第14章 50万円と無限の豊かさ

文字数 3,602文字

上高地バスセンターからバスが出発する。ノボリを持ったアズサが礼をしている。

ノボリを持ったアズサが河童橋に向かって歩いていると、穂高岳が見える眺めの良いベンチにエルデシュが座っている。アズサ、立ち止まって、少し遠くからエルデシュを見る。エルデシュが気づく。

「なに見てるの?」

アズサがほほえむ。

「いやー、証明考えているのかなーと思って」

エルデシュが苦笑して自分の横をポンポンと叩く。アズサが隣に座り、二人並んで穂高岳を眺める。

「講義終わったの?」

「終わった。みんな早く返したよ。アズサの言う通り、山は日が暮れると危ないからね」

アズサがエルデシュを見る。

「50万円も集まったんだって?」

エルデシュは穂高岳を眺めながら、興味なさそうにうなづく。アズサが言う。

「ちょっととっとけばいいのに。主任が心配してたよ」

エルデシュはメガネをかけ直して、アズサを凝視する。

「アズサ、お金なんかにとらわれちゃダメだ。君はまだ若いんだし。ぼくらはもう無限に豊かなんだから」

アズサは不思議そうにエルデシュを見る。

「無限に豊かなの?」

エルデシュは強くうなづく。

「そうさ。アニューカがいて、仲間がいて、友だちがいて、数学がある。もう無限に豊かじゃないか。アズサに数学はないけど、そのかわりお父さんもお母さんも元気で、未来がある。数学があれば一番いいけど、、、」

アズサが不思議そうにエルデシュを見る。エルデシュがメガネをかけ直す。

「だろ?無限に豊かだろ?お金は生活に必要だけど、それにとらわれていると、その豊かさが感じとれなくなるよ」

アズサが、やっぱり不思議そうにエルデシュを見る。エルデシュが続ける。

「お金で買えるものに、本当に豊かなものなんてないんだから」

エルデシュが穂高岳に目を移す。

「たとえばさ、第二次世界大戦の間、ボクは米国にいたんだけど、アニューカや父や親戚や友だちはハンガリーにいてね、みんなアウシュビッツに送られたんだ」

アズサが驚く。

「えー!アウシュビッツー?死の強制収容所じゃなーい!大変じゃなーい!」

エルデシュは穂高岳を見ながらうなづく。

「大変だったよ。みんなが大変だった。結局、父と2人のオバさんと3人のオジさんと子供の頃の友だちが何人もアウシュビッツで死んじゃった、、、」

アズサが口に手をあてる。エルデシュがアズサを見る。

「いとこのマグダが生き残ってね、アウシュビッツから先に帰っていたアニューカのところに帰ってきたそうだよ。帰ってきても、マグダは無表情で何も言わないでね、、、」

アズサが口に手をあてる。エルデシュがアズサを見ている。

「アニューカはマグダをお風呂に入れて、食事をさせて、髪をとかしたんだって。そしたら、マグダはやっと笑ったんだって」

アズサが口に手をあてながらうなづく。エルデシュが穂高岳に目を移す。

「マグダはやっと人間に戻ったんだ。マグダはひどい経験をしたけど、そのとき無限に豊かになったんだ。そんなのお金じゃ買えないだろ?」

アズサが口に手をあてながらうなづく。エルデシュが続ける。

「だからさ、集まった金は全部村に寄付するんだ。だけどさ、、、」

エルデシュがアズサを見る。アズサが口から手を離して「なに?」という顔をする。

「村営ホテルのみんなにおいしいお寿司を食べさせてあげたいんだけど、そのくらい使ってもいいよね?」

アズサ、笑顔で何回もうなづく。



村営ホテルの玄関の外に主任が立ってキョロキョロしている。

「あ、村長!おつかれさまです」

あちらから恰幅のいいおじさんが歩いてきた。

「おー、主任、はーるかぶりだな、がんばってんなー」

主任が恐縮している。

「は。おかげさまで」

村長、主任の前に立って肩を叩く。

「主任、ようやった。ようやった。村のみんなの善意をな、よくぞ広めてくれた。しかも45万円も寄付につなげるなんてなぁ」

村長、主任の肩を叩き続けている。主任、ずっと恐縮している。

「ほんとだぞぉ。お前のオヤジはあんまし取り柄もなかったけんどもな、お前にゃ見所あると昔っから思ってたんだが」

主任がやっぱり恐縮して首を振っている。

「で、どうだ?博士は?ごきげんか?」



村営ホテルの従業員食堂で、寿司職人が二人、次々と寿司を握っている。そこへ村長と主任が入ってくる。村長が主任を振り返って笑う。

「なんだよ。職人呼んだのかよ?大変なもんだな」

主任がうなづく。

「はい。その方がおいしいだろ?とかおっしゃって、松本から」

そのとき、「チンチンチーン」という音がした。村長と主任が音のする方を見ると、エルデシュがフォークで湯飲みを叩いている。

「みんな、聞いてくれ。一言だけ、聞いてくれ」

食堂内にはアズサもマイコもアニューカもジローもタカシも、村営ホテルの従業員もシゲルや松本記者や森村巡査も座っている。

「みんな、ここにいるみんな、一人残らず、ありがとう。みんなのお陰で、思いがけず楽しい滞在になったよ」

アズサが訳して、エルデシュは四方八方に湯飲みを掲げた。拍手が起こる。



村長がエルデシュに挨拶に行こうと進んでいくと、ふと松電社長が座っているのが見えた。

「あっ!滝沢!おまえ、なんにやってんだよ」

松電社長が、アズサとマイコとジローと一緒の席で、楽しそうに寿司を食べている。

「なにって、寿司ごちそうになってんだろ。うまいぞ。お前も食えよ」

村長が苦笑する。

「何でだよ。おまえ、関係ねーだろ」

松電社長が寿司をほおばっている。

「関係なくねーよ。おまえと違って、オレはいつも現場にいるからな。色々と関係あんだよ。あの寿司職人だって、オレが松電のダットサン運転して乗せてきたんだぞ。ボランティアだぞ」

主任が割って入る。

「村長、村長、とりあえず博士に挨拶しないと。ほら、こっちです、こっちです、アズサくん、アズサくん、通訳して、通訳して、、、」



村長がエルデシュのテーブルに行って挨拶をしている。それを2つこっちのテーブルからナオミとレモネードを飲んでいるタカシが一緒に見ている。ナオミが驚く。

「あらー。安曇村の村長まできちゃったよー」

タカシが笑う。

「45万円も寄付すれば、村だって黙ってるわけにいかないだろーなー」

ナオミが「ふーん」と言いながらエルデシュの方を見ていると、エルデシュと目が合った。ナオミがビックリすると、エルデシュがナオミを見据えたまま立ち上がって、ツカツカ寄ってきた。

「な、なに!?」

エルデシュがナオミの目の前に立つ。

「ボス、今度の金曜日休んでいいかぃ?」

タカシがナオミに訳して聞かせる。エルデシュが続ける。

「村長がさ、村の子供たちに説教してくれって言うんだ」

タカシがナオミに訳して聞かせると、ナオミが尋ねる。

「説教ってなに?」

タカシが笑う。

「講演とか講義のこと」

ナオミがエルデシュを見てニッコリして親指を力強くつきだした。エルデシュもビッグスマイルで親指を突き出して、自分のテーブルに戻っていった。



村長と松電社長と主任が一つのテーブルでお寿司をおいしそうに食べている。松電社長が何か言うと、村長が社長を小突いて二人で大笑いしている。横のテーブルからアズサ、マイコ、ジローがそれを見ている。アズサが不思議がる。

「あの二人は仲いいの?」

ジローが答える。

「仲いいよ。高校の同級生」

アズサが不思議がる。

「仲よさそうに見えなかったのに」

マイコが不思議がる。

「そう?松本の人って、あんな感じよ」

アズサが「あ!」と言ってマイコの方を向く。

「マイコちゃん、マイコちゃん、大変。たいへーん。タカシさん、乳の大きい女か数学のできる女しか興味ないんだって」

マイコがものすごーく悲しい顔になってアズサを見る。アズサが悲しそうな顔でマイコの胸を見る。

「困っちゃったよねー」

マイコがものすごーく悲しそうな顔のまま言う。

「あんた、どこ見て悲しい顔してんのよ」

アズサが「エヘへ」と笑う。マイコが悔しがる。

「なによー。この前、あたしの美しい脚をこれでもかって見せつけてやったのに、どーも反応がニブいと思ったら、あれはまさに無駄足だったのね。。。」

マイコが「どーだ」というような顔でアズサとジローを見る。アズサとジロー、なぜか笑うのをガマンしている。マイコが言う。

「笑いなさいよ。遠慮しないで。うまかったでしょ?」

アズサとジロー、小さく手をたたく。

「うまい」
「うまい」

アズサが心配そうな顔で言う。

「しょーがないから、胸に何か入れれば?」

マイコがガリを一口食べる。

「もういいのよ。さっきレモネードあげたとき聞いたんだけどさ、タカシくんカリフォーニア行っちゃうんでしょ?」

アズサが「うん」とうなづく。ジローが言う。

「カリフォーニアは遠すぎるよなー」

マイコがキッパリと言う。

「だから、もういいの。アズサ、色々ありがとう。次探すぞー!」

と片手を振り上げた。

「ほら、あんた達も一緒に。次探すぞー!」

アズサとジローは苦笑しながら一緒に片手を振り上げて「おーっ」と言った。
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