第1話

文字数 2,393文字


 憤慨している時の怒りの大きさは、長いため息とも、強い鼻息ともとれる、空気が漏れる音の程度で測れる。今、話をしているワタシは、鼻が鳴るくらいの鼻息を発しているはずだから、相当なレベルだ。
「それでなんて言ったと思う?」
 焦らす必要はまったくなく、話したくてたまらないというのに、鼻息とともに出て来たのは質問だった。
「なんて言われたの?」
 ワタシの勢いに気圧されることなく、ゆったりとした間合いの後に、カノジョは問い返した。ワタシは大きく息を吸い込んで答える。
「チームなんだから当たり前だろう、って」
「ああ……、それはムカッとくるね」
「わかる?」
「わかるよ」
「まったく、なにがチームよ。ワタシがおじいちゃん役員に、どうしてクリップアートはなくなっちゃったんだ、すぐに戻せ、なんて理不尽なことを怒られて放してもらえなくなっていても助け出そうとすらしてくれないのに、都合のいいときばっかり力を貸せとか言っちゃってさ」
 思い出すと余計に腹が立つ。
 第一、あんなデータ入力、せいぜい一日、見直しに一日、念のため二度目の確認をしたって三日でできるだろうに。それを一週間も寝かせちゃって、挙句、期限に間に合わないとか、アンタは入社何年目の先輩の社員だったっけ、って訊いてやりたいくらいだ。
 ああ、腹が立つ。自分でもわかるくらいに強い鼻息がこぼれ出て鼻が鳴った。
「たいへんだったね」
 カノジョは言葉は少ないのに、いたわりや優しさがたっぷり含まれているとわかる口調で言った。
「ありがとう。そう言ってもらえると癒される」
 目頭がじんとなるくらい、本当に嬉しい言葉だった。
「それはよかった。それにしてもあなた、ここの店、ほんと好きだよね」
「うん、好き」
 さりげなく楽しい話題にリードしてくれたのだとわかって、これもまた嬉しい。そんなカノジョとのランチが楽しいのはあたりまえだ。
 普段の昼休みは自席でお弁当を食べることが多い。ビルの休憩室でササッと食べて戻ることもある。いずれにせよ、電話番も兼ねなければならないような、つまらないランチタイムが続くのだ。たまに外で食べるときくらい、好きなところで好きなものを好きなだけ、美味しく食べたい。
 この店のランチは、店自慢の大皿のサラダにパスタかピザと飲み放題のオーガニックドリンクがついて、ちょうど千円。すこぶる美味しいときている。おまけに、テーブルとテーブルのあいだがゆったりしていて、窮屈な感じがしない。白い空間にオレンジや黄色や緑の、かわいらしいイスの背もたれがちりばめられ、ところどころにポップな陶器の小物がさりげなくディスプレイされていたりして、北欧の香りがする。それなのに場所がらゆえか、昼時でも入れなくなるくらいに混むことはない。大きな窓から柔らかい光の射す店内は、一人でランチを楽しむ人や待ち合わせらしき人たちで適度に席が埋まり、ゆったりと時間が流れていくのが見えるようだ。
 ここはカノジョと出会う前からのワタシのお気に入りの店だった。会社の誰にも教えたくはない店だったけれど、カノジョならば、と連れて来て、以来、月に一度はここでのランチを共にしている。
 おなじ会社で働く人ではあったけれど単にそれだけの間柄というのではなく、カノジョのことは友達だと思っていた。
 大人になると友だちを作るのが難しくなる。人づきあいの範囲が広がり、知り合いはかなり増えるけれど、知り合いは知り合いだ。友達となると難しい。
 一緒に働いたり、会えば言葉を交わし、ときには飲みに行ったりすることもあるけれど、仕事を抜かしてもつきあえるかどうか、個人的なことを話してもかまわないか、一歩踏み込むことも踏み込まれることも許せるか、そういうハードルを越え、友だちとなれるのはまれなことだった。
 そしてむしろ友だちは減る。学生ではなくなり、恋人を、家庭を持ち、環境が変わり、だいじなものが変わり。それはお互いさまだった。いつのまにか連絡を取り合う回数は減り、音信不通となる。連絡を取ろうと思えば、関係を続けたいと努力すれば、減ることなどないのかもしれないけれど、なかなかそうはいかず、気付いたときにはもう減ってしまっていて、友達はほとんどいなくなっていた。
 だからといって友だちができないわけではない。難しいだけだ。カノジョとの出会いがまさにそれで、カノジョとワタシはここ数年のつきあいになる。

 どうして受けなければならないのかわからない社外研修に出掛けたことがあった。社で一日最低一人の出席が義務付けられていたというのを理由に、体よく受講を押し付けられた気がして、納得できずに参加をした。
 やけに白い光の点いた、広さのわりに暖房が効きすぎた会議室にはマイクを通して話す講師の抑揚のない声だけが響いていた。業務とも結びつかず、興味もない、宗教にも似た精神論の講和が続く。質疑応答もディスカッションもない、とわかっていて真剣に話を聞く人はどれくらいいるのだろう。そんなふうに研修の流れに疑問を持つ以外に、ワタシの頭に浮かぶことはない。
 午前中だけで妙に疲れ、眠気すら隠せなくなるであろう午後に憂鬱を募らせていた昼休憩のトイレの洗面所で、ワタシはカノジョに話しかけられた。
「こんな研修、疲れるだけよね、大丈夫?」
 確かそんな感じの言葉だったと思う。とっさに返事ができずにいたワタシに、
「こういうのは鈴木さんとか、田口さんとか、時間の有り余ってる人に参加させて欲しいよね」
 カノジョは社内でも屈指の給料泥棒の名前をあげて笑った。
 おなじ会社の人は来ていないと思っていたから驚いた。そしてワタシも、まさにおなじことを思っていたから。
 今にして思えば、時間にしてほんの1、2分の会話で、なぜかカノジョには気を許してしまったのだと思う。小さな同意と類似の化学反応が、人間関係の土台を急速構築した。
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