蒼と赤・Ⅵ
文字数 2,187文字
月明かりに石造りの城塞が浮かぶ。
小狼(シャオラ)は随分と大層な部屋に入れられていた。
石煉瓦の頑丈な壁に、天蓋付きのベッドと毛皮を張った椅子、凝った彫り物の調度品。
出入り口は大虎が出入り出来る程の大きさがあるが、ご丁寧に結界の膜が張られている。半透明の膜の向こう側では、黒虎が寝そべって薄目で睨んでいる。
ここは敵将の砦の一つ。
廃墟となっていた昔の城跡。見張り塔まである大きな造りで、結構な数の兵士が駐留している。
陰陽師は墨将(メィジャ)と呼ばれ、砦の将軍に仕えている。かなり重用されているらしく、城の一部を立ち入り禁止にして妖しげな事を好き放題にやっていても、誰にも文句を言われない。
入り口の壁の向こう側に、虎が視線を動かした。
先程からそこに、アルカンシラが背をもたせかけて立っているのだ。
「王様の側女に名乗りを上げて、出発の前夜に、あの人が忍んで来たの」
小狼は家具に一切触れず、入り口に背を向けて石の床に座り込んでいる。
声は届いているのだが、微動だにしない。
「私の協力次第で戦を終わらせる事が出来るって。私、もう戦が嫌だった。集落の男の人達、徴集されて誰も戻らなかった。毎日誰かが泣いて、心が荒れて癇癪を起して、そういうのが私に向くの。ずっとビクビクして怖くて辛くて……早く終わって欲しかった。だから承諾したの」
小狼は無機質な床をぼぉっと見つめていた。
(何と能天気だった事か)
侵略に来たのだ。恨まれて当たり前なのだ。友達になんかなれる筈なかったんだ。
「毒の入った爪を渡されたわ。でも聞いて。とても出来なかった。王様、あんなにいい人だとは思わなかったもの。最初の夜、王様と一緒でなくて本当に本当によかった」
返事はなくとも、アルはひたすら続ける。それしか出来ることがないからだ。
「しばらくして、業を煮やした間者鴉が来たわ。それではっきり伝えたの。王様を殺める事は出来ません、気に入らないのなら私の命を取って下さいって。本当よ。
そしたらね、もういいって。私が妖精と懇意になれたようだから方針を変える、妖精の子供の身柄を利用して、交渉で戦を終わらせる事にした。その方が、王様も誰も血を流さないで済むって」
うまい事言うな……小狼は床を見つめた。
戦に脅かされるアルのような弱い者には効くだろう。
しかし、質の一人や二人で折れるような者は戦なんか始めない。
現に小狼はあちこちで、身内を犠牲に平気で攻め入る人間を見て来た。
そも、テムジンが自分の身柄ごときで足を止めるなんて有り得ない。
「ねえ、もうそれでいいじゃない。このまま引き揚げて帰ったって。王様も無事、兵隊さん達も無事、小狼だって戦なんか消えてしまえばいいと思っていたんじゃないの?」
虎が首を上げて居住まいを正した。
黒衣をひらめかせて墨将が、白虎を従えて滑るように歩いて来た。
「儂の特別誂(あつら)えの部屋は如何かな、北の国の妖精殿」
小狼は顔を上げたが、振り向きはしない。
「長年話にだけ聞いていた蒼の妖精が生きてこの手に収まるなど、夢のようです。しかも雌だ。色々遊べそうですね。どんな掛け合わせをしましょうか。楽しみだ楽しみだ」
「墨将様? 何を言って……」
アルが慌てて言うのに、小狼は被せて声を張った。
「アルカンシラはもう要らないでしょう? 解き放ちなさい!」
壁の向こうのアルが息を呑む音が聞こえた気がした。
元々は賢い娘だ。瞬時に、自分が何をされたかを悟っただろう。
「それは無理な相談です」
ねちっこい嫌な声。
「さてさてこちらの娘も面白いモノを宿している。鬼神とも言われる草原の覇王の種子」
小狼は驚愕の目を見開いて振り向いた。
何て? 今何て?
「隠しておけると思ぅたか? 儂の目はごまかせぬ、この娘には命が二つ見えておるのだよ。
まぁ安心してよい。種子は儂のコレクションの一つとして大事に大事に育むとしよう。取り出せるまではその腹で大きくして貰わねばならぬが」
ひきつった喉で息を吸い込むアルの悲鳴。
バネで弾かれたように小狼は入り口に駆け寄った。
「あぅ!!」
結界の膜に触れた瞬間、全身を針で貫かれる衝撃。駄目だ、今の自分の力では。
アルカンシラは白虎に押されて奥へと連れ去られて行く。
何度も振り向いて口をパクパクさせるが、とうとう言葉を喋れなかった。
「謝りの言葉すら出せないようですな。自分でも『今更何を言っても』と思っているのでしょう。まぁ利用しやすいですな、あの手の単純な娘は」
「黙れ!」
小狼は髪を逆立てて怒鳴った。人の気持ちが分かっていない訳ではないのだ。どう利用出来るかしか考えていないだけで。
相容れない。この人間が今までどんな人生を積んで来たとしても、理解はしないだろう。
「儂を怒らせない方が宜しいですぞ。今貴女に四肢があるのは、我が主君の為にだけです。面倒ですが、貴女を質に戦を優位に運ぶ仕事もやっておかねばならぬのです。ある程度の地位も必要ですからね、人間界で自由にやって行くには。戦が終わった後は、貴女の態度次第だという事をお忘れなく」
嫌な声で喋るだけ喋って、墨将は満足して去って行った。
小狼は拳を握りしめて黙って突っ立っていた。
口の中に血の味がする。
こんなに奥歯を噛み締めたのは生まれて初めてだ。
――落ち着けよ、どチビ。
耳元で声がささやいた。
小狼(シャオラ)は随分と大層な部屋に入れられていた。
石煉瓦の頑丈な壁に、天蓋付きのベッドと毛皮を張った椅子、凝った彫り物の調度品。
出入り口は大虎が出入り出来る程の大きさがあるが、ご丁寧に結界の膜が張られている。半透明の膜の向こう側では、黒虎が寝そべって薄目で睨んでいる。
ここは敵将の砦の一つ。
廃墟となっていた昔の城跡。見張り塔まである大きな造りで、結構な数の兵士が駐留している。
陰陽師は墨将(メィジャ)と呼ばれ、砦の将軍に仕えている。かなり重用されているらしく、城の一部を立ち入り禁止にして妖しげな事を好き放題にやっていても、誰にも文句を言われない。
入り口の壁の向こう側に、虎が視線を動かした。
先程からそこに、アルカンシラが背をもたせかけて立っているのだ。
「王様の側女に名乗りを上げて、出発の前夜に、あの人が忍んで来たの」
小狼は家具に一切触れず、入り口に背を向けて石の床に座り込んでいる。
声は届いているのだが、微動だにしない。
「私の協力次第で戦を終わらせる事が出来るって。私、もう戦が嫌だった。集落の男の人達、徴集されて誰も戻らなかった。毎日誰かが泣いて、心が荒れて癇癪を起して、そういうのが私に向くの。ずっとビクビクして怖くて辛くて……早く終わって欲しかった。だから承諾したの」
小狼は無機質な床をぼぉっと見つめていた。
(何と能天気だった事か)
侵略に来たのだ。恨まれて当たり前なのだ。友達になんかなれる筈なかったんだ。
「毒の入った爪を渡されたわ。でも聞いて。とても出来なかった。王様、あんなにいい人だとは思わなかったもの。最初の夜、王様と一緒でなくて本当に本当によかった」
返事はなくとも、アルはひたすら続ける。それしか出来ることがないからだ。
「しばらくして、業を煮やした間者鴉が来たわ。それではっきり伝えたの。王様を殺める事は出来ません、気に入らないのなら私の命を取って下さいって。本当よ。
そしたらね、もういいって。私が妖精と懇意になれたようだから方針を変える、妖精の子供の身柄を利用して、交渉で戦を終わらせる事にした。その方が、王様も誰も血を流さないで済むって」
うまい事言うな……小狼は床を見つめた。
戦に脅かされるアルのような弱い者には効くだろう。
しかし、質の一人や二人で折れるような者は戦なんか始めない。
現に小狼はあちこちで、身内を犠牲に平気で攻め入る人間を見て来た。
そも、テムジンが自分の身柄ごときで足を止めるなんて有り得ない。
「ねえ、もうそれでいいじゃない。このまま引き揚げて帰ったって。王様も無事、兵隊さん達も無事、小狼だって戦なんか消えてしまえばいいと思っていたんじゃないの?」
虎が首を上げて居住まいを正した。
黒衣をひらめかせて墨将が、白虎を従えて滑るように歩いて来た。
「儂の特別誂(あつら)えの部屋は如何かな、北の国の妖精殿」
小狼は顔を上げたが、振り向きはしない。
「長年話にだけ聞いていた蒼の妖精が生きてこの手に収まるなど、夢のようです。しかも雌だ。色々遊べそうですね。どんな掛け合わせをしましょうか。楽しみだ楽しみだ」
「墨将様? 何を言って……」
アルが慌てて言うのに、小狼は被せて声を張った。
「アルカンシラはもう要らないでしょう? 解き放ちなさい!」
壁の向こうのアルが息を呑む音が聞こえた気がした。
元々は賢い娘だ。瞬時に、自分が何をされたかを悟っただろう。
「それは無理な相談です」
ねちっこい嫌な声。
「さてさてこちらの娘も面白いモノを宿している。鬼神とも言われる草原の覇王の種子」
小狼は驚愕の目を見開いて振り向いた。
何て? 今何て?
「隠しておけると思ぅたか? 儂の目はごまかせぬ、この娘には命が二つ見えておるのだよ。
まぁ安心してよい。種子は儂のコレクションの一つとして大事に大事に育むとしよう。取り出せるまではその腹で大きくして貰わねばならぬが」
ひきつった喉で息を吸い込むアルの悲鳴。
バネで弾かれたように小狼は入り口に駆け寄った。
「あぅ!!」
結界の膜に触れた瞬間、全身を針で貫かれる衝撃。駄目だ、今の自分の力では。
アルカンシラは白虎に押されて奥へと連れ去られて行く。
何度も振り向いて口をパクパクさせるが、とうとう言葉を喋れなかった。
「謝りの言葉すら出せないようですな。自分でも『今更何を言っても』と思っているのでしょう。まぁ利用しやすいですな、あの手の単純な娘は」
「黙れ!」
小狼は髪を逆立てて怒鳴った。人の気持ちが分かっていない訳ではないのだ。どう利用出来るかしか考えていないだけで。
相容れない。この人間が今までどんな人生を積んで来たとしても、理解はしないだろう。
「儂を怒らせない方が宜しいですぞ。今貴女に四肢があるのは、我が主君の為にだけです。面倒ですが、貴女を質に戦を優位に運ぶ仕事もやっておかねばならぬのです。ある程度の地位も必要ですからね、人間界で自由にやって行くには。戦が終わった後は、貴女の態度次第だという事をお忘れなく」
嫌な声で喋るだけ喋って、墨将は満足して去って行った。
小狼は拳を握りしめて黙って突っ立っていた。
口の中に血の味がする。
こんなに奥歯を噛み締めたのは生まれて初めてだ。
――落ち着けよ、どチビ。
耳元で声がささやいた。
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