第1話

文字数 4,923文字

■木村なつみ
 「君以外、何もいらない」と彼がそうやって口にするたびに、私はつい困ってしまう。私と彼は会ったことすら無いため、私は彼にとっての君にはなりえない。私は、いらない存在なのだろうか。
 スマホの液晶画面の中で男性シンガーソングライター、小池進が白めいたスポットライトに照らされながら彼の代表曲「Lover〜最愛の君へ」のサビを歌っている。小池は実力派男性歌手として一昨年から若年リスナー層を中心にじわじわ人気を集め、昨年末、歌手にとっては出演することそれ自体がステータスとなる、年末恒例の国民的音楽番組への出演を果たした。その番組で彼が歌う姿は、放送局により大手動画サイトにアップロードされ、現在1000万再生を突破している。

「君以外、何もいらない――高価な時計や車だっていらない。君がいれば、ただそれだけで――いいんだ」
 
 小池の目頭に滞留していた涙は溢れ、頰に頼りない線を描きながら顎に達した。
 この曲を聴くといつも疑問に思うのだが、時計・自動車メーカーで働く人は、どのような気持ちでこの曲を聞いているのだろうか。日本経済は少なからずこれらのメーカーが懸命に利潤を生み出すことによって成立しているし、テレビや動画サイトにおける広告主として、間接的ではあるかもしれないが彼に幾ばくかの恩恵をもたらせているはずだ。どうしてこのような歌詞を恥ずかしげもなく、塩水を流しながら歌えるのであろうか。
曲が終わる頃には小池の短髪は汗でしなびてしまい、ぺたんこになっていた。
 私は動画アプリを落として、カメラアプリを起動させた。画面内側のインカメラを通して自分の顔を見るためだ。カメラアプリの起動は速く、画面上に私の顔が瞬時に映し出された。細かく割れた前髪を手櫛で整えると、私は随分安心した。
私は自分の顔があまり好きではないが、暇があればこうやって自分の顔をつい確認してしまう。自己弁護ではないけれど、誰かが鏡を覗き込んでいるのを見ても、私は決してその人をナルシストだとは思わない。むしろ鏡は、自らの容姿に自信がない人のために存在しているのだと思う。
 自分の顔を確認した私は、スマホの電源を落とし、階段を降りて父のいるリビングに向かった。
 
「インフルエンサーになってみませんか」
 つい半年前のことだった。インスタのDMを通して、とある芸能事務所から連絡がきた。私は当初インフルエンサーの意味が分からず反応に窮した。とりあえず話だけでも、と空いている日時を聞かれ、下北沢のトロワ・シャンブルという喫茶店を指定された。知らない人と会うのに不安や恐れがなかったわけではないが、それよりも芸能界と繋がった気がしてとても嬉しかったのを今でも覚えている。
トロワ・シャンブルで苦いカフェラテをご馳走になりながら、担当者の小林さんから説明を受けた。小林さんは淡い茶色の長髪を頭の後ろで結んでいて、服は白のブラウスにネイビーのジャケットを羽織っていた。ジャケットは素材にレーヨンが含まれているようで、その光沢は彼女の上品さをさらに際立たせていた。彼女の外見から、私はどことなく安心感と憧れを抱いた。
「インフルエンサーってね、社会に影響力を持つ人を指す言葉なの。木村さんのインスタを見てくれてる人、たくさんいるじゃない?そういう意味では木村さんって、もうインフルエンサーなの。気づいてないかもしれないけど、たとえば、木村さんのインスタみて同じ服買いましたってこの前コメント欄にあったじゃない?木村さんの投稿で、ひとりの見た目変えちゃったんだよ?今日言いたいのは、木村さんが持ってるこの力で、企業さんの新作のアイテムやコスメをSNSで紹介して、その代わりに企業さんからお金をもらいませんか、っていう話。木村さんが本当にいいと思うものを宣伝して、それがお金になっちゃうの。すごいと思わない?」
 衝撃だった。インスタでお金を稼ぐ人の存在は知っていたが、まさか自分程度のインスタグラマーにもこういった話が来るとは思わなかった。でも、小林さんの説明を聞いて、ちょっと引っかかったところがある。本当に自分がいいと思う商品を紹介できるかは、疑わしい。企業が宣伝したい商品と、私がいいと思うものが必ずしも一致するとは限らないからだ。しかし、それは特段大きな問題ではないように思えた。清涼飲料水のCMで、俳優や女優がたった一口飲んで「おいしい」と言うのと一緒だ。本当においしいと思っているかどうかなど、誰にも分からないし、気にも留めない。それよりもむしろ、私のSNSについて小林さんが評価してくれたことが素直に嬉しかった。この時の私はインスタグラムに燃えていた。インスタにあげるためにコスメ用品を新調したり、ちょっと攻めた古着を購入したりした。「いいね!」がもらえれば誇らしい気持ちがしたし、コメント欄で「かわいい」と書かれているのを見れば、天にも昇る気持ちになった。学校の先生はずっと秘密にしていたけれど、先生が教えてくれるあらゆる科目よりも、女の子にとっては、かわいくあることが何よりも重要だ。
 私は小林さんから色んな話を聞いた。特に、インフルエンサーとして活躍する人たちの話は、私を強く惹きつけた。帰り際、小林さんは私にクリアファイルに入った書類と名刺を差し出した。
「一度親御さんと相談した上で、あらためて木村さんの気持ちを教えてもらっていい?質問とかあれば、なんでも答えるから。私と一緒に、新しい景色を見ようよ!」
 小林さんの口から発せられる「新しい景色」という言葉には、私を、どこか、私の知らない場所に連れてってくれるような響きがあった。
 父に事情を説明すると、事務所に所属することについて承諾はすんなり取れた。人に迷惑をかけない限り、私の意思を極力尊重してくれるスタンス昔から変わらない。最近白髪が混じり出した父は、昨今のSNS事情に疎かった。インスタグラムの名称が覚えられず、ずっとインスタントなんとかと呼んでいたぐらいで、インフルエンサーのことだって、ずっとインフルエンザと間違えていた。私が説明した内容もいまいち理解できていなかったのではないかと今になって思うのだけれど、実際にスマホの画面でインスタに投稿した画像を見せると、父はかけている眼鏡を外して目を細めながらスマホの小さな画面を覗き込んだ。そして、感嘆するように「はー」と声を漏らした。父は私のスマートフォンを握りしめ、画面を見つめたまま「はー」と何度もスクロールを繰り返した。私が投稿したすべての画像を見終えると「やっぱり、なつみはすごいなあ」とそれだけ言って後は母に引き継いだ。
 事務所に所属してからは、小林さんが担当についてくれた。「こういう商品があるんだけど、どう?」と小林さんから連絡があり、商品を送ってもらった上で、インスタに投稿しても私の価値を下げないと思われるもののみ紹介した。投稿する写真は、パッケージが映えるよう工夫を凝らして撮影した。宣伝を依頼される商品の多くはアパレルやコスメ用品が主だった。企業からの要望の多くは、宣伝を依頼されていることは伏せて、実際に私が気に入って使用しているかのように紹介してほしい、というものであった。そのため粗悪な商品を投稿すると私のセンスが疑われることになるので、宣伝する商品は厳選した。
 いつものようにインスタを更新した時のことだった。コメントの通知が来ていたのでタップして確認すると、私の心に針が刺さった。

「『いいね』もらって承認欲求満たして気持ちいいの?(笑)微妙な商品紹介して金稼いでんじゃねえよ。それステマっていうんだよブス」

 こういうコメントが来ることは日常茶飯事だった。多くの人の目に私の投稿が触れるようになるにつれ、この類のコメントは次第に増加していた。反応してはいけないことは分かっていた。小林さんからも、誹謗中傷系のコメントは決して返信してはいけないと釘を刺されていた。こういう類の人間は、議論をしたいなどという高尚な考えは持ち合わせておらず、何かしら反応をもらえること自体を目的とするケースが多く、返信すると相手の思うつぼであると。
わかっていた。わかっていたけれど、このときは自然と手が動いてしまった。

「『いいね!』もらって嬉しくなって何が悪いの?そんなあなたは誰からも「いいね!」もらえないんだろうね(笑)商品紹介して金を稼ぐってあなたはいうけど、これインフルエンサーっていう、れっきとした職業だから(笑)あと、私は実際に着たり、使用したりして、本当に良いと私が感じたものしかみんなに紹介してないから。あと私はブスかもしれないけど、少しでもかわいくなるために努力してるし、そんなこと言うならあなたの顔見せてよ。どうせあなたもブスなんでしょ?」

 小林さんが教えてくれた通り、相手は反応がもらえればそれで十分らしく、その後特段返信はなかった。投稿者本人の私がコメントしたことによって、界隈でちょっとした話題になった。この一件のあと、なぜか多少フォロワー数は増えたものの、小林さんからは電話で厳しく注意を受けた。
 小林さんが言っていた「新しい景色」とはこんなものなのだろうか。ちょっとだけ嘘をついて、他人の購買意欲を掻き立てて。この作業に、私はかつてほど熱意を持てなくなっていった。私の心の拠り所だった「いいね!」は「承認欲求」という言葉に言い換えられ、コメント欄の「かわいい」はだんだんとその力をすり減らし、私にとって大きな意味を持たなくなってしまった。「かわいい」と言われることに慣れるのと同時に、その言葉が純粋な本音にどうしても思えなくなってしまった。インフルエンサーにさえならなければ、こんなに思い悩むこともなかったのだろうか。葛藤というにはあまりにも複雑な気持ちが、私の心を満たしていた。

 ■木村哲雄
 急にインフルエンザになりたいと娘に言われて、驚かない親がいるだろうか。
 なつみから、芸能事務所に所属したいと相談されたのは今年の1月のことだった。正直、なつみが言っていることは難しくてよくわからなかった。昔から流行に疎い私は横文字にめっぽう弱いのだが、なつみが難しい横文字をごく自然に使うのを見て、とんびが鷹を産むとはまさにこのことだな、と無駄に諺を噛みしめたりした。
 なつみはインスタントなんとかの画面を携帯電話で見せてくれた。携帯電話にはセンスの良い画像がぎっしりと表示されていて、思わず見入ってしまった。画像のほとんどはなつみが自分で撮ったものらしい。友達に撮ってもらったものも中にはあるらしいが、最終的に投稿する画像はなつみ自身が決めたとのこと。しかも、それが多くの人から評価されていることを聞いて、何にもしていない私がなぜか誇らしく感じた。なつみは、やっぱりすごい。
 なつみは私に説明している間中「新しい景色」を見たいとしきりに言った。あまり楽しそうになつみが話すので、私もなつみの言う「新しい景色」が見たくなった。怪しい企業かどうかとか、事務所に所属することが高校の校則で禁止されていないかなどは妻に確認してもらうことにして、私はなつみの思いを承諾した。
 しかし今、目の前にいるなつみから所属している事務所をやめたいと申し出されている。事務所に所属して、まだ半年も経っていない。なつみが説明するには、インスタントなんとかが急につまらなくなったらしい。あんなに楽しそうにやっていたのに?「新しい景色」はどうした?疑問は止まないが、なつみのことだからきっと私には言いたくない並々ならぬ理由があるのだろう。
 最愛の娘が困っているとき、親としてできることは何だろうか。私は、しがないとんびだ。できることは少ないかもしれない。でも、最大限父親としてできることはしてあげたい。私の人生には妻、そしてなつみ以外はいらないのだから。
 居間にあるテレビから、最近流行りの音楽が流れてきた。歌っている男の髪はぺたんこだが、悪くない曲だなと思った。

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