第3話 参勤交代をしていた頃

文字数 1,358文字

 市之亟は久留米藩の下働き侍として久留米市に住んでいた。畏れ多い、久留米藩の殿様は二代目藩主有馬忠頼様でござった。江戸の徳川征夷大将軍に拝謁し、暫しの間、妻子のいる江戸藩屋敷で過ごされました。参勤交代は、次の年は久留米で過ごすことを許されている。
 殿様は、重臣や侍二百人と人足を二百人と馬二十頭を伴い、東海道の五十三次の宿場に泊まりながらひたすら行軍し、戻られる。江戸を後にして、京都から山陽道の五十の宿場に泊まり、南下される。中国地方の宿場を泊まりは、経費も掛かることもあるので、大阪から船で小倉の港に着かれる。小倉宿で一泊され、秋津街道を下って、大名行列は帰って行くのである。江戸を出発して、百三宿場に泊まると想像すると、百三日間かかっている。三ヵ月半も歩き続けることになる。実際は、大阪からは船だったので、歩かずゆっくり出来ただろう。瀬戸内海を通り、小倉港へ着き、秋月街道を下ったらしい。日数も二宿場毎に泊まり、五十日位掛かったのではないだろうかと想像する。久留米藩の参勤交代の旅の記録というのを見たことが無いので、想像であるが、もし個人的に記録を残していてくれれば、江戸時代の参勤交代の状況がわかり、面白いのだが、現在は見当たらない。大きなかが百万石の藩でに参勤交代の記録は残っているようで、時代の状況が推測できるようである。
二年に一度、行軍するのは、苦行であるが、単なる物見遊山の旅行ではない。軍事演習という兵役務である。掟に背けば、将軍から、お家が取り潰しなどとなると大変だ。
 小倉宿まで来れば、残りは秋月街道の九つの宿場のいくつかに泊まり、松崎宿まで戻る。松崎は久留米藩の支藩である。有馬豊範が一万石の所領を貰い、治めていた所である。
 参勤交代の為、全国の街道は整備され、一里塚が目安となり、五里ごとに宿場が設置された。馬が一日歩けるのは五里程度である。数ヵ月前から先発隊が行き、各宿場の予約を取っておく。本陣は殿が泊まり、家臣は旅籠や木賃宿に分散し宿泊する。下層な人は、野宿をするなど大変な思いをしたのだろう。殿様は四人の担ぎ手のいる駕籠に乗る。揺れる駕籠に飽き、馬に乗ったり、峠越などは歩きである。木箱に入れた荷物は、馬継ぎ場が宿場にあり、次の宿場まで馬や人夫が届ける事になっていた。当然、金を貰っての商売で宿場の人々は生計を維持していた。参勤交代に掛る費用は膨大な金額だった。また江戸屋敷では久留米藩は火消しや警備の仕事があった。江戸邸に勤める侍は常駐し、城勤めは城勤めで常駐していた。
 宿場には鍛冶屋、味噌や、米屋、金融業、飯屋とあらゆる商売の店が軒を並べていた。大名行列は御得意様で、多額の金を落としてくれる。藩は、諸々の出費で藩財政が逼迫するので、節約をするのが当り前だった。
 東構え口は江戸から宿場への入り口で、西搆口は藩へ下って行く出口である。宿場の長さは一キロ近く商店が、軒を並べていた。
一六三五年、徳川家光将軍により、武家諸法度が制定され、参勤交代が始まった。それ以来、二三三年にわたり、二年に一度、兵役として江戸の大将軍謁見が義務化実施された。
現在は、どうなっているのか、旅日記の始まりである。
 道路地区をコピーし張り合わせ、事前に現地の場所を捜し、行程をイメージ作りをしていく。
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