしてくれたお話は、どれも大切なものですから。
「今日は雨ですけれど、雨のあとには虹が架かりやすいのですよ。ですから……」
先生はしばらく、ことばを選ぶように黙っていました。
「……夢路さんが、雨上がりまで起きていることを望んでいます」
「起きている? おかしなことを仰います。わたしは今、夢を見ているのですよ?」
先生は、ああ、と息を呑みました。
いつもの笑顔とは少し違う、申し訳なさそうな笑顔を浮かべます。
「ごめんなさい。言い間違えてしまいました」
「先生も、間違えることがありますのね」
「そうです。人は失敗するものなのですよ。何もかも、間違えてばかりです」
今まで先生は、色々なお話をして下さいました。
でも、人は失敗するもの、というのは初めて聞いたお話で、わたしは変に感心してしまいました。そういえば、娘が小鳥さんに振られたのも、失敗かもしれません。
「なんだか吃驚だわ。失敗するもの、なんて」
「ええ。そして、失敗を糧に、次はもっと上手くなるものです」
「そういえば、私もシュークリームを焼けるようになるまでに、ずいぶん失敗をしましたわ。生焼けだったり、ちっとも膨らまなかったり……」
そう考えると、失敗するのは哀しいことではなく、むしろ嬉しいことのように思えてきました。娘も、次はもっと上手に、小鳥さんとお話しできるかもしれません。
「いくらでも失敗すれば良いのです。……やり直しがきくことなら、ですが」
その日も、お勉強の代わりに先生とお喋りをいたしました。
わたしは久しぶりに先生とお会いして嬉しかったのですけれど、先生もひょっとしてわたしに会えなくて寂しかったのでしょうか? そう想像したら、なんだか口元がにやけてしまいます。
先生は不意に、こんなことを言いました。
「ねえ……夢路さん。もしも、本当は私のいるこの部屋が貴方の現実で、娘さんのいるほうが夢だとしたら、どうしますか?」
わたしはすごく動揺しました。
だって、それはこの間の夢で、わたしが先生に言ってしまったことですから。先生はそのとき、とても哀しそうな顔をしたはずなのに、どうして今その話を持ち出すのでしょう?
「本当の貴方はここでずっと眠っていて、寝言で娘さんとお喋りして……時折目を覚ましては、夢の中の話を私にしてくれる、そうだとしたら……」
「どうしてそんなことを仰るの?」
わたしは驚いて、思わず大声で言いました。
叫んだ、という方が近いのかもしれません。
「ああ、夢の中の先生に、そこまで思い詰めさせてしまっているのね、わたし……」
「ごめんなさい。夢路さんに哀しい顔をさせたいわけではないのです」
先生は慌てたように、頭を下げました。
だけど、謝るのは私の方です。だって、先生にそんな哀しい顔をさせているのも、わたしであり、もっと言えば先生はわたしの想像でしかないのですから。
申し訳なくて哀しくて、いまにも感情が溢れそうだったそのとき、窓から光がさっとさし込みました。
雨が上がっていたのです。
先生とわたしは、思わず外に目を向けました。
あ、と先生の口から声がもれます。先生は立ち上がり、窓際に近づきました。
私は、思わず身体を起こし、ベッドから降りました。
思えば夢の中で、ベッドから降りたのは初めてのことでした。足に力が入りません。先生が気がついて、私の身体を支えてくれました。
そして、私は見たのです。
青空の隅から隅まで架けられた、七色の橋を。
息を呑みました。こんな素晴らしいものがあるなんて、と驚きました。
先生が、良かった、間に合って、と呟きます。
ぱぁっと、虹色の光が広がっていきました。光は私を飲み込んで、眩しさに目を閉じました。
先生に身体を支えられたような、そんな気がしました。
わたしは、夢から醒めたのです。
そうして二度と、先生の夢を見ることはありませんでした。
*
しばらく、哀しみに暮れていました。
わたしの気持ちと合わせるように、空もずっと雨模様でした。娘が心配して、あれこれ世話を焼いてくれたのですけれど、心配させていることがさらに哀しくて、落ち込んでしまいました。
娘は、綺麗に編み上げた私の頭に乗って、いくつもの歌を披露してくれました。そのうちに、わたしもだんだん楽しくなってきて、哀しみを忘れてゆきました。
よく出来た娘ですが、実は、わたしの実の娘ではないのです。
道ばたの草陰で、寒さに震えていたところを拾ったのですよ。幼い頃に、親とはぐれてしまったそうなのです。
「本当は親御さんと会いたいんじゃありませんか?」
何かの折りでそう聞いたのですけど、娘は首を振ります。
「幼生のころにはぐれたもの。今のあたしを見ても、分からないよ」
そう言って、リボンの似合う可愛いカエルさんは、水かきのついた手で器用に、貝殻から育つハーブを摘み取りました。白い貝殻は、この間の小鳥さんがくれたものですね。僅かに塩の味がするハーブは、お茶のほかにスープの下味にも使えます。
その朝、久しぶりに空は晴れていました。
わたしと娘は連れだって、果物を摘みに行きました。ブルーベリーの樹は、綿雲に種が埋まって育ちます。雨上がりはたくさんの雲が流れていますから、ブルーベリーを収穫するのに打って付けでした。
わたしたちは、貝殻をくれたあの小鳥さんの力を借りて、綿雲に降り立ちます。娘はずいぶん、小鳥さんと仲良くなったようでした。
そうして、かご一杯にブルーベリーを摘みました。
とっても眩しい、素敵な朝がやってきます。
ふと、虹は太陽の向こう側に見える、という話を思い出しました。そのためか、あるいは偶然か、わたしは夜の残る空を振り返ったのです。
すると、わたしの足下から、七色の橋ができはじめました。
わたしはびっくりして、思わず娘のほうを向きました。でも、娘は小鳥さんと楽しげにお話ししていたので、わたしは決心して、自分だけで橋を渡ることを決めました。
橋は緩やかにアーチを描いて、そうして、一番高いところに辿りつきました。
そこにいた黒髪の御仁を見たときのわたしの心を、なんと表現したら良いのでしょう?
先生はついに夢の檻を抜け出して、そうして、会いに来てくれたのです。
覚束ない足取りで虹のうえを歩くわたしに、先生は手を差し伸べて下さいます。それに応えて差し出したわたしの手は、あのまっ白で皺のない、少女のものでした。
小鳥さんが娘を乗せて、わたしたちの元までやってきてくれます。そうして、私と先生の間で、ふわり、空に留まりました。
ああ、夢見た光景がついにここにあるのです。
天にも昇るような心地でした。
まずは先生に、わたしのジャムを食べていただこうと、そう思いました。
今までは見なかったの、と聞かれれば、曖昧に首を傾げるしかできませんが。
あんまり思い出せないのですよ。昔のことは、もう。
「おばぁちゃん、ラズベリー摘んできたよ」
ありがとう、と娘にお礼を言います。
レースのリボンが似合う、自慢の娘です。私よりずいぶん小柄なのに、とっても働き者なのですよ。
娘は庭で摘んできたラズベリーを水で洗いました。窓からさし込む光がきらきらと、娘の指に絡まる水と一緒になって遊んでいます。酸っぱいラズベリーの味が、お砂糖のかける魔法で甘ぁいジャムに変わる、その喜びを想像して、わたしはうふふ、と笑います。
娘もわたしも、その魔法が大好きなのです。
空の恵みである水で綺麗さっぱり洗われた果実たちを、娘に手伝ってもらって大きな鍋に移し替えました。手を伸ばして、瓶を取ります。その中には星のかたちに固められたお砂糖が、ぎゅうぎゅうに詰められていました。
「流れ星、みたいだね」
娘が、鍋のなかに落ちていくお砂糖を見て、そんなことを言いました。
とても、素敵な言葉ね。
わたしは娘を褒めてあげます。親ばかと言われるかもしれませんが、自慢の娘なのですよ。読書家で、面白いことばをいっぱい知っているのです。
ぐつぐつ、煮立ち始めた鍋にふたをして、私は椅子に座りました。わたしの正面に座った娘のぶんも、紅茶をいれてあげることにします。湯気でふわりと白くなる部屋のなかはまるで、夢の中のよう。
そうそう、夢の話でした。
不思議な夢なんです。
夢の中で、おばぁちゃんのわたしは年頃の女の子になっていて、そして、黒髪の素敵な御方、「先生」にお勉強を教えてもらうのですよ。
若い女の子に戻っている、という辺りがまさに夢といった感じでしょう? それも、お部屋の鏡に映るわたしは、けっこう可愛らしいんですよ。栗色の髪はくるくる、らせんを描いていて、肩にふんわりと落ちています。お洋服はお上品なブラウスにスカート。良いところのお嬢様みたいな服ですけど、いつも、同じ服なのです。
そこがちょっと残念なのよ。もっといろんなお洋服を着たいのだけど、夢の中なのに上手くいかないものね。
昔のわたしは、あんな女の子だったのかしらねぇ。
覚えていないけれど。
気がついたら、ティーポットにお湯を注いでからちょっと時間が経っていました。濃くなり過ぎていないかしら? 心配しながら、ふたつのマグカップに分けて注ぎました。そう、娘のマグカップはちょっと小さめなのです。わたしのと交換してもいいのだけど、娘はこれで十分と言って譲りません。
「ありがとう、おばぁちゃん」
濃くないかしら、と心配しましたけど、娘は美味しそうに飲んでいます。それで自分のぶんに口をつけてみたのですけど、わたしにはちょっと苦すぎました。だけど、冷やしてあったミルクを注いだら、ちょうどいい味になってほっとしました。
紅茶を飲んだら、少し眠たくなってきました。
わたし、少し眠っても良いかしら? と娘に聞きました。キッチンではまだラズベリーが音を立てて煮えています。
「もちろん。今日のお昼はジャムをつけたスコーンにしましょ」
にっこり笑う娘の顔を見ていたら、頭の中が湯気でいっぱいになったみたいにぼやけていきました。
こんなところで寝たら娘に迷惑をかけてしまうわ。そう思ったのですけど、どんどん目蓋が落ちていって、身体が重くなっていきます。
夢を見れば、あの御方に会える。
とつぜん眠くなってしまうのは困りますけれど、そう思うと眠るのも悪くないものです。わたしは目を閉じて、それから目蓋の裏にあの御方の笑顔が映るのを待ちました。
*
身体が重たい、夢のはじめはいつもそう思います。
どうやら、重たいお布団が何枚もわたしの上に重ねられているせいで、そう感じるようでした。皺ひとつないまっ白な手で、わたしの手がお布団をよいしょ、よいしょと退けていきます。
最後の一枚は、あの御方が退けてくださいました。
「先生」
「おはようございます、
そう、夢の中のわたしは夢路という名前で呼ばれているようなのです。どういう意味なのですか、と、あれはいつの夢のことだったでしょうか、先生に伺いました。そうしたら、夢を見ることを道を行くことに例えて、夢路ということばが出来たそうです。
ふふ、夢の中のお名前ですから、元々はわたしの心が作り出したお名前ということになるのですけど、なかなか洒落ていると思いませんか?
「ねぇ、先生? わたし、いま、ジャムを作っているのよ」
「それは良い。何のジャムですか?」
「ラズベリーよ。娘が摘んできてくれるの……だから、今日はあんまり長居する前に、目を覚まさないといけないの。ごめんなさいね」
先生、本当はもっと一緒にいたいんですのよ?
だけど、目蓋の向こうで娘が待っているわ。とても可愛いわたしの娘。あんまりがっかりさせる訳にはいかないんです。
「私も食べてみたいものです」
先生はわたしがすぐに帰ってしまっても怒ったりしないのだわ! 嬉しく思いました。にっこり、頬を持ち上げて先生が笑います。
黒髪に縁取られた、端正な笑顔に思わず魅入ってしまいます。
でも、夢の中の住人である先生には、わたしのジャムを差し上げることは出来ません。
それをお伝えするのはとても心苦しいのですけれど、だけれども、仕方ないのです。わたしはタオルケットの端をぎゅっと握って、先生にお返事しました。
「ええ、先生。ですけど、そうしたらこの夢から抜け出してきて下さらないと……」
「そうですね。だから、私の勝手な望みですよ、お気になさらず」
ああ、夢の外側でも先生に会えたなら、素敵なのに。
哀しくって、思わず溜め息を吐いてしまいます。先生が慰めてくれました。
先生は立ち上がって、お部屋の窓に掛けられたカーテンを開けてくださいます。カーテンに捕まえられていた光がぱぁっと飛び出して、お部屋を隅々まで煌めきでいっぱいにしました。
そうして、ノートと本を開きます。
先生は、お勉強を教えて下さるのです。
どうやら、夢の中のわたしは身体が弱くって、学校に行く代わりに、先生に来ていただいてお勉強をしているようなのですよ。
「虹というものが、空に架かることがあるのですよ。夢路さんは知っていますか?」
「うーん、知らないわ」
そう言いますけど、記憶の何処かにはあるような気もします。本当のわたしはおばぁちゃんですから、ちょっと忘れているのは仕方がないかしら。
「空は色々な表情を見せてくれます。ほかにもハロ、幻日、環天頂アーク……」
「……難しいですね。いまは、何か見えるのかしら?」
窓の外は、ベッドに座った私からはほとんど見えません。でも、青空がそこにあることは分かります。
「今日は、見えませんね。残念だけど、とても珍しいものなのですよ」
「流れ星のようなもの?」
と、わたしは娘の真似をしてみます。
「ええ、流れ星もなかなか、見られるものではありませんね」
もしかして的外れかしらと心配になったのですけど、先生はまたにっこり、例の笑顔を見せて下さいました。そもそも先生はわたしが間違っても馬鹿にしたりなどしないのですから、要らない心配ですけれどね。
しばらくお勉強をしていたら、ラズベリーの匂いがふわりと漂ってきました。
「ねぇ先生、ラズベリーの匂いがしない?」
「ラズベリー? ……いいえ、私には」
先生はちょっとびっくりした顔のあとに、哀しげに眉をひそめました。それで気づいてしまいます。これは、夢の外側で匂っているあのジャムなのですね。
「ねぇ、そろそろ行かないと。娘が待ってるわ」
わたしは、膝掛けのようになっていたお布団をかけ直しました。
そうして目を瞑ります。
「ええ、さようなら。また、お話を聞かせて下さい」
もちろん、そのつもりです。
だけどそれを言おうとする間にも、ますます香しくなるラズベリーの匂いが、わたしを夢から醒まそうと引っ張っていきます。先生、貴方は私にいろいろなお話をしてくれますから、夢の中から出られない貴方に、わたしがいっぱい物語を持って行きます。
また、貴方に会える夢を楽しみにしています。
考えてみたら、しょせん夢でしかないのに、いつでも先生がそこにいらっしゃることは、とても素敵なことのように思われますね。
*
夢から醒めても、夢の中のようにぼんやりとしていました。
先生の笑顔が頭から離れないのです。
まるで、恋する少女のよう。
わたしが眠っている間に、娘がスコーンを焼いてくれたようでした。ラズベリーの匂いに混じって、生地の焼ける香ばしい匂いも漂い始めています。
「おばぁちゃん。ミントティーをどうぞ?」
窓際で育てているミントをいくつか摘んでくれたようです。娘にお礼を言って、わたしはマグカップを口に運びました。皺が寄って、だいぶ色の褪せた手のひら。夢の中のまっ白な手とは対照的です。
「ねぇ、おばぁちゃん? それにしてもずいぶん長いこと、眠っていたわ」
壁に掛けた時計を見ました。すると、もう夕暮れの手前です。わたしはびっくりしました。そんなに長く眠っていた気分などなかったものですから。
「何かの病気じゃないかしら。あたし、心配したのよ」
そんな、病気だなんて。
娘にそんな心配をさせていたなんて、ずいぶんひどいことをしたものです。哀しくて、申し訳なくて目から涙がぽろぽろこぼれ落ちました。慌てたように娘が駆け寄ってきますが、それで、更に涙が零れてしまうのです。
しばらく泣いていたら、やがて、何が哀しかったのか忘れてしまいました。
少し冷めてしまったミントティーを飲みます。
ひとくち、ふたくち、と。
それから、こちらを心配げに見ている娘に向かって、微笑んであげました。
ねぇ、眠っているだけよ。病気でも何でもないの。
素敵な夢を見ているの。それが終わったら、必ず目を覚ますのよ。
そう言ったら、娘は安心したように笑いました。
嬉しそうに、ぴょんぴょん跳ねています。結んだリボンがふわふわ、ゆらゆら、宙を舞いました。
「良かったぁ。おばぁちゃんは病気じゃないのね。あたし、嬉しい」
娘が嬉しそうだと、わたしまで嬉しくなります。
キッチンから、ちりん、と軽い音がしました。ちょうど、スコーンが焼き上がったようです。娘はお気に入りの赤いミトンを使って、スコーンを取り出しました。ミトンはわたしが作ってあげた、娘にぴったりのもので、娘はそれをとても大事にしてくれています。
焼きたてのスコーンに、ラズベリーのジャムを添えます。きめ細かいホイップクリームと、摘んだばかりのミントを添えたら、素敵なティータイムのできあがりです。
水色だった空が、オレンジ色に染まり始めたのを娘と一緒に眺めました。ミントティーのなかに夕焼けが映り込んでいて、とても綺麗です。夕方はとても素敵な時間帯ですけれど、娘と一緒なら、さらに素晴らしいものに思えます。
太陽が窓の向こう側に沈むまで、しばらく、夕焼けを眺めていました。
「あら、おばぁちゃん。髪の毛がずいぶん癖になっているわ」
眠っていたからでしょうか、髪が乱れていました。娘がくしを使って、わたしの髪の毛を解かしてくれます。くるくると渦巻くくせっ毛で、ちょっと難儀な髪なのです。
外が暗くなったからでしょうか、わたしの姿が窓に反射しました。その姿を見ると、どこか夢の中の少女に面影が似ているようにも思います。髪の毛の色はすっかり抜けてしまって灰色ですし、ぱっちりした目は皺に埋もれてしまいましたけど、それでも、どこか。
「序(つい)でだもの、綺麗にしてあげる」
そう言って、娘はわたしの髪の毛を編み込みにしはじめました。どこからか、娘がつけているのと色違いのリボンを持ってきて、それも一緒に編み込んでいきます。
「ほら、これで完成よ。おばぁちゃん」
娘は最後に、まっ白な花を飾りました。
もう、着飾るような年頃とは言い難いですけど、なかなか楽しいものですね。娘と一緒にいると飽きることがありません。いつも、楽しいことを教えてくれるのです。
そうして次に、先生もここにいてくれたら、と考えます。
ああ、娘と、それから先生がこの部屋にいてくれたら、そこはどれだけ素敵な場所になるでしょう?
ねぇ先生、貴方が夢の檻から出てきて下されば、いつでも実現するんです。
……ええ、もちろん分かっていますよ。
夢はしょせん夢なのです。わたしの描いた架空の物語でしかなく、先生もわたしが作り出した存在に過ぎません。もしかしたら先生は、わたしの若き日の思い人であったりするのかもしれませんね。昔のことは忘れてしまいましたが、忘れているからこそ、いくらでも好きなように考えられる、とも言えます。
先生、夢の檻に囚われた貴方の代わりに、わたしが会いに行きます。
夢の中で逢瀬をいたしましょう。
*
そうして、わたしはまた夢の中に潜っていきます。
先生は何か、書き物をしていたようでした。わたしに気がつくと、動かしていた手を止めて、笑顔を向けてくれます。
「ねぇ、何を書いていらっしゃったの?」
そう聞くと、なんと、先生は隠そうとする素振りを見せました。それが目新しくて、ますますわたしの好奇心は募ります。教えて下さい、そう何度もお願いすると、先生はしぶしぶ見せて下さいました。
薄手のノートに、几帳面な角張った字で、半ばくらいまでかき込まれています。文字の書き終わりにはどれも、インクのにじんで広がった跡がありました。一文字ひと文字、丁寧に書いていらっしゃる様子が窺えます。
内容を読んで、そして、びっくりしました。
なんとそこに書いてあったのは、わたしと娘の日々だったのです。
「先生、聞こえていらっしゃるの?」
「ええ。私はここから出られませんが、せめて言葉に残したいと思い……」
「嬉しいわ、先生」
思わず、先生の手を握ってしまいました。先生の手が強ばるのに気づき、慌てて手を離します。はしたない真似をしたかしら。少し不安になってしまいました。
「ああ、ごめんなさい、先生……でも、嬉しいのよ」
「良かった。夢路さんに嫌がられるのではないかと、そればかりが不安でした」
眉根を寄せていた先生は、ほっとしたように笑顔になりました。
その日の夢では、お勉強の代わりに、先生の書いてくれたノートを見て色々とお喋りをいたしました。わたしの素敵な娘のこと、色々な果実でつくるお菓子やジャムのこと、ほかにも色んなことを。
時折、不安になるのです。
何だか、先生に向かって自慢しているみたい。
だって、先生は娘には会えないし、美味しいお菓子をいくら作ったって先生には食べてもらえないんですから。でも、わたしがそうやって恐縮するたび、先生はいいんですよ、と言って笑いました。
「夢路さんのお話を聞くことが、私の楽しみなのですから」
そう言われると、先生は笑っているのに、わたしはとてつもなく哀しくなるのです。先生を夢の中に閉じ込めているのは、他ならぬわたしなのですから。
それで、つい言ってしまいました。
「ねぇ先生……わたし、たまにね、貴方がいるこの世界が現実で、娘がいる方が夢だったら、って、そう思うのよ」
それを聞いた先生は、しばらく黙っていました。
すぐに察しました。わたしは言ってはいけないことを口にしてしまったようです。
「ごめんなさい」
謝るやいなや、申し訳なさで泣きそうになりました。だけど、わたしが泣いてしまってはいけません。零れそうになった涙をぐっと堪えます。
「……そんなことを言っては、いけませんよ。娘さんに会えなくなってしまいます」
「ええ、ええ、その通りよ。わたしがどうかしていたわ」
本当に、先生の仰るとおりです。わたしは何ということを言ったのでしょう? 先生に会える代わりに、娘に会えなくてもいいなんて、そんなわけがないのに。
気がつくと、先生もぽろぽろ、涙をこぼしていました。
胸がぎゅぅと締め付けられるように痛くなりました。人を哀しい気持ちにさせることは、なんて、哀しいことなのでしょうか。
でも、それでもわたしは、夢見てしまいます。
娘と先生と一緒に暮らせる日々のことを。
先生がいつか、境目をくぐり抜けて、夢の外側に行ける日は来るのかしら?
*
最近、なんだか夢を見ることが減ったように思います。
それに、夢を見ても、すぐ目が覚めてしまうのです。
娘と長いこと一緒にいられるのは嬉しいのですよ。けれど、やっぱり先生の顔が見たいな、と思うのです。
それに、なにぶん夢の中でしか会わないものですから、記憶の中にある先生の顔がだんだんぼやけていくのです。黒髪の輪郭に穏やかな笑顔。どんどん薄れていくあの人に、それでも恋い焦がれてしまいます。
娘が目の前に座って、窓の外をゆく小鳥たちと遊んでいました。その様子を微笑ましく眺めながら、おばぁちゃんがこんなことを考えているなんて、娘が知ったらどう思うでしょう、と少しどきどきしています。
「ねぇ、おばぁちゃん? ほら、朝陽と小鳥さんが遊んでいるわ」
娘が逆光のなか、幸せそうに微笑みました。
まだ星がいくつか残る、夜の空に舞う小鳥は、まるで朝陽の案内人のようです。
娘は窓を開けて、小鳥に何事か囁きました。すると小鳥は、くちばしに飾っていた小さな貝殻を娘の手に落としました。娘が嬉しそうに歓声を上げます。
「ありがとう、小鳥さん。お礼に、作りたてのレモンピールを如(いか)何(が)?」
お砂糖で煮込んだレモンの皮を刻んで乾かした、レモンピールを娘が差し出します。だけど小鳥は、残念そうに首をかしげ、雲の向こうへ去ってしまいました。
「苦手なのかしら。甘いのと酸っぱいの、どっちがダメなのかな? それとも、ちょっぴりの苦味?」
やっぱり鳥さんと娘では、食べられるものが違うのではないかしら。わたしがそう言うと、娘はちょっと哀しそうな顔で頷きました。
そんな娘を見て、そうだ、ひとつ思い付いたことがありました。
おばぁちゃんが夢の中で会える人に恋をしている、そんなお話は、哀しそうな娘の気を紛らわすのにちょうどいいのではないでしょうか。
お話を終える頃には、すっかり陽が昇りきっていました。
「そっか、おばぁちゃんが眠っているときは、幸せな夢を見てるって思えば良いのね」
娘は顔を上気させて、すっかり楽しそうにしています。ついさっき、小鳥さんに振られたことなんてほとんど忘れてしまったかのようでした。
でも、何だか最近はあんまり夢を見ないの、と言うと、娘はまるで自分のことのように哀しそうな顔をしました。ああ、また娘の顔を曇らせてしまった、と少し後悔します。
「それじゃ、愛しの先生に会えないのね」
娘の言うとおりなのです。
ですけど、もしかしたら、ひとつだけ、期待していることがあるのです。
それは、先生は夢の檻を抜け出そうとしているのではないか、ということです。
だって先生が夢の外側に来てくれれば、わたしがわざわざ夢を見る必要もなく、先生に会えるのです。
近頃、夢を見ないのはその前触れだったりしないかしら?
*
そう期待したのですけど、また夢を見ました。
嬉しいような哀しいような、複雑な気分になってしまいます。
その日の夢では、窓の向こう側は雨でした。先生のお顔も、どこか陰って見えてしまうのは、お天気のせいでしょうか。
「夢路さん、虹のお話を覚えていますか?」
「ええ、もちろん」
わたしは自慢げに胸を張ります。先生のお話には時折難しいものもありますけど、わたしはどれも忘れない自信がありました。大好きな先生がしてくれたお話は、どれも大切なものですから。
「今日は雨ですけれど、雨のあとには虹が架かりやすいのですよ。ですから……」
先生はしばらく、ことばを選ぶように黙っていました。
「……夢路さんが、雨上がりまで起きていることを望んでいます」
「起きている? おかしなことを仰います。わたしは今、夢を見ているのですよ?」
先生は、ああ、と息を呑みました。
いつもの笑顔とは少し違う、申し訳なさそうな笑顔を浮かべます。
「ごめんなさい。言い間違えてしまいました」
「先生も、間違えることがありますのね」
「そうです。人は失敗するものなのですよ。何もかも、間違えてばかりです」
今まで先生は、色々なお話をして下さいました。
でも、人は失敗するもの、というのは初めて聞いたお話で、わたしは変に感心してしまいました。そういえば、娘が小鳥さんに振られたのも、失敗かもしれません。
「なんだか吃驚だわ。失敗するもの、なんて」
「ええ。そして、失敗を糧に、次はもっと上手くなるものです」
「そういえば、私もシュークリームを焼けるようになるまでに、ずいぶん失敗をしましたわ。生焼けだったり、ちっとも膨らまなかったり……」
そう考えると、失敗するのは哀しいことではなく、むしろ嬉しいことのように思えてきました。娘も、次はもっと上手に、小鳥さんとお話しできるかもしれません。
「いくらでも失敗すれば良いのです。……やり直しがきくことなら、ですが」
その日も、お勉強の代わりに先生とお喋りをいたしました。
わたしは久しぶりに先生とお会いして嬉しかったのですけれど、先生もひょっとしてわたしに会えなくて寂しかったのでしょうか? そう想像したら、なんだか口元がにやけてしまいます。
先生は不意に、こんなことを言いました。
「ねえ……夢路さん。もしも、本当は私のいるこの部屋が貴方の現実で、娘さんのいるほうが夢だとしたら、どうしますか?」
わたしはすごく動揺しました。
だって、それはこの間の夢で、わたしが先生に言ってしまったことですから。先生はそのとき、とても哀しそうな顔をしたはずなのに、どうして今その話を持ち出すのでしょう?
「本当の貴方はここでずっと眠っていて、寝言で娘さんとお喋りして……時折目を覚ましては、夢の中の話を私にしてくれる、そうだとしたら……」
「どうしてそんなことを仰るの?」
わたしは驚いて、思わず大声で言いました。
叫んだ、という方が近いのかもしれません。
「ああ、夢の中の先生に、そこまで思い詰めさせてしまっているのね、わたし……」
「ごめんなさい。夢路さんに哀しい顔をさせたいわけではないのです」
先生は慌てたように、頭を下げました。
だけど、謝るのは私の方です。だって、先生にそんな哀しい顔をさせているのも、わたしであり、もっと言えば先生はわたしの想像でしかないのですから。
申し訳なくて哀しくて、いまにも感情が溢れそうだったそのとき、窓から光がさっとさし込みました。
雨が上がっていたのです。
先生とわたしは、思わず外に目を向けました。
あ、と先生の口から声がもれます。先生は立ち上がり、窓際に近づきました。
私は、思わず身体を起こし、ベッドから降りました。
思えば夢の中で、ベッドから降りたのは初めてのことでした。足に力が入りません。先生が気がついて、私の身体を支えてくれました。
そして、私は見たのです。
青空の隅から隅まで架けられた、七色の橋を。
息を呑みました。こんな素晴らしいものがあるなんて、と驚きました。
先生が、良かった、間に合って、と呟きます。
ぱぁっと、虹色の光が広がっていきました。光は私を飲み込んで、眩しさに目を閉じました。
先生に身体を支えられたような、そんな気がしました。
わたしは、夢から醒めたのです。
そうして二度と、先生の夢を見ることはありませんでした。
*
しばらく、哀しみに暮れていました。
わたしの気持ちと合わせるように、空もずっと雨模様でした。娘が心配して、あれこれ世話を焼いてくれたのですけれど、心配させていることがさらに哀しくて、落ち込んでしまいました。
娘は、綺麗に編み上げた私の頭に乗って、いくつもの歌を披露してくれました。そのうちに、わたしもだんだん楽しくなってきて、哀しみを忘れてゆきました。
よく出来た娘ですが、実は、わたしの実の娘ではないのです。
道ばたの草陰で、寒さに震えていたところを拾ったのですよ。幼い頃に、親とはぐれてしまったそうなのです。
「本当は親御さんと会いたいんじゃありませんか?」
何かの折りでそう聞いたのですけど、娘は首を振ります。
「幼生のころにはぐれたもの。今のあたしを見ても、分からないよ」
そう言って、リボンの似合う可愛いカエルさんは、水かきのついた手で器用に、貝殻から育つハーブを摘み取りました。白い貝殻は、この間の小鳥さんがくれたものですね。僅かに塩の味がするハーブは、お茶のほかにスープの下味にも使えます。
その朝、久しぶりに空は晴れていました。
わたしと娘は連れだって、果物を摘みに行きました。ブルーベリーの樹は、綿雲に種が埋まって育ちます。雨上がりはたくさんの雲が流れていますから、ブルーベリーを収穫するのに打って付けでした。
わたしたちは、貝殻をくれたあの小鳥さんの力を借りて、綿雲に降り立ちます。娘はずいぶん、小鳥さんと仲良くなったようでした。
そうして、かご一杯にブルーベリーを摘みました。
とっても眩しい、素敵な朝がやってきます。
ふと、虹は太陽の向こう側に見える、という話を思い出しました。そのためか、あるいは偶然か、わたしは夜の残る空を振り返ったのです。
すると、わたしの足下から、七色の橋ができはじめました。
わたしはびっくりして、思わず娘のほうを向きました。でも、娘は小鳥さんと楽しげにお話ししていたので、わたしは決心して、自分だけで橋を渡ることを決めました。
橋は緩やかにアーチを描いて、そうして、一番高いところに辿りつきました。
そこにいた黒髪の御仁を見たときのわたしの心を、なんと表現したら良いのでしょう?
先生はついに夢の檻を抜け出して、そうして、会いに来てくれたのです。
覚束ない足取りで虹のうえを歩くわたしに、先生は手を差し伸べて下さいます。それに応えて差し出したわたしの手は、あのまっ白で皺のない、少女のものでした。
小鳥さんが娘を乗せて、わたしたちの元までやってきてくれます。そうして、私と先生の間で、ふわり、空に留まりました。
ああ、夢見た光景がついにここにあるのです。
天にも昇るような心地でした。
まずは先生に、わたしのジャムを食べていただこうと、そう思いました。