【2020卯月】物資不足

文字数 2,128文字

 院内に工場が出来た。
 ゴミ袋がどさりと置かれる。いよいよだ。ありえないけれど仕方がない。受け入れるしかないのだから。
 これで防護具を作成する。とりあえず90Lのゴミ袋の底と両脇に、まあるく穴を開け被ってみる。袖をテープで貼り付け作成する。動きづらい。通気性が悪すぎる。すぐに、ぶわっとおびただしいほどの汗が噴き出る。「これ、何かの罰ですか」と同僚の声。ははは、と力なく笑ってみても、虚しさが残る。
「でも、被ったらガウンテクニックで脱げないよね」
 そう。ただ脱ぎ着出来ればいいわけではない。感染防止のためには清潔操作のもとで、脱着を行う必要がある。
 後ろを切り開いてみたり、細く切ってヒモを作ってみたり。さあどうやって作るか、と知恵を出し合う。同時にフェイスシールドの製作も行う。まさか看護師になって仕事で本気の工作をする日がくるとは。
 スタッフルームはもはや製作工場と化す。何日も試行錯誤ののち、なんとか使えるものが出来るが、さすがに発熱外来ではリスクが高すぎて使えない。この「偽物」は他部署や消毒作業時での使用となる。そしてその部署から、ガウンや医療用マスクやキャップの在庫が発熱外来へと回された。それでもマスクは足りず、余程飛沫の飛ぶ処置でない限りは、基本一日一枚の制限がかけられた。
 フェイスシールドは消毒して使用していたが、ガウンはそうはいかない。毎日毎日大量のガウン製作をあらゆる職種の人が協力して行う。積み上げられていくゴミ袋。サーサーと袋に切り込みが入るハサミの音。一見すると病院の風景には見えなかった。作っている部屋に「頑張ろう!ガウン工場」なんて貼り紙があり、こんなときでもユーモアを忘れない気持ちに救われる。

 一人当たりにかかる時間や業務が増える一方で受診患者数は減り、残業申請して大丈夫?こんな中堅病院なんてつぶれてしまうんじゃない?と囁きあう声が聞こえはじめていた。
 早くも第二波の北海道。陽性患者受け入れ病床を増やす必要があるとの通達がある。

 再開してすぐに再休校となった学校。小中学生が多く行き交う通勤経路ということもあり、またもや人の消えた道を歩くことになる。出勤制限されたと娘はステイホームとなり、世の中もオンラインが進んでいるのか、職場近くまで誰ともすれ違うことのない日もあった。
 人々がこもり静まりかえる中、自分だけが歩いていると、ふと不思議な感覚に包まれる。たったひとり、忘れ去られたひとりのような。人のいない惑星にでも来てしまったのか。それとも人類はすでに滅びてしまったのか。あるいは、世の流れも(かえり)みず、毎日ただ病院と自宅を往復するためだけに造られたロボットにでもなってしまったのか、と。
 両脇に木々が並ぶ小路。先月を思い出し、季節を感じる心を忘れないようにしよう、と顔を上げ風を意識しながら歩く。まだ華奢な枝先に新芽が、もったいないほどにひっそりと、さわやかな朝の空気の中で揺れていた。
 鳥だけが、生き物として声をあげていた。その声に、耳が必要以上に反応し居場所を探し求めてしまう、ひとりぼっちの朝。
 小路をぬけ大通りへ出ると、まばらながら人がいて、車もありえないほど少ないけれど走ってはいて、急速に現実感が戻ってくる。果てない宇宙から帰還したような錯覚。人の気配で自らが人であることを認識する瞬間。
 職場が近くになるにつれ見知った顔が歩いている。ステイホームもオンラインもできない仲間が。
 正面玄関にタクシーが停まり、降車している患者さんらしき人。私にとっての見慣れた日常風景がそこにあって安堵する。ああ地球だったなんて当たり前のことを思うほど。
 静かすぎる朝に、私の脳は日常から度々離脱した。それでも、空はかわらずそこにあり、太陽は新芽を育て季節感をはこぶ。自然は人の世に翻弄されずに季節を回していた。

 二十日から受け入れが開始された軽症患者用ホテル。看護師バイト募集の知らせが看護師間のLINEなどでも回っている。明日からでも、との内容。受け入れ開始後に募集していて大丈夫なのだろうか。
 市内近隣の医療機関で大きなクラスターが発生し、あまりに身近過ぎてニュース映像が逆に遠くに感じるという不可解な感覚に陥る。心と体が離脱しているような錯覚。
 離脱ばかりしていて、私はひとりの「私」としてきちんと働いているだろうか。私は本当に私だろうか。誰かに確かめたい衝動に駆られては、すんでのところで思いとどまり、思考を停止させたりしていた。

 美容室に何か月も行っていないので自分でザクザクと衝動的に髪を切った。カラーが落ちてきたり髪が伸びてきたりと、やつれ感が出ている人が増えてきている。自分もその一人だと鏡の中の自分を見て気付く。もともとカットは得意だったけれど、今回は他人がどう思うかなんて考えることもせず、あとは医療用キャップをかぶるからまあいいか、と思っているなげやりな自分がいる。前髪を切りながら、フェイスシールドが当たる部分の(ひたい)のかぶれに軟膏をつけ忘れて悪化しているのが目に入る。それだけではなく全体的に肌荒れがひどい。これは不眠のせいもあるかもしれないけれど。ストレスが目に見える形になって出てきていた。



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