第6話 社長と私

文字数 1,747文字

 あのひとが危篤、あのひとの兄から電話がきた。英幸(えいこう)君の名を呼んでいると……
 ちょうど私とふたりだけのときだった。社長はすぐに動いた。私に仕事を任せ英幸君を連れ前妻に会いに行った。
 34歳の若さであのひとは亡くなった。あのひとは海で溺れている子供を助けて死んだ。あのひとらしい。なにより愛した故郷の海があのひとを殺した。

 社長はだんだん仕事に意欲をなくしていった。空を見つめ、ため息をつく。あのひとが亡くなった後遺症か? 私は聞いてみた。
「亜紀がいたから思ったほどのダメージはなかった。いや、ほっとした。幸子が死んでほっとした。もう、誰のものにもならない……なんだかそんな映画があったな。運命の女が死んでくれてほっとした」

 よく外出していた。まさか……恋か? 
 長い休暇を取った。聞いた。問い詰めた。
 女、ですか? と。
「株を買ってくれないか? 私の分」
「女ですか?」
 今度はうなづいた。なにもかも順調な今? 英幸(えいこう)君は権威あるコンクールで入賞した。社長は自慢していた。
「あの娘のことばかり考えている」
 あの娘? 若い女か?
「あんなに荒れて苦しんで、新しい女だって? 亜紀さんを裏切るような、片棒担ぐことなんてできるわけないでしょう」
「亜紀は知ってる」
 社長は娘の写真を見せた。
「手術させたい。幸子が助けた娘だ。この娘のためになんでもしてやりたい」

 あのひとは、かつて社長と英幸君と暮らしていたアパートに住んでいた。男の忘れ形見の息子がいた。まだ2歳だった。あのひとの妹が、社長が私と一緒にしたかったあのひとの妹が、かつて愛した男の忘れ形見を育てている。英幸君そっくりだと、あのひとそっくりだという。
 娘も同じ歳だった。あのひとが自分の息子を遺して助けた娘……

 娘の母親は社長より20も年下で頼りなかった。娘と心中しようとしたのだ。社長は母娘の保護者になり、あのひとが住んでいた部屋に住まわせた。手術ができるようになると近くに呼び寄せ、父親代わりになった。
 社長はあのひとと暮らしていた部屋で、娘の面倒を見ていた。心の中のあのひとと一緒に。


 英幸(えいこう)君が入社した。1年目は小さなアロマショップの販売を任された。彼は1年しかいなかったが売り上げを倍にした。2年目からは研究室で同期の信也君と香りの研究をしていた。試作したラベンダー系の香りは新製品として売り出され、在庫が追い付かないほど売れた。

 社長と英幸君は通販サイトに思いきった広告を入れた。若い娘たちに呼びかけた。
 化粧……美しくなっていく娘たちの映像
 反転……醜く化粧した娘たち、子供たち、男たち……
 アザで悩む者、先天性の顔の奇形……
 ナレーションが入る あのひとが助けた娘の声だ。
「この子たちに救いの手を……」
 手術もできない、貧しい国の子供への寄付の呼びかけ。信也君が、学生時代に旅していた村で出会った、男の子の映像……
 コマーシャルは反響を呼び膨大な寄付金が集まった。それはテレビでも取り上げられ、あのひとが助けた娘は取材に応じた。娘の生い立ち、今の生活、高校での生活。発言する、歌う。踊る。誰にも引けを取らない。生徒が囲む。意地悪な声が聞こえる。怖い……見た? あの顔? 気持ち悪い……娘は顔を上げ、前を向き背筋を伸ばす。
「私はこの顔と生きています……」

 この娘にはあのひとがのりうつった。あのひとが助けたときに生まれ変わった。この娘は銀河系宇宙と性交して生まれたあのひとの娘……

 社長は私に伝言を託した。遺言か? 自分で言えばいいものを。

「亜紀、君はわかっている筈だ。たとえ、君の言うとおり、最期に前妻の名を呼んだとしても、それはそういう病気のせいなのだ。俺は必死でそうならないよう努力するが……そんなふうに思われていたら君より先に死ねないな……できるなら最期は最愛の君に看取られたい。欲を言えば、彩と英幸と望にいて欲しい。そして黙って逝きたいものだ。三島が伝えてくれるだろう。どんなに君を思って恋焦がれて愛していたかを……」




***
 
 望は父親の残した金を受け取らなかった。頑なに拒否した。

 英幸(えいこう)と望は、ある墓の前を通った。英幸が立ち止まり、少しの間手を合わせると、望も真似をした。
「ママの墓掃除をしてくれてた人だよ」


   (了)

 

 
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