1/24を引き当てたということ~⑫

文字数 1,032文字

 深夜、バケツに水を汲みながら、世間話のついでに、みたいな奈緒さんの言葉を思い出す。
「学食で会って話した時、ちょっと、あれ? って思ったんですよ。声の調子なんか、あの夜の時と違ってましたから」
 似たようなセリフを確か、カジ谷君も言っていたような気がする。
「こうしてる普段の真堂さんは――別人ですよね?」
 去り際に残した、意味深な言葉も気になっていた。

 翌日、夜勤明けのひと眠りのあと、奈緒さんにも言われたことで、あらためて考えてみる。
 僕の声って――
 最初にあの声が出たのは、カジ谷君と遭遇した時である。次に意識したのは無笑会の集会で、反射的に「ツッコミ」を入れたり、討論で発言したり、あとは鏡を見つけて驚いた時。純粋に録音した声は聴いたことがないが、高さ以外の要素、声の芯、響き、声量、それらは理想的であると思われた。
 今まで意識したことはなかったけれど確かに、偶然、思わず声が響いたことはある。そういうことなのかな。もしかすると、それを意識的にも再現できるかもしれない。話し声としてはともかく、あの声を歌に使えたら、と思いついた。なんだかいいアイデアに思えた。

 この日の夜、ボーカル教室の発声練習の時、さっそく試してみた。
 ――目を閉じて、あの夜カジ谷君に遭遇した場面のことを真剣に思い出しつつ、出してみる

 <<「あ~♪」>> 
 
 あ、出たかもしれない!
「今の、良かったですよ、その調子」と、すかさず先生に褒められる。
 湯気で曇っていた鏡が、すっ、と晴れたような感覚であった。
 でも、この日はこの一回きりだった。常にカジ谷君のあの姿が襲ってくるのを思い浮かべながら歌うのはかなりの苦行で ――そもそも無理であった。
 それほど、普段話している時や今までの歌い方の時とは、体の使う場所が違うのである。特に首回りや鼻の奥の部分。そこに筋肉があったのか、と思う部位が筋肉痛のような感じになる。僕の中にもまだ未知の能力が眠っているのだろうか。まあ、それは言い過ぎとしても、希望は見えたかもしれない。それがわかっただけでも、大きな進化だ。
 意識してあの声を出すことは出来た。けれど道は遠そうである。これが「きっかけ」になってくれれば嬉しいのだけれど。
 そして――
 相変わらずあの夢を見る。絶対的な恐怖は変わらず襲ってくる。けれども今は、決して近付いてはいけないはずのあの袋小路が、その向こう側が、気になり始めているのである。
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