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 萩原の勤務する興和(こうわ)銀行は、本店を中央区の淀屋橋(よどやばし)に置く関西系の都市銀行だった。
 関西系とは言え、都銀の中ではその規模・業績ともに常にトップを走っており、銀行を中心とした系列会社は五十以上に上るという、全国レベルにおいても最大手企業の一つだった。

 萩原はもともと、就職というものに対してあまり積極的ではなかった。やりたい仕事もなかったし、就職先が決まらなければ卒業後二、三年は海外にでも行って好きなことをやってみようとさえ思っていた。それで、友達の就職活動につき合って何の脈略もなく会社訪問をしていただけだったが、結果として内定をもらった企業は5社もあった。しかもそれらはどこも一部上場の優良企業と言われる会社ばかり。その中からこの銀行を選ぶことになるのだが、それも一番最初に内定をもらったからという以外の理由は何もなかった。
 そんな彼がこんな大企業に入っても、たいした出世は望めないと思われた。それどころか、きっとすぐに辞めてしまうに違いないと周囲の誰もが考えていた。いくら卒業してすぐに結婚し、子供が産まれたとはいえ、萩原がお堅い銀行員に向いているとは思えなかったのだ。親友の鍋島でさえ、彼がいつ銀行を辞めたいと言い出すか内心ひやひやしていたくらいだ。

 だが、またしても萩原は本人と周囲の予想を大きく裏切り、同期入行の中でも先陣を切って出世した。
 入行二年目にはワシントン支店のただ一人の二十代のスタッフとして渡米し、その二年後には早くも主任になった。そしてそれもわずか二年半ほどで通過し、去年の九月、今度は係長に昇格した。
 決して出世欲旺盛な方ではなく、むしろそう言ったものにはいたって無関心な彼がどうしてこんなに早く出世したのか。それは紛れもなく、彼の天性とも言える頭の切れの良さと運の強さに他ならなかった。
 銀行というところは、行員をひとところにあまり長く置いておくようなことはしない。長くて三年、短いと半年で替わってしまうこともある。同じ部署で長い間他人の金、しかも巨額の金を扱っているうちに、何か良くないことを考えないとも限らないという危惧があってのことだというのはもはや周知の事実だ。
 そういう意味で、萩原は自分もそろそろ転勤させられる頃だろうと考えていた。

 この本店営業部貸付二課での仕事も二年を過ぎた。彼自身、融資の仕事には決して満足していなかったし、ずいぶん前から転属願いも出してあった。
 実際に半年前、上司がその意向を汲んで、彼に法人部への異動の内示が出た。しかしなぜかそれが直前になって撤回された。どうやら法人部内で何らかのトラブルがあり、萩原の代わりに他部署へ異動するはずだった人間がそのまま部内に残ることになったのだ。
 その事情を喜んだのは萩原の上司である。彼は部下の仕事ぶりを高く買っており、本心では彼を手放したくはなかったのである。そのため、萩原は今まで通り、係長として二十九歳で部下に命令までする羽目になっていた。

 彼は今、本店営業部の二階にある貸付課の自分のデスクで、膨大な資料と格闘していた。去年の秋に大口の新規融資を成功させて以来、大きな融資や複雑な案件は必ず彼のところへ回されてきた。現在取り扱っている案件も、かなりわがままだが古くからの得意先の息子が、新しく設計事務所を開くにあたって融資を依頼してきたというものだった。内容自体は決して難しくはないのだが、融資を受ける本人よりもその親が何かとうるさく言ってきて、無理難題をふっかける。渉外課でこの客を担当しているのは青山(あおやま)という三年目の行員で、融資に関してはまだまだ不慣れな点が多かった。それで結局、簡単な事務の雑用から厄介な書類の作成まで、すべてが萩原のところへ持ち込まれてくるのだった。
「──あの、係長……」
 その青山が、萩原のデスクに近づいてくるといかにも機嫌を伺っているかのような口調で声を掛けてきた。見るからに育ちの良さそうな顔立ちの、華奢な男だった。
「え、何?」
 窓から射し込む陽光に目を細めながら、萩原は少し面倒臭そうに顔を上げた。
「あ、すいません、あの……」
「ええよ、構へんから言うて」
「はい、あの……塚田(つかだ)さんの稟議書、見せてもらえますか……」
「いいけど。個人調書の年間収支状況を書き入れるのに、前年度分の決算書のコピーをもらってきてくれって言うたの、あれはどうなった?」
「あ、まだです」と青山は俯いた。
「そうやろ」
 萩原は椅子の背に身体を預けた。「それに、自分が書いてくれた協議書も、あれでは不十分やったで」
「──申し訳ありません」
「別に責めてるわけやないよ。その──そんな感じでいろいろあるんやから、そう簡単にはいかへんってことが言いたいだけなんやから」
 萩原は笑顔で言った。こんな些細なことでも、きちんと言っておかないと後輩をいじめる嫌な先輩だと誤解されかねない。これが主任の時だとここまで丁寧に言う必要はなかった。とかく「長」の付く立場は煙たがられるものなのだ。萩原は内心、こんな状況に嫌気がさしていた。
「──よう、係長さん、あんまり後輩をいじめてやるなよ」
 萩原が振り返ると、ロー・カウンターの向こうから預金課の米倉(よねくら)が何ともいやらしい笑みを浮かべて二人を見ていた。
「米倉さん、違うんですよ──」青山が慌てて手を振った。
「萩原、青山は預金課にいた頃はほんまにようやってくれてたんやから、融資が不慣れやからってガミガミ言うてやるなよ。辞められたらおまえの責任やぞ」
「……ガミガミなんて言うてませんよ」萩原は俯いて言った。
「その辺のところをよう考えろよ。なんぼ若うても係長なんやろ。自分の仕事だけやってたら出世できるってのは、主任までやぞ」
 米倉は今年三十四歳になる預金課の数少ない男子行員で、萩原の大学の五年先輩でもあった。しかし同期の行員たちのほとんどが係長や支店長代理になっているのに対して彼だけはいまだに主任で、先の見通しも暗かった。
 そのせいか、同窓の萩原が異例のスピードで出世していくのが面白くないらしく、彼が係長になった頃からこうして先輩風を吹かせては嫌味ばかりを言いに来るのだった。脂ぎった丸顔に見るからに陰険な細い目をした、早くも中年肥りの始まった暑苦しい体型をしていた。
「米倉さん、それで何か?」
 萩原はあえて笑顔で訊いた。
「……別に。おまえのでかい態度が目に余ったから、ちょっと注意しただけや」
 米倉はむっとしたように言うと、二人に背を向けて階段に向かって歩いていった。
「……すいません、僕のせいで」青山は申し訳なさそうに萩原に振り返った。
「ええよ、気にしてへんから」
 萩原は小さく笑ってデスクの書類を手に取り、視線を落とした。
「あ、じゃあ僕、協議書を書き直します」
「いや、もうええよ。俺が書いといたから」
「──そうですか」
 萩原は顔を上げた。「あ──悪いな。次の機会にゆっくり説明するから」
「分かりました」
 青山はぺこりと頭を下げると、そのままその場を立ち去った。
 萩原は溜め息をついた。青山は真面目な男だったので、教えたことは多少の時間がかかっても必ず習得していた。だから萩原も本当なら彼にやらせてやりたいと思ったのだが、米倉にあんな言われ方をしたあとではどうしてもそんな気になれなかったのだ。
「──おい、萩原」
 今度は誰や、と思って萩原が振り返ると、同じ貸付課にいる同期の山本(やまもと)が、近くの空いた椅子を引いて萩原のそばに座ろうとしているところだった。
「何や、邪魔するなよ」萩原はわざと自分の椅子を引いた。
「米倉さん、相当おまえに絡んでくるな」
「さあな。どういうつもりなんか知らんけど」
「おまえの出世が気に食わんのに決まってるやろ。どう考えたって、あっちには無理な話やからな。おまえみたいに出世するのは」
「実はおまえも気に食わんのと違うか」萩原はちらりと山本を見た。
「俺は人の出世に興味はないよ」
 山本は顔の前で手を振ると、萩原のデスクから煙草を取った。「おまえは特別やもんな。チャンスは必ずものにする」
 そう言って煙草を自分のポケットに入れようとする山本から煙草を取り返し、デスクの引き出しに入れながら萩原は言った。
「──別に、出世のことなんて考えてないんや。おまえと一緒で、そんなもんに興味なんてないし」
「分かってるよ。けど、周りの人間はそうは思てないで」
「やろうな」萩原は山本を見た。「ほんまは米倉さんの言うように、与えられた仕事をやってたってだけなんやけど」
「それがおまえのやり方やからな」と山本は短く頷いた。「とにかく、あんまり気にしぃひんことやな。あのおっさんもそのうち転勤しよるやろ」
「分かってる」
 萩原は俯き加減で頷いた。

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