第1話
文字数 2,000文字
点滴も外され、酸素吸入だけが残された父親の目が、薄く開いた。
「ほら、お別れを言って」
もう最期だからと、俺を部屋から引っ張り出した母親が涙を拭 っている。
枯れ枝のような父親の腕がほんの少し上がって、指先が痙攣するように動いた。
顔を寄せると、くぐもった声が聞こえてくる。
「オマエに、やる」
「なにを?」
父親はさらに腕を上げると、どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの勢いで、俺の胸の辺りをドン!と突いた。
イスから転げ落ちた俺は後頭部を強 か床に打ちつけて、強烈な痛みに悶絶する。
「大丈夫?!」
渦に飲み込まれていくように意識は薄れて、母親の声が遠くなっていった。
「おいっ!聞いてんのかっ!!」
突然の怒鳴り声にはっとして見上げると、中学の指導専任が俺を見下ろしていた。
…これは、夢?
頭を打って昏倒してるのか、俺は。
「なにボケっとしてんだっ!近隣の人に迷惑かけてっ!」
ああ、あれか。
苦情の電話が学校にかかってきた、あの朝の夢を見てるのか。
相変わらず、見下すような顔してんな。
思い出すたびに、消化不良の黒いカスが胸に溜まっていくみたいだ。
「体操袋振り回して、植木鉢5,6個を壊して逃げたんだってな!」
いやそれ、俺じゃないし。
「お前せいで、中学全体が悪く言われるんだぞっ」
だから、俺じゃないっての。
このあとの朝礼で、公開説教されるんだよな。
登下校の態度が悪い生徒たちの、見せしめのために。
全学年の目にさらされた、あの地獄が俺を部屋にこもらせたんだ。
でも待てよ、どうせ夢なんだろ?
「…うるせぇよ」
「あぁっ?」
「俺じゃねえよ!」
「お前っ、教師に向かって、」
「ちゃんと調べてから呼び出せよっ!電話の相手に確認した?やらかしたヤツが、こんなひょろいチビだったかって」
専任がうっと息を飲み込んだ。
俺が荷物を振り回して登校するような陽キャじゃないって、今さら思い出したらしい。
「一方的に切られたから、聞けるわけないだろっ」
「そんな電話だけで、いきなり怒鳴ってんの?俺の名前が入った体操袋が残ってるって、言われたから?」
目をそらさない俺を前にして、専任は少し気味悪そうだ。
だろうね。
こんなにしゃべったことないし、俺。
いくら夢でも、ドキドキするくらいだ。
「電話かけてきた人って、公園前のじーさんだろ。そこの園芸棚にある植木鉢にあたって、庭に落っこちたんだから、俺の体操袋」
「みろ、お前の持ち物なんじゃないかっ!」
「ぶん捕られて放り投げられたんだよ、ヤツらに。でも先生は、犯人は俺だっていうんだよね。じゃあ、謝りに行かなきゃね!」
そして、俺は上履きのまま、職員室から素早く逃走した。
フェンスの穴を通り抜けて近道して、専任に捕まらずにじーさんちにたどり着いた俺は、当然「キミじゃない」と言われて、ほくそ笑んだ。
「でも、俺の体操袋が植木鉢を壊したのに、アイツらと一緒に逃げちゃって、ゴメンナサイ」
「キミだって、言ってみれば被害者だろう。私がちゃんと見ていれば、わかったはずだな。怒鳴って悪かった」
でも、学校を代表して謝りますと頭を下げたら、感激したじーさんが、また電話をかけ始めた。
「やってもいない子を謝りに来させるなんて、どういう了見だ。教育委員会に訴えるぞ!」
こんなに話のわかるヒトだとは思わなかった。
どうせ聞いてもらえないって決めつけてた俺は、バカみたいだ。
もう一度じーさんに謝って、俺はそのまま家に帰った。
当然、目を三角にした母親からも怒声を浴びた。
「勉強がっ!」
「あんなとこ、落ち着いて勉強なんかできねぇよ」
「将来がっ!」
「あそこにいたら死ぬ。死んだら将来もくそもねえじゃん」
「世間体がっ!」
「ナニそれ、おいしいの?」
母親から連絡を受けて帰宅した父親は、意外にも、俺を全面的に支持してくれた。
「命を削ってまで行く場所じゃないよ、学校なんて」
その言葉が、どれだけ心強かったか。
おかげで諦めずに母親とも話ができて、俺はフリースクールへの転籍を決めた。
「大丈夫?」
床に転がった俺の腕を、誰かが強く引っ張った。
「親父 ってばひでぇ…?」
「なあに?」
固まった俺の前で、きょとんとしているこの女性は…。
「ごめんなさいね、ヨウコさん。粗忽 な息子で」
その名前を聞いたとたん、俺の「これまで」が、頭の中に超早送りで再生された。
高校は単位制を選んで、大学は…。
あれ、引きこもってたほうが夢?
立ち上がって振り返ると、細く頼りない息をしている親父 が、ウィンクを寄越した。
妻のヨウコが隣に立って、俺を心配そうに見上げている。
その大きくなった腹が目に入ると、何が本当かなんて、どうでもよくなった。
親父 から生き直すチャンスをもらって、絶対子どもの味方でいるというバトンを受け取ったんだ。
それだけでいい。
口元を緩めた親父 のまぶたが、幕が下りるように閉じられていった。
「ほら、お別れを言って」
もう最期だからと、俺を部屋から引っ張り出した母親が涙を
枯れ枝のような父親の腕がほんの少し上がって、指先が痙攣するように動いた。
顔を寄せると、くぐもった声が聞こえてくる。
「オマエに、やる」
「なにを?」
父親はさらに腕を上げると、どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの勢いで、俺の胸の辺りをドン!と突いた。
イスから転げ落ちた俺は後頭部を
「大丈夫?!」
渦に飲み込まれていくように意識は薄れて、母親の声が遠くなっていった。
「おいっ!聞いてんのかっ!!」
突然の怒鳴り声にはっとして見上げると、中学の指導専任が俺を見下ろしていた。
…これは、夢?
頭を打って昏倒してるのか、俺は。
「なにボケっとしてんだっ!近隣の人に迷惑かけてっ!」
ああ、あれか。
苦情の電話が学校にかかってきた、あの朝の夢を見てるのか。
相変わらず、見下すような顔してんな。
思い出すたびに、消化不良の黒いカスが胸に溜まっていくみたいだ。
「体操袋振り回して、植木鉢5,6個を壊して逃げたんだってな!」
いやそれ、俺じゃないし。
「お前せいで、中学全体が悪く言われるんだぞっ」
だから、俺じゃないっての。
このあとの朝礼で、公開説教されるんだよな。
登下校の態度が悪い生徒たちの、見せしめのために。
全学年の目にさらされた、あの地獄が俺を部屋にこもらせたんだ。
でも待てよ、どうせ夢なんだろ?
「…うるせぇよ」
「あぁっ?」
「俺じゃねえよ!」
「お前っ、教師に向かって、」
「ちゃんと調べてから呼び出せよっ!電話の相手に確認した?やらかしたヤツが、こんなひょろいチビだったかって」
専任がうっと息を飲み込んだ。
俺が荷物を振り回して登校するような陽キャじゃないって、今さら思い出したらしい。
「一方的に切られたから、聞けるわけないだろっ」
「そんな電話だけで、いきなり怒鳴ってんの?俺の名前が入った体操袋が残ってるって、言われたから?」
目をそらさない俺を前にして、専任は少し気味悪そうだ。
だろうね。
こんなにしゃべったことないし、俺。
いくら夢でも、ドキドキするくらいだ。
「電話かけてきた人って、公園前のじーさんだろ。そこの園芸棚にある植木鉢にあたって、庭に落っこちたんだから、俺の体操袋」
「みろ、お前の持ち物なんじゃないかっ!」
「ぶん捕られて放り投げられたんだよ、ヤツらに。でも先生は、犯人は俺だっていうんだよね。じゃあ、謝りに行かなきゃね!」
そして、俺は上履きのまま、職員室から素早く逃走した。
フェンスの穴を通り抜けて近道して、専任に捕まらずにじーさんちにたどり着いた俺は、当然「キミじゃない」と言われて、ほくそ笑んだ。
「でも、俺の体操袋が植木鉢を壊したのに、アイツらと一緒に逃げちゃって、ゴメンナサイ」
「キミだって、言ってみれば被害者だろう。私がちゃんと見ていれば、わかったはずだな。怒鳴って悪かった」
でも、学校を代表して謝りますと頭を下げたら、感激したじーさんが、また電話をかけ始めた。
「やってもいない子を謝りに来させるなんて、どういう了見だ。教育委員会に訴えるぞ!」
こんなに話のわかるヒトだとは思わなかった。
どうせ聞いてもらえないって決めつけてた俺は、バカみたいだ。
もう一度じーさんに謝って、俺はそのまま家に帰った。
当然、目を三角にした母親からも怒声を浴びた。
「勉強がっ!」
「あんなとこ、落ち着いて勉強なんかできねぇよ」
「将来がっ!」
「あそこにいたら死ぬ。死んだら将来もくそもねえじゃん」
「世間体がっ!」
「ナニそれ、おいしいの?」
母親から連絡を受けて帰宅した父親は、意外にも、俺を全面的に支持してくれた。
「命を削ってまで行く場所じゃないよ、学校なんて」
その言葉が、どれだけ心強かったか。
おかげで諦めずに母親とも話ができて、俺はフリースクールへの転籍を決めた。
「大丈夫?」
床に転がった俺の腕を、誰かが強く引っ張った。
「
「なあに?」
固まった俺の前で、きょとんとしているこの女性は…。
「ごめんなさいね、ヨウコさん。
その名前を聞いたとたん、俺の「これまで」が、頭の中に超早送りで再生された。
高校は単位制を選んで、大学は…。
あれ、引きこもってたほうが夢?
立ち上がって振り返ると、細く頼りない息をしている
妻のヨウコが隣に立って、俺を心配そうに見上げている。
その大きくなった腹が目に入ると、何が本当かなんて、どうでもよくなった。
それだけでいい。
口元を緩めた