第115話 3ヶ月と21日目 9月15日(火)

文字数 1,428文字

 銀座は遠い。
 無論距離的にではなく、精神的にである。
 昨日の夜から今日こそは、と、思いつつ、或ることを思い出して、今日は中野から新宿にかけての専門学校周辺を見て廻りに行くことになった。
 実は現在コロナ禍で長年勤めている職場を休業中なのだが、そこは比較的女性が多く自分の居る部署には現場研修で新入社員が必ず送り込まれる。
 ところが大卒と専門学校卒の女子が同時期にまったく同じ研修をするので、我々古株のバイトは全員に均等に同じことを教えながら研修期を過ごす。
 一年もすれば大卒者は広報や営業或いは花型の部署へと転属するが、専門卒は地味な現場のきつ目の仕事をすることになる。
 どこの会社もそうなるだろう。
 しかし我々古株のバイトはそのような一年後の彼女達の運命を知りつつ、研修期はまったく平等に接しなければならない。
 そうなると私に取っては仕事と直接関係のない小説が、彼女達と独自のコミュニケーションを取る絶好のツールになる。
 何故なら出版社でもない一般的な職場に、小説を書いている人間など私しかいないからだ。
 ところが小説のことを話そうにも、私のはほぼ歴史或いは戦争文学なのである。
 手を加えずにそのまま読ませたところ、大卒専門卒の別に拘わらず、彼女達のほぼ全員から「訳が分からない」、と、厳しい評価を食らってしまった。
 そこでノベルデイズにも掲載しているのだが、ラブコメを書くことにした。
 しかし大卒の娘達用のものと専門卒の娘達用のものとに分ける必要があると思い、2つ書いたのだが専門卒の娘用の方がまったく書けていない。
 そこで取材がてら中野の各種専門学校周辺を散策したのだが、その際商店街で昼を食べてそれから足を伸ばして銀座にいくつもりだったのだが、一瞬眼にしたパチンコ屋の看板に身体が反応しそうになったのだ。
 悪魔の誘惑に負けそうになり、気が付いたときにはフラフラとパチンコ屋の入口まで来ていた。
 しかし私は或るおじさんに遭遇し、その人のお蔭で九死に一生を得たのだ。
 そのおじさんとは、雪駄に五本指ソックスを履き、ドロドロのジャージに破れまくったTシャツ、そして何時洗ったか分からない髪をしていて、何よりも鼻が曲がりそうな異臭を放っていたのである。
 私は茫然とその場に立ち尽くし、異臭のおじさんがパチンコ屋の店員に叩き出されるのを待ったのだが、どうやら入口付近の空き台に座った模様。
 なんと普通に客として迎えられていた。
 刹那のこともしそのおじさんと出会っていなければ、私はおじさんと同じようにパチンコをしていたのか、と、茫然自失に陥った。
 恐らくおじさんは自身の異臭には気付いていないとは思うが、今日の私に取ってはおじさんのその異臭が救世主となったのである。
 それ以後銀座にも専門学校の視察にも行く気を失った私は、自分の部屋に直行した。
 つまり不本意であっても、今日競馬やパチンコの被害を被ることもなく無事だったのは、おじさんの異臭のお蔭なのである。
 しかし明日こそは、異臭を嗅がないことでの無事を祈りたい。
 その為には銀座に行かないと。
 銀座ならあんなおじさんは居ないだろう。
 しかしまさかあの異臭を放つおじさんと、もう一度銀座であったらどうしよう。
 そのときは勇気を出して言おう。
「昨日パチンコをせずに済んだのは貴方のお蔭です。御礼に石鹸とシャンプーを買わせて貰えませんか」、と。
 
 
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