第7話

文字数 3,526文字

 葬儀会館のエレベータは私の体に重力をじっくり伝えて一階に着いた。
 操作ボタンの前に立つ小島さんが開いたドアに手を添えて、私と松岡さんをロビーヘ促した。
「駅まで送るわ。私たち、小島さんの車で来たの」
 と、松岡さんがいった。
 そうし、と小島さん。「もう外は暗いし。今日ちゃん、車のほうが安全やろ」
 葬儀会館から駅までは徒歩数分。車で移動するほどの距離ではないけれど、私は断る言葉を控えて頷いた。
「今日ちゃんは会社から来たんか。疲れたやろ」車のキーを出しながら小島さんがいう。「若いとまだ、こういうのに慣れへんしな」
「歳をとると嫌でも慣れてしまうわね」微笑んだ松岡さんが静かにいった。
「場数踏むしな」
 と、小島さんがあきらめたように笑う。
 ロビーは水を打ったように静かだった。
 私の視界の端に、入口正面の案内所に立つ女性の姿があった。彼女がお辞儀をして、自動ドアから入ってきた喪服の男性が見えた。オーナーの門田(かどた)さんだった。こちらから顔の見えない距離だったけれど、肌の色と丸顔のシルエットで門田さんだとわかる。門田さんは小脇にセカンドバッグを抱えて、右手にストローのささったドリンクを持っていた。
 あ、と、私が思った瞬間、小島さんは体を硬くしてツカツカと門田さんに向かって行った。
 小島さんの背中はこわばって、後姿に怒りが見えた。小島さんは、案内所の前の門田さんに掴み掛った。温厚な小島さんのただならぬ様子に驚いていると、私のそばの松岡さんは涙でにじんだ目で二人を睨んでいた。
 小島さんは怒鳴った。
 ロビー全体に響くくらいの大声で怒鳴った。怒りで舌のもつれた大声で小島さんがなんといったのか、言葉は聞き取れなかった。案内所の女性は警備を呼ぼうとしているのか、カウンターの電話の受話器を手にしておろおろしている。小島さんは再び怒鳴った。すると松岡さんは私の前に立ちはだかり彼女の小さな体で私をかばうようにした。バシャーンという音がして、門田さんは尻もちをついた。小島さんが突き飛ばしたのだ。
「今日ちゃん、行こう」
 松岡さんはそういって、私の手を取り歩き出した。何が起きたのかわけがわからず、唖然としたまま私は松岡さんに手を引かれた。小島さんと門田さんの側を通り過ぎると床に広がるオレンジ色の液体から柑橘系のにおいがした。
 松岡さんと私は葬儀会館と飛び出した。
 こっち? ああ、そっちね、と、松岡さんはしくしく泣きながら私に駅へ向かう道を尋ねた。松岡さんの手が私の手を固く握って離さなかった。
 松岡さんにかける言葉が見つからなくて、私は黙ったまま彼女に引っ張られた。坂道を下るみたいにずんずん歩く松岡さんが拗ねた子どもみたいに見えてなんだか可愛らしかった。ところで小島さんを放っておいていいのだろうか? 小島さんは門田さんになんといったのだろう? 小島さんは喪主に何を話しかけたのだろう? それよりあの喪主はルミ先生の夫だったのだろうか? 私は時間を逆回しにしてとりとめもなく疑問を沸かせる。わからない事と知らない事が混ざり合って体の中で発酵して浮力になりそうで、フワフワと宙に浮きそうな私を松岡さんが強く握った手で地上に留めてくれているみたいだった。

 私と松岡さんは駅に隣接する飲食店街のカフェに入った。
 オープンして間もない様子のカフェで、木目のテーブルとこげ茶の合皮の椅子は汚れも傷もほとんどない。テーブルの上のラミネート加工のメニュー表はピカピカしている。
「今日ちゃん、これ食べない?」
 松岡さんはおすすめフードのオムライスセットを指した。「夕食まだでしょ。私も食べるから、今日ちゃんも食べよう」
 店員を呼んでオムライスセットを二つ注文した。
 小さな店に客は私たちだけだった。サラダとスープがすぐに来た。
「かなしくても、お腹は空くわね」
 松岡さんがそういってフォークやスプーンを渡してくれた。食欲はなかったのに、なぜか私は食が進んだ。松岡さんはフォークにアクセサリーをつけるみたいにラディッシュを刺して、彼女の食べ方が食べものをおいしそうに見せる。
 松岡さんは夙川で輸入雑貨店を経営する五十代の独身女性だ。
 滝沢さんたちから聞いた話によると、資産家の一人娘らしい。初対面の人に必ず美人という印象を与えるきれいな人だった。
 ドリームホールでは毎週金曜に来て、パーティに訪れた人々の間をとりもったり、飲み物や軽食をすすめたりした。誰にでも優しさを差し出すさりげなさが色っぽく、同性の私から見ても魅力的な女性だ。彼女がなぜ独身なのか、私は不思議に思っていた。
 オムライスがテーブルに届くと、松岡さんの携帯が鳴った。
「メール、一人で帰るって」松岡さんは液晶画面を見ると携帯を閉じた。ため息交じりに「しょうがないわ、お父さんは」という。
 松岡さんは小島さんをお父さんと呼んだ。彼らはダンスのパートナーでもあった。ドリームホールでよくルンバを踊っていた。昔の歌謡曲をボサノヴァ調にアレンジした音楽に乗せて揺れるように踊る二人はなんとも優雅で、大人の関係とはこういう二人の事をいうのだろう、と、私は羨望の目で見ていた。
「今日ちゃん、きれいになったね」
 松岡さんが唐突にいうので私は噴き出しそうになった。まるで久しぶりに会った親戚みたいでおかしい。
 照れ隠しをするように私はいった。
「喪服のせいやと思いますよ。喪服の黒は女をきれいに見せるっていうじゃないですか。これ、安かったんですよ。地元のちっちゃいデパートのバーゲン品で、お買い得やったんです」
「あら、スカートのバックスリットがセクシーだったわよ」
「あ、見えました?」
「うん。お焼香の時、後ろから見て、誰だかわからへんかったもん。ほんと、今日ちゃん、きれいになったわ」
 愛されている人は、きれいになるもんね、と、松岡さんはデミグラスソースのマッシュルームを口に運んだ。
 私はスープのクルトンをすくう。「そんな事ないですよ。相変わらず一人やし、彼氏もいません」
「笠野君がいるでしょ」
 と、松岡さんは少し呆れた感じでいった。
 笠野は松岡さんのお店の専属カメラマンになっていた。私はドリームホールで働いた頃、ホームページ用の店内写真を撮るカメラマンを探す松岡さんに笠野を紹介した。松岡さんは笠野を気に入り、その後も商品写真の仕事を依頼をした。笠野も松岡さんの人柄とお店が気に入り、彼女のオファーをうれしそうに受けていた。
 私は笠野から、ルミ先生の事を知らされた。
 笠野にルミ先生の事を伝えたのは、松岡さんだった。
 ドリームホールを辞めてから私は松岡さんと会う事はなく、お互い連絡先も知らなかったけれど、松岡さんが笠野に、今日ちゃんに知らせて欲しい、といったそうで、私はこの時になってその事を思い出し、知らせてくれた事のお礼をいった。
 そんな、いいのよ、そんな事、と、松岡さんは首を振り食事の手を止めて、こんな事に今日ちゃんを巻き込んでしまって、と、申し訳なさそうにいう。
 私もスプーンを置いていた。
 松岡さんはお水を一口飲んだ。再びスプーンを手に取ると、オムライスの卵を裂いた。
「笠野君はね、今日ちゃんの事が好きよ」
 私もスプーンを持った。
「笠野は友だちです。笠野の事は嫌いじゃないし、たぶん、好きですよ。でも、好きというより、信頼しているんかな。だからそういう関係に見えるんやと思いますけど」
「それは素敵ね。信頼関係は、なかなかできないわよ」
 松岡さんはスプーンを置いてフォークを持ち、サラダのキャベツをひっかけた。
「今日ちゃんね、気づいた方がいいと思う。笠野君ね、信頼されるより、気づいて欲しいのよ。そういう気持ちはね、気づかれていないだけで傷ついているのよ。おばさんみたいにおせっかいいうけど、私、おばさんやからおせっかいいわしてもらうわよ」
 と、松岡さんはニッコリ笑った。つられて私も笑った。
 今日ちゃん、といって、松岡さんは続ける。
「一人だからできる事もあるけれど、一人でできない事もあるの。今日ちゃん。一人はね、やっぱり無理をして一人になるの。もちろん一人と一人が一緒になって、二人で生きていくといろいろと無理が見えてくるけどね。でもね、その無理と、人が一人になろうとする無理は、まったく別のものよ。今日ちゃんは頭がいいし、がんばり屋さんやから、一人でなんとかしようとして、一人になる無理を選びやすくなっていると思うの。笠野君ね、今日ちゃんのそういうところも見てるわよ。彼、カメラマンでしょ」
 それにやっぱり、好きな人の事はよく見てるから、と、松岡さんは優しく、はっきりした口調でいった。

(つづく、次回最終話)
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