第一話 物語の価値はどこにあるのか? #2

文字数 3,662文字


 書店の子供として生まれたからだろう。
 幼い頃から本に囲まれて生きてきた。両親があくせく働くフロアは、わたしにとっては万華鏡のように煌びやかな景色に見えた。よたよたと狭い店内を歩き、瞳を輝かせ、飾られている本の表紙の色彩に圧倒された。本当に小さな頃には、本が並んでいるというよりも、そこには絵が並んでいるのだと理解していたように思う。様々なタッチで描かれた、想像力をくすぐる小さな絵を並べた魔法のお店だ。
 探検するべき箇所で満ちたそこは、けれど品物に触れようとすれば、瞬く間に父から怒られて、二階に上がっていなさいと注意されてしまう。父の書棚で綺麗に整列した本を眺めれば、わかる。本の一ページ一ページ、美しく仕上げられた装幀に、ほんの僅かでも第三者の手で傷がついてしまうのを嫌うこの性格は、父から譲り受けたものなのだろう。
 放課後の静寂と、夕陽に包まれたこの場所は、わたしの家とは正反対の匂いがした。
 読んでいた本を、膝の上で閉ざす。お小遣いで買ったライトノベルだった。司書の鈴本先生はライトノベルに寛容で、この図書室にも多くのレーベルが置かれているけれど、わたしはこんな神経質な性格をしているから、あまり本を借りるということをしない。もちろん、お小遣いには限りがあるから、どうしても読みたい作品は、図書室や図書館に頼らざるを得ない。でも、他人の手垢がついて、勝手に折り曲げられたページのある本というのは、なんだか、わたしが進むべき道が既に開拓されてしまっているように感じて、どうにも気分が沸かなくなってしまう。
 今日の図書室は静かだった。先生は司書室に籠もって仕事をしているので、もしかしたらこの古めかしい図書室に取り残されているのは、わたしだけなのかもしれなかった。
 一人で物語の世界に没頭するのは、楽でいい。そのはずだったのに、わたしの心のページに走り書きされてしまったのは、あの日の言葉の数々だった。子分。いいなり。もっと自分をもつ。地味子。アンタ、そんなこともできないわけ?
 物語の活字を拾い集めようとすればするほど、手にした文字はいつの間にかそれらに変化していく。もちろん、そんなこと、今になって気にしているわけじゃない。わたしはずっとそうだった。子供の頃から、ずっとそうだったのだ。気が弱くて、大人しくて、意見をはっきり言えなくて、地味で、なにもできなくて──。
 きっと、こんな退屈な人間になってしまったのは、本に囲まれていたからだ。わたしは物語の世界に閉じこもって、現実を生きてこなかった。だから友達付き合いが下手で、みんなから笑われてしまう。綱島さんたちの世界と、嚙み合うことができない。小学四年生の頃、わたしが読んでいた本を取り上げ、かけていたカバーを毟り取り、誇らしげに笑った男の子たちの耳障りな声が今でも甦る。普通の子供たちに比べると、ライトノベルを読み始めたのは早い方だったと思う。だからだろう。その子にとっては、その少しばかり過激な衣装を着たヒロインの姿は、見慣れないものだったのかもしれない。「こいつ、女のクセにエッチな本読んでる!」クラスメイトたちが集まり、回し読みが始まった。ヒロインが水浴びをしている挿絵に、男の子たちも女の子たちも大興奮だった。わたしはその嵐の中心で、死にたいと切実に願っていた。唇を嚙んで、爪が掌に食い込むほど拳を握り締めて、その拷問のような時間が過ぎ去るのを、俯いてひたすらに耐えた。騒ぎに駆けつけた先生はわたしを叱った。
 だめでしょう。学校にこんな本を持ってきたら。
 もし、書店の娘として生まれなかったら。きっと本なんて読まなかった。わたしは明るくて、人付き合いがうまくて、学校の噂話から得た情報でみんなを楽しませることができる、そんな子になっていた。綱島さんたちと笑い合っていても、ぜんぜん不自然ではないような、そんな中学二年生の女の子に、きっとなれたはずだった。
 つんと鼻の奥に込み上げてくる熱を堪えていると、静かな雨音に混じって、なにかが聞こえてきた。それはペンが落ちて転がっていくような、そんな些細な音だった。けれど、わたしが驚いたのはそれに続く物音だった。慌てて椅子を引き摺る音と共に、人が勢いよく駆け出すかのような靴音が床を耳障りに鳴らした。誰かがいるのだ。テーブルのいくつかは、書架が邪魔になっていてこの位置からは見えない。慌ててペンを拾った音なのだ、と解釈したけれど、いったいなにをそんなに慌てていたのだろう。なんとなく、わたしは静かに立ち上がり、そちらの方に歩みを向けた。
 さらさらと、不思議な音が響いている。
 奥のテーブル席に、一人の女の子が座っていた。わたしはその後ろ姿を見つける。彼女は、まるで卓上にしがみつくみたいに前屈みになって、開いたノートに顔を寄せ、握り締めたペンを素早く動かしていた。さらさら、さらさらと。
 彼女が身じろぎをすると、紺と白のシュシュで纏められた髪の毛先が、尾のように揺れる。一瞬、動きが止まり、まるで動物が獲物を狙うかのような、緊迫した時間が訪れた。
 尾は、すぐに動く。それと共に、ペンも動く。
 縦横無尽に、草原を駆けるようにして。
 わたしは彼女の様子を、息をするのも忘れるような気持ちでぼうっと眺めていた。最初は理解が追いつかなかった。いったいなにを書いているのだろう。そんなにも急いで、どんな文字をそこに刻んでいるのだろう。わたしは気配を殺し、彼女の肩越しにそれを覗き込んだ。雨の音がする。彼女の尾が動く。古めかしい書庫の黴臭さの中で、ペン先がさらさらと草原を駆け抜けていく。わたしはそこに刻まれている文字を追った。読みやすく、そして力強い文字が、たくさんの語彙と共に並んでいた。そうしてわたしはやっとの思いで気づく。文字は縦書きだった。真っ白なノートに、縦書きで、びっちりと文字が詰め込まれていた。
 これは、小説だ。
 わたしは読める範囲の文字を、自然に眼で追っていた。すぐに、これは一人の少女の物語なのだと理解できた。少女は息を切らして校舎の廊下を走っていた。彼女は消えてしまった友達を見つけなくてはならない。でも、彼女にはその友人の名前がわからないのだ。不思議な力で、教室からも、自分の記憶からも消えてしまった、ただ一人の親友。ごく僅かな手がかりから、少女はその友人の存在を追い求めなくてはならなくて──。
 不意に、彼女の手が止まる。シュシュで纏められた尾がゆらりと動いて、机に齧りついていた姿勢から、背筋が伸びた。
「勝手に読まないで」
 じろりと横目で睨まれて、わたしは怯えた声を漏らす。
「ご、ごめんなさい」慌てて言った。「図書委員なの。人がいると思わなくて、物音がしたから、なにかなって」
「物音? そんなのした?」
 こちらを睨んだ彼女の横顔は、頰を隠す髪から覗く顎先が少しシャープで、猛禽類のような俊敏さと鋭さを感じさせた。
「えっと、ペンが落ちたような音がして、椅子が」
「ああ、そういや、ペンを落としちゃって、拾ったんだったかな」
「椅子の凄い音がしたから……」
「ああ、そうか、それね」
 彼女は気恥ずかしそうに笑った。その笑顔を見て、わたしは彼女の名前を知っていることに気がつく。真中、葉子さん。同じクラスで、けれど、一度も言葉を交わしたことのない女の子だった。
「とにかく、すぐにでも続きを書きたかったから、慌てて拾って、それで椅子がひっくり返っちゃったんだ。書架の下とかに入り込んだりしたら、最悪でしょ」真中さんは微苦笑を浮かべて続ける。「一刻も早く吐きださないと、言葉が逃げていっちゃうから」
 言葉が逃げる、という表現は、わたしには新鮮なものだった。
「あの……、それじゃ、わたし、邪魔してるよね。ごめんなさい」
 それに気づいて、慌てて机から離れた。
「ああ、大丈夫だよ、べつにさ」けれど、真中さんは椅子の背もたれに肘をかけたまま、わたしに眼を向け続けていた。「ちょうど、空っぽになっちゃったところだから」
「空っぽ?」
「続きが思いつかない、というか」彼女は困ったように眉を寄せ、うーんと唸りながら腕を組んだ。「いや、思いつかないわけじゃないんだけれど、どうしたらいいかわからないから、いったん頭をクリアにして考えようかなっていう感じで。いわゆる休憩というか」
「そうなんだ」
 彼女の言いたいことを理解できたわけではないけれど、そう言われて、わたしはどこか胸が弾んでいるのを感じていた。この気持ちはなんだろう、と不思議になる。そう。引き止めてもらえたのだ。すると、とたんに今度は別の感情が湧き上がってくる。それはどうしようもなくわたしの中で膨れて、そしてとうとう抑えることができず、口にしてしまっていた。
 雨音の静けさと、古びた本の黴臭さの中、わたしは、こう叫んでいた。
「あの、真中さんの、その小説──、わたしにも読ませて」
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登場人物紹介

千谷一也(ちたにいちや)……売れない高校生作家。文芸部に所属


小余綾詩凪(こゆるぎしいな)……人気作家。一也の高校へ転入


成瀬秋乃(なるせあきの)……小説を書いている高校一年生

真中葉子(まなかようこ)……秋乃の中学時代の同級生

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