登り道
文字数 1,596文字
族長と博士の、若かりし頃のお話
***
「ペ……ペースを落としてくれ、キティ」
「私の名前はもうキトロスだ。いい加減覚えろ」
「いいからちょっと待……ぜぇ……ぜぇ」
「そんなに細っこいからすぐにヘバるんだ。普段からもっと肉を食え」
「僕はこれで丁度いいんだ。君の骨格を基準にされてたまるか」
後ろを歩く二人の大人は、さっきから同じような会話を繰り返している。
よく飽きないものだと呆れながら、子供は大岩の登りに掛かった。
「しようがないなぁ。お――い、少し休憩にしよう」
呼ばれてしまった。あ――あ……
だが機嫌を損ねてはいけない。払いの良い客だから丁寧に扱えと言われている。
子供は感情を仕草に現さぬよう、無表情で頷いて引き返した。
素人が登るには少々険しい山道。
今日の客は男女二人組。コーコガクシャと名乗っていた。
コーコガクシャってのはたまに来るけれど、女性は珍しい。もっとも女性とは思えない程大きくて強そうだ。自分も肉を食べたらこんな風になれるんだろうか。
子供は担いでいたザックからアルマイトのカップを出して、立ったまま休憩している女性に差し出した。彼女は大荷物を背負っているので、小休止では座らない。
「ありがとう、私はいいからあちらのおじさんに水をあげてくれるか」
男性の方は青い顔をして座り込んでいる。
子供は聞こえなかったように、水筒からカップに水を注いで女性に押し付けた。
女性は仕方なく受け取り、男性の所へ運んでやる。
その間に子供は二人からうんと離れて、すました顔で岩に腰掛けた。
「言葉、通じないのか? 標準語が分かる案内人をって頼んだのに」
「ガイドとしてはちゃんとプロの仕事をしている。問題ない」
「どうして僕の手の届く範囲に近寄らないんだ」
「あまり気にするな。子供には子供のこだわりがあるんだろう」
「見た感じの危険度は君の方が高いだろ」
「絞めるぞ」
子供は塩を口に含みながら、大小の大人を眺める。筋骨逞しい女性と、色の薄い貧弱な男性。反対の事を言い合っているようなのに楽しそうだ。珍しい大人だな、と思った。
偉そうに講釈を喋り続ける集団をこれまで何回も案内したが、険しい登り道にだんだんと静かになり、ご希望の目的地に着くと完全に沈黙してしまう。
そんなのの繰り返しなので、子供にとってのこの仕事は、一族の大人に言い付けられて勤めるだけの、乾いたビジネスでしかなかった。
そもそも何であんな
何もない所
に、このヒトたちは高いガイド料を払って行きたがるのか。***
道の所々に白い残雪が現れ出した。
子供はヒョイヒョイと渡ったが、振り向いていきなり「ダメだ!」と叫んだ。
三人の真ん中を歩いていた男性が足を上げかけていた所だった。
「足跡以外踏むなってさ」
「だってあの子の足跡小さいじゃないか。その割に歩幅が大きいし」
「ガイドに従え」
「こっちだって山育ちなんだ。雪渓のセオリーくらい知っている」
「お前は頭でっかちの引きこもりだろうが。ここではあの子がルールなんだから従え。ほら、私が先に行って王子様に道を作ってやる」
女性が彼を追い抜いて、ズシズシと子供の足跡の上にスタンプし、足場を広げてやった。
男性はえっちらおっちらと、女性の大きな足跡にいちいち両足を揃えながら着いて行く。
確かにこんな春先の雪渓は下が空洞だらけで、踏み抜いたら一巻の終わりって事もある。道迷いの原因にもなる。だから夏道を熟知しているガイドが雇われたのだ。
「こんな季節に無理矢理来たがったのはお前なんだから、責任持って頑張れ」
「だってさ、親父の奴、ずっと引退したがってて。兄貴たちは帰って来ないし……」
「…………」
「春繭の奉納祭が終わったら、今度こそ逃れられない気がする。族長になっちまったらもう出掛けられないだろ、こんな旅」
「……まあな」
「ここだけは来ておきたかったんだ」
『谷間に幽かに残る音』 表紙
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